天平9年

737 天平9年 春に筑紫から疫瘡(天然痘)が伝染し、夏から秋にかけて大流行。続紀(日本史総合年表)

続日本紀には、この年の春疫瘡大いに起こる。初め筑紫より来たれり。夏を経て秋にい渉り、公卿以下、天下の百姓、あい継ぎて疫死するものあげて計(かぞ)うべからず。近代よりこの方、未だこれ有らざるなり。

天平9年には天然痘が、筑前の大宰府から起こり、死者は数え切れないほど多かった。日本史上、2回目の大流行だった。光明皇后の兄の、藤原氏四兄弟が、ほとんど同時になくなってしまわれた。

天平9年に亡くなられた藤原氏四兄弟

天平9年 04月17日 房前(57歳) 北家の祖
     07月13日 麻呂(43歳) 京家の祖
     07月25日 武智麻呂(58歳) 南家の祖
     08月05日 宇合(44歳) 式家の祖

天平9年に亡くなられた高官

天平9年 04月10日 散位従四位下大宅朝臣大国
     06月11日 太宰府弐従四位下小野朝臣老
     06月23日 中納言正二位多治比眞人懸守
     07月05日 散位従四位下大野王
     07月17日 散位従四位下百済王郎虞
     08月01日 中宮太夫兼正四位下橘宿禰佐為
     08月20日 天智天皇皇女三品水主親王

天平9年

天平9年正月26日  遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂ら京に入る。大使従五位下安部朝臣継麻呂、津嶋に泊りて卒しぬ。副使従六位下大伴宿弥三中、病に染みて京に入ること得ず。

天平9年 04月    紀伊国に疫旱あるを思し召して湯薬を給しこれを振恤せしめらる
     04月17日 参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨しぬ 
     04月19日   太宰府の管内の諸国、疱瘡時行し百姓多く死ぬ。詔して、幣を部内の諸社に奉りて祷らしめたまふ。また、貧疫の家を振恤し、併せて湯薬を給ひて療さしむ。
     05月01日 日食 宮中に於いて僧6000人に大般若経を読誦させる 
     05月19日 詔して曰く、「四月より以来、疫・旱並に行はれ、田苗焦け萎ゆ。是に由りて、山川を祈り、神祇を奠祭らしむれども、効験を得ず。今に至りて猶苦しぶ。朕、不徳を以って実に茲の災を致せり。寛仁を布きて民の患を救はむと思ふ。国郡をして審らかに冤獄を録し。骼を掩 ひて?を埋み、酒を禁めて屠りを断たしむべし。高年の徒と、鰥寡ケイ独と、京内の僧尼・男女の疾に臥せるとの、自存すること能はぬ者に、量りて賑給を加へよ。 
       月  日 夏日照り 田植え出来ず
       月  日 天下に大赦
     06月01日 朝を廃む。百官の官人疾に患へるを以ってなり。
     06月01日には、百官の官人、疫を患う。と言う非常事態を招いて、廃朝とせざるを得なかったほど猛威を振るった。富士川遊博士らは此れを疱瘡、又は疱瘡と麻疹との混合流行ではないかと言っておられる。
     06月26日 太政官符 禁ずべき食物等の事七か条を出して 諸国に防疫対策を指示 
           「天平七年乃至九年に天下に疫病が流行するや、太政官は天平九年六月二十六日附けをもってとくに官符を発し、国民に之が治療法を諭達したのである。」

太政官符東海・東山・北陸・山陰・南海等諸国司、令臥疫之日治身及禁食物等漆條

一、凡是疫病名赤斑瘡、初発之時既似瘧疫、未出前臥床之苦或三四日、或五六日、瘡出之間亦経三四日、肢体府 蔵太熱如焼、当是時欲飲冷水、固忍莫飲、瘡又欲癒熱気漸息、痢患更発、早不治療遂成血痢、痢発之間前或後 無有定期、其共発之病亦有四種、或咳嗽(志波不伎)、或嘔逆(多麻比)、或吐血、或鼻血、此等之中、痢最急、宣 知此意能勤救治
一、以胠布并綿能勒腰腹、必令温和、勿使冷寒
一、鋪設既薄無臥地上、唯於床上敷簀席得臥息
一、粥饘并煎粟汁温冷任意可用好之、但莫食鮮魚完及雑生菓菜
  又不得飲水喫氷、固可戒慎、其及痢之時能煮韮葱可多食
  若成赤白痢者糯粉和八九沸令煎、温飲再三又糯粳糒以飡之、若有不止者用五六度、無有怠緩、其糒舂砕勿令  全固
一、凡此病者定悪飲食、必宣強喫、始従患発、灸火海松并擣塩廔含口中若口舌雖爛可用良之
一、病愈之後、経二十日不得輙喫鮮魚完生菓菜并飲水及洗浴、房室、強行、歩当風雨、若有過犯霍乱必発、更亦  下痢、所謂労発(更動之病名曰労発)兪附扁鵲アニ得禁断
  二十日已後若欲喫魚完、先能煎炙、然後可食
  但乾鰒堅魚等之類煎否皆良、乾脯亦好
  但鯖鯵等魚者雖乾腊慎不可食、年魚者煎炙不可食、其蘇蜜并鼓等不在禁例
一、凡欲治疫病、不可用丸散等薬、若有胸熱者僅得人参湯
以前四月已来京及畿内悉臥疾病多有死亡、明知諸国佰姓亦遭此患、仍條件状、国伝送之、至宜写取、即差郡司主帳已上一人、宛使達前所、無有留滞、其国司巡行部内、告示佰姓、若無粥饘等料者、国司量宜賑給官物、具状申送、今便以官印印之
  符到奉行 天平九年六月二十六日
      小四位下行右大弁       紀朝臣
      従六位下守右大史勲十一等 壬生使主

奈良時代医学史の研究 服部敏良 吉川弘文館


ここからの 太政官符の訳文は高岡市万葉歴史館の川崎晃先生にお願いして現代文にして頂いたものです

太政官が東海・東山・北陸・山陰・南海の諸道の諸国司に、疫病の治療法と禁ずべき食物についての七か条を命令する。

一、この疫病は赤斑瘡という。発病時の症状は、瘧(おこり)(熱病)に似ている。発熱してから発疹が出るまで三・四日、あるいは五・六かかる。瘡(できもの)の出る期間はまた、三・四日続く。全身は焼けるように熱く、冷水をのみたがるが、決して飲ませてはならない。瘡も治ろうとし、熱気も治まるころに、下痢がまたおこり、早く治療しないと、血便になる<出血は下痢の(発病の)当初から、或は後の場合もあり、さだまらない。>併発する症状は四種類あり、咳<しはぶき>。或は嘔吐<たまひ>。或は吐血。或は鼻血である。このうち合併症よりも下痢の治療に最も急がねばならない。この意を周知し、治療に努めよ。

一、広い布と綿で腹・腰によく巻いて、暖かくして冷やしてはいけない。

一、寝具は粗末であろうが、地面に寝かせてはいけない。床に敷物を強いて寝かせなさい。

一、粥、おもゆ、煎り飯、粟汁などは、温冷にかかわらず食べさせなさい。但し、鮮魚や肉や生野菜は食べないように。また水や 氷を採らないように慎みなさい。下痢をしたらニラ(ニンニク)やネギを煮て、大量に食べさせなさい。もし赤白痢(下痢・下血[青木和夫は血便や乳状の便])になれば、糯(もちごめ)の粉を米粉に混ぜて煮て、二度・三度、飲ませなさい。また乾燥したモチゴメやウルチを粥にして食べさせなさい。もし症状がともらなければ五・六度食べさせなさい。気を暖めないように。<モチゴメは細かく砕き、決して荒くしてはいけない。>

一、この病気は飲食をしたがらないが、無理にでも食べさせなさい。発病したら、焼いた海草や搗いた塩をたびたび口に含ませなさい。口や舌が荒れてもおこないなさい。結果はよい。

一、回復後も二十日間は、鮮魚、肉、生野菜を取ることや、生水、水浴、房事、風雨の中を無理に歩いたりすることは慎みなさい。もしこの注意を守らないと、霍乱になって、下痢が再発する。いわゆる「勢発」<再発を「労発」ともいう>がおきれば、兪附・扁鵲のような名医を連れてきても手遅れである。二十日たてば、魚、肉を食べたければ、よく炙ってから食べなさい。ホシアワビやナマリブシ(青木和夫)のたぐい、乾し肉もよい。

但し、鯖や鯵は干物でも食べてはならない。年魚は焼かずに食べてはいけない。蘇(乳製品)や蜜・豉(ようふ)なだは禁止しない(よい)

一、疫病を治そうと思ってら、丸薬・散薬などを服用してはならない。もし熱が引かなければ、人参湯を服用させるのはよい。

四月以来、京・畿内では疫病により死亡者が続出している。諸国の人々の病気の大きいことを知る。そこで、注意を箇条書きにして諸国に伝達する。官符本文は到着次第国府で写し取り、郡司主帳(第四等官)已上一人を使者として、隣国に送付して滞留させてはならない。また国司は部内を巡行して、百姓に内容を告示しなさい。まし粥や重湯にする米がないものがあれば、国司は(正税の倉を開いて)官物を給付しなさい。その使用量を具に記録して印をこれに捺しておく。官符が到着したらすぐに実行しなさい。

正四位下行右大弁 紀朝臣 従六位下守大史勲十一等 壬生使主
 天平九年六月二十六日


典薬寮勘申  疱瘡治方事
 傷寒後禁食
   勿飲水、損心胞掌灸不能臥
   大飲食、病後致死
   又勿食肥魚膩魚膾、生魚類、鯉鮪蝦蛆鯖鯵年魚鱸、令泄痢不復救
   又五辛食之、眼精失不明、又諸生菜菓、
   又生魚食之勿酒飲、泄利菜難治、又油脂物、難治
   又蒜與膾合食、令人損、苽與膾合食、病後発
   又飲酒陰陽復病、死病愈後大忌、大食飲酒酔飲水
 傷寒豌豆病治方
   初発覚欲作、即煮大黄五両服之
   又青木香二両、水三升煮取1升、頓服、又取好蜜通身麻子瘡上
   又黄連三両、以水二升煮取八合、服之、又小豆粉和鶏子白付之
   又取月汁水和浴之   
   又婦人月布拭小児
 豌豆瘡滅瘢
   以黄土未塗之、又鷹矢粉土和于猪脂塗上、又胡粉塗上、又白疅未付之
右依、宣旨勧申
   天平九年六月   日   頭
典薬寮勘申  疱瘡治方事

奈良時代医学史の研究 服部敏良 吉川弘文館


ここからの典薬寮勘申 疱瘡治方事の訳文は高岡市万葉歴史館の  川崎 晃先生にお願いして現代文にして頂いたものです

傷寒後禁食

1、水を飲んではならない
2、食べ過ぎ、飲み過ぎは、死ぬ危険もある。
3、脂肪分の多い魚の膾や、鯉、鮪、蝦・カ、鯖、鯵・年魚・鱸などの生魚を食べてはならない。下痢をする。
4、五種の辛味のある蔬菜を食べると、目に悪い。
5、また、生野菜・果物は火を通すこと。
6、また、生魚を食べたら飲酒してはいけない。下痢が治らない。
7、また脂肪分の多い食物をとると治りにくい。
8、蒜と膾を食べ合わせてはいけない。害がある。
9、瓜と膾の食べ合わせは病気をおこす。
10、飲酒は病気をおこし、死に至らしめる。
11、生野菜を食べるとまた病となり死ぬ危険がある。
12、病後、食べ過ぎ、酒の飲み過ぎ、水の飲み過ぎに注意<汗が出ればよい。>

傷寒豌豆病治方

13、発病したら、大黄五両を煎じて服用させる。
14、青木香二両と水三升を煮て、一升を取って、一度に服用する。
15、良い蜜を痘瘡の瘡(かさ)に塗布する。
16、黄連三両を、水二升と混ぜて煮て、八合を服用させる。
17、小豆粉を卵白に混ぜてこれを塗布する。
18、月経水をとって水に混ぜ入浴する。
19、月布(生理用品)で小児をぬぐう。

天然痘の瘡痕(あばた)の治療法

20、黄土の粉末を塗布する。
21、鷹矢粉土と猪の脂を混ぜて塗布する。
22、胡粉を塗布する。
23、また、白?末を塗布する。
24、蜜を塗布する。

以上、宣旨によって答申する。
天平九年六月 日 頭


     07月    大倭 伊豆 若狭 駿河 長門の諸国に飢疫が有り湯薬を給したまう
     07月23日 天下に大赦す。詔して曰く、「このごろ、疫病多く発ること有るに縁りて、神祇を祈り祭れども猶可きこと得ず。而るに今、右大臣の身体に労有りて、寝膳穏にあらず。朕以て惻隠む。天下に大赦してこの病苦を救ふべし。・・・ 
      07月25日 武智麻呂死す
     08月01日 橘宿彌佐為死す
     08月02日 四幾内・二監と七道の諸国との僧尼をして清浄沐浴せしむ。一月の内に二三ど、最勝王経を読ましむ。また、月の六斎日に、殺生を禁断す。
     08月05日 藤原朝臣宇合死す
     08月13日 詔して曰く、「朕、宇内に君として臨み、稍く多き年を歴たり。而れども風化尚とどこほり、黍庶安からず。よもすがら、寐ぬることを忘れ、憂労茲に在り。また、春より己来、災気にはかに発り、天下の、百姓死亡むること実に多く、百官人等も闕け卒ぬること少なからず。良に朕が不徳に由りて、この災殃を至せり。天を仰ぎて慙ぢ惶り、敢へて寧く処らず。故、百姓を優復し、存済すること得しむべし。天下の今年の租賦と百姓宿負の公私稲とお免す。(疫病を鎮めるため、この年の田租、公私の出擧の利を免ずる。)
聖武天皇が、天を仰いで恥じ入る、として、諸神社に幣帛を捧げる。
     08月15日 為天下太平 国土安寧 於宮中十五処 請僧七百人令転読大般若経最勝王経 度四百人 四畿内七道諸国五百七十八人
     08月20日 三品水主内親王薨しぬ。天智天皇の皇女なり。 
     10月27日 講金光明最勝王経菟卯于大極殿。朝廷儀、一同元旦。請律師道慈為講師、堅蔵為読師。聴衆1百、沙弥1百.
     12月27日 大倭国を改めて、大養徳国とす。
          *是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、勝げて計ふべからず。近き代より以来、これ有らず。

天平のもがさ大流行

天平時代、豪腕ぶりで知られた政治家の長屋王は養老四年(720)、聖武天皇の即位とともに左大臣に任じられ、以来、がっちりと政権を掌握した。藤原不比等の娘を夫人に迎え、閨閥にも目配りを怠らなかったから前途は洋々としているかのごとく思われたが、藤原不比等の息子たち、武智麿呂、房前、宇合、そして麻呂の四兄弟がひそかに策を練っていた。かれらは、藤原家の隆盛をとりもどそうと、異母妹の光明子を皇后にする企てをたてた。それまで皇族以外から皇后が冊立された前例はない。まず難色をしめしたのは長屋王である。そればかりか四兄弟の企てをつぶそうとうごきだした。

天平元年(729)、さる者より朝廷に「長屋王はひそかに左道をまなび、国家をかたむけようとしております」との密告があった。左道というのは、このころ異端視された道教の方術(神仙の術)を称する。当時、左道を会得する物は、朝廷に謀反心を抱く者と同一視されたから、藤原四兄弟はさっそく事実を問いただそうと武装兵を連れて長屋王の邸宅を包囲した。だが、密告をはじめすべては四兄弟の策略だった。不意をつかれた長屋王は、すべてを悟り、もはやこれまで、と観念して夫人を道連れに自殺した。

ここに光明子は、晴れて聖武天皇の内裏におさまり、光明皇后と呼ばれるようになる。不比等四兄弟ものぞみ通り政治の実権をにぎったが、どっこい歴史の歯車はかれらの思惑通りにはうごかなかった。

わが国の疫病は古来、海外からやってきた、もがさ(疱瘡)はインドの北部にはじまり、中国から朝鮮半島へと侵入した。さらに新羅から北九州に渡ったのは天平七年(735)である。まもまく列島を東上して全国にひろがり、天平九年までの3年間、猛威をふるった。「続日本紀}によれば、朝廷は天平九年六月二十六日、諸国にお触れをだして、もがさについての症状や治療法を庶民に周知させた。

天平九年の大流行時には庶民だけでなく、朝廷に伝播して猖獗をきわめた。参議をつとめていた藤原四兄弟も4月から8月にかけて矢継ぎ早やに罹患した。ほどなく武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟はあいついで死亡、同時に朝廷の有力者もほとんど死に絶えた。その惨憺たるありさまに朝廷は廃朝を宣言し、藤原政権はもろくも崩れ去った。こうしてもがさの大流行が日本史の方向をつよく転換させたのである。

大人の疱瘡はこどもより激烈で、しばしば命取りになる。世間から隔絶された場所に住む皇族や貴族は成人して初めて麻疹や疱瘡を患う人が多いから疱瘡の猛威もすざましい。藤原四兄弟をはじめ大勢の朝臣たちもあっけなくこの世を去った。

疱瘡がなぜこんなに強力だったかといえば、先にインカ帝国滅亡の例で述べたように疱瘡ウイルスは感染の処女地を襲うとき、ことに猛威をふるう習性をもつからである。疱瘡をすでに経験したことのある住民の間に流行した場合はさほどでもないが、疱瘡に対する免疫がまったくない地域で蔓延した場合、その惨状のすざましさは筆舌につくしがたい。藤原四兄弟も疱瘡の猛威にはなすすべもなかった。

病気が変えた日本の歴史  篠田達明 生活人選書 NHK出版

古代の疫病治療

古代の人びとは「清浄な身体」に「けがらわしいもの」がとりついたとき、病がこれに乗じておこるのだと考えた。そこで古代人はこのけがれをまじないによってとりさろうとした。まじないを担当したのは呪術師である。呪術師は、みそぎやおはらいによって、病家のけがれをとり除き、病根を絶ち去った。「魏志倭人伝」によれば、倭人は死者がでると十日余り喪に服したあと、遺族が沐浴したと伝えている。これは水を浴びて身体を洗い清めるみそぎのことをいっているようだ。

人びとは「病いはけがれ」と考え、白いものはけがれないから白布や白砂を尊んだ。血をみるのは不浄と思い、生理中の女性を遠ざけた。

また、古代人は、疫病がおこるのは荒ぶる神の神意によるものと解釈した。ここから鬼神を祀り、祝詞を奏して荒ぶる神のたたりを和らげ、病いを近づけぬ工夫をこらした。

朝廷では病気の大もとになる鬼神がやってくるのを避けようと、さまざまな行事が開催された。たとえば鎮花祭りがそのひとつである。花びらが飛散する春、疫神も分散して病いをひろめるので、これを鎮めるために催された行事である。花粉症による鼻アレルギーの人には参考になる催しかもしれない。

庶民もまた病気を追い払うのにまじないに頼った。神に祈ってその神通力により疫をとりのぞこうとした。ニワトリやヒツジの血を塗った布を病人の枕もとにおき、まじないの文字を記した霊符を病人の胸や、病床の下に入れて全快を祈った。はじめは巫女や呪術師がこれをおこなっていたが、5世紀ごろ、仏教が伝来してからは、僧侶による病気退散の読経や加持祈祷がくわわった。

呪術師はその呪術によっていかに病魔を退散させる力をもつか技を競った。呪術師に貢物を献上して、ひきかえに病を治してもらおうという魂胆もあった。さらに後代では陰陽師が活躍する。天武天皇も天文・遁甲の術(人目をまぎらわす妖術)にすぐれていたといわれ、はじめて陰陽寮を設立し占星台をおこしたことで知られる。

昔はなんとばかげた呪詛に頼っていたのだろうと現代人は苦笑するかもしれないが、当時の人は真剣そのものだった。有効な治療手段のない時代、このような神秘的な呪法で疫病にたちむかうほかなかったのだ。

しかし、これら荒唐無稽に思える治療法の中にも、現代からみて理にかなったものがいくつか混じっている。

富士川游の「日本疾病史」によると、その昔、疫病が流行したとき、「青蝿を駆逐して疫を去らしめる法」というものがあった。夏に疫病で死者が出た家で、火酒などを用いてハエを駆除すれば、それ以後、疫病を免れることができると説く法である。ハエや蚊の駆除が予防医学の基本であることであることはいうまでもない。

「疫病に悩める者を遠く離れた場所に送る法」というものがあった。病人を隔離して健康な人を近づけないやり方で、古代ではことに疱瘡の病人に実施されたという。

病気が変えた日本の歴史  篠田達明 生活人選書 NHK出版

ウィキペディアの記事からですが、アジアでの天然痘の流行は、中国では南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録です。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行しました。

日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のパンデミックが見られたと考えられています。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られました。

『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられます。585年には敏達天皇が崩御するが、天然痘によるものではないかという見方もあります。

735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去し、それ以外の高位貴族も相次いで死亡。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行です。

日本の友好国、百済の滅亡が660年、百済の遺民を支援して出兵した倭国の水軍が大敗した白村江の戦いが663年。年代的には日本での最初の流行から約100年後、藤原四兄弟の死の約80年前のことなので、直接的な関係はありません。

ヤフー掲示板より

光明皇后 膿を吸う

『后(光明皇后)快喜し乃ち温室を建て、貴賎をして浴を取らしむ、后又親しく千人の垢を去らんと、君臣此れを憚るも、后の壮志沮むべからず、既にして九百九十九人を竟ふ。最後に一人あり、偏体疹癩息気室に充つ、后垢を去ることを難とし又自ら思ふて言はく、今千数に満つ、豈之を避けんや忍んで背を揩ふ、病人曰く我悪病を受けて此の瘡を患うこと久し。適ゝ良医あり、教えて曰く、人をして膿を吸はしむれば必ず除癒を得んと、而して世上慈悲の者なし、ゆえに我が沈痼此に至る、今后無遮の悲斎を行ず、又孔だ貴し、願はくは后意あらんことゝ、后止むを得ず瘡を吸ひ、膿を吐いて、頂より踵に至る迄皆偏し、后病人に語りて曰く、我汝が瘡を吮ふ。慎んで人に語ることなかれと、時に病人大光明を放って告げて曰く、后阿肉仏の垢を去る、又慎んで人に語るなかれと・・・・・』

(原漢文)

「元亨繹書」にある話として
<奈良時代医学史の研究>服部敏良著 にあります。

(光明皇后が、体中に膿が出ている人の膿を吸ってあげて、その病をお直しになった)というお話です。

鎌倉時代に出来た作り話のようです。

お亡くなりになった後、このような話が出来てくる光明皇后に深い敬愛を覚えます。

天平七・九年の疫病流行

続日本紀・新日本古典文学大系

碗豆瘡は諸病原候論に疱瘡をまた碗豆瘡というとあることから、現在の天然痘と同じ疫病であることは明らかである。延暦九年にもこの疫病が流行したことは、続紀延暦九年是条に、「秋冬京畿男女年三十巳下者、悉発碗豆瘡〈俗云裳瘡〉、臥疾者多其甚者死、天下諸国往々而在」とあって、京畿のみならず諸国にも猛威を振るったことが知られる。本条に言う天平七年の流行は翌八年にはいったんん終息したが、同九年また疫病が蔓延するに至った。この疫病については「疫瘡大発」(九年是年条)とのみあって、病名は記されていないが、後述の天平九年六月二十六日の太政官府に赤班瘡と見えるところから、天平九年の流行病は疱瘡でなく麻疹(現在のハシカ)であり、両者は区別すべきであるとの主張がある(屋代弘賢の麻疹考など)。しかしこの官符のもとになった同年六月の典薬寮勘文には「疱瘡治方事」と見え、また本文のなかにも碗豆病・碗豆疱と病名を記すところから、天平九年の疫病も天然痘と見てよいであろう。もっとも勘文の中に傷寒の治療のことを記すところから、さきの赤班瘡の語と併せて、傷寒は麻疹による熱病をさすとの見解もあるが、傷寒はまた熱病の総称でもあるので、これだけで麻疹と断定するのは今年である。この点で、もし天平九年の疫病が麻疹であるならば、勘文が疱瘡の治方を言うのは矛盾であり、天平の頃、疱瘡と麻疹の症状を明確に認識区別してその処置にあったかは疑わしく、また、もし当時の医家が中国の医学書により一応の症状を承知していたとすれば、天平九年の罹病者の中に麻疹に似た症状を示した者が或いは混じっており、そのためにこのように記したか、とする見解を妥当とすべきであろう(藤川游『日本疾病史』、服部敏良『奈良時代医学の研究』)。

この疫病の感染経路については、古くから中国大陸にその伝染源を求め、中国より朝鮮半島を経由して伝わったとする意見があり、特に天平九年の場合、遣新羅使の帰国と関連付ける見解もあるが、こうした見解は当時の新羅との関係の不安定さをもとにして、新羅を常に偏った感情で見るためで、たまたま疱瘡に感染していた外国人(新羅人とは限らない)の一人と、偶然に接触した日本の舟人や使人によって持ち込まれたと見ても不自然ではないとする説も存するWilliamW.Farris,”Population、Disease,and Land in Early Japan 645-900”)。ただ少なくとも天平九年に帰国した遣新羅使一行の中に感染し者のいたことが(感染の日時・場所・接触者などは不明)確実であろう。彼等の帰国前に既に感染したものがいたであろうが、遣新羅使が蔓延に一役買ったことは否定できまい。この疫病が当時の日本のどの地域まで及んだかは未詳だが、疫病の流行を報告した国は続紀の記事だけでも、大宰府管内諸国、長門、大倭、紀伊、伊賀、若狭、駿河、伊豆と広範囲に及び、蔓延の東進は明らかなので、このほかにかなりの国が疫病に苦しめられたことは確実であろう。

こうした疫病の流行に対し政府のとった対策は、天平七年及び九年の八回に及ぶ賑給とともに、山川や神仏への祈祷、そして疫病鎮圧のための天平九年三月の国分寺創建の詔発令などに窺われるが、この他に天平九年六月二十六日東海道以下六道に疫病などの治療を指示した太政官符の発令がある。これは同年八月に出された典薬寮の勘文に基づいたものであるが、今その前文を掲げ紹介すると次のようである。


太政官符・典薬寮勘申は 川﨑晃先生の丁寧な訳がありますから省略します


太政官符は七箇条からなっており、第一条は疫病の病名と症状を詳しく述べている。第二条以下は治療法についての指示で、第二・三条は罹病者の起居、生活上の注意に触れ、第四・五条は飲食物の細かい指示について述べている。第六条は回復期の処置・心得についてであり、ここでも飲食物について細かい指示をしている。第七条は服用薬物使用を言うが、ここで胸熱がある場合の人参湯の服用以外、丸薬・散薬共に使用を禁じているのは、巷間正体不明の薬物が出回っていたためだろうか。このように七箇条の注意を記した後、この官符の本文は到着次第各国衙で写し取った上、本文は主帳以上の郡司一名に命じて速やかに伝送させる一方、国司は郡内を巡行して百姓に官符の内容を知らせ、重湯や粥にする米のない百姓に対しては、官物を賑給することを命じている。また、この官符が内印を捺さず外印を押すのみで発令されていることは、緊急度の高いことを示している。

典薬寮の勘文は疱瘡治方事として三つの部分より成り立っているが、この処方が唐の孫思選の千金要方等の医書によっていることは既に明らかにされている。三つの部分の第一は傷寒の治療法で八項目に分かれているが、全て飲食に関ることで、中でも飲酒、油脂物の摂取を戒めていること、特定の植物の合食(食べ合わせ)を禁じていることなどに注意される。第二は傷寒に伴う碗豆病の治療法で五項目に分かれているが、大半を占めるのは薬物の摂取についてで、大黄・青木香・黄連などの服用を勧めている。第三は疱瘡のアバタの治療法で、塗布薬物の種類また使用についての指示である。

このような勘文及び官符を読むとき、政府がその治療に懸命であった事が推測されるが、一般農民がこうした治療法に積極的に取り組み、効果をあげえたかといえば、頗る疑問で、新村拓の言うように、疫病の蔓延とあいまって、当時全国的な現象であった天候不順、凶作と言う状況下にあって、官符や勘文が示した小豆粉、鶏卵、蘇蜜などの品々は貧しい農民にとっては入手が極めて困難であったことを知るべきであろう

(新村拓『日本医療社会史の研究』)

なおこの官符は其の後の疫病流行にさいし、拠るべき処置基準とされたことが、水左記承保四年八月九日条の記事などから窺うことができる。