烏梅

「烏梅」は、また「黒梅」とも呼ばれたように、梅の実を煙で黒くいぶしたものである。正徳3年(1713)序刊行の百科事典『和漢三才図会』は烏梅を「布須倍牟女」(ふすべうめ)と説明を施し、その製造法を「造ル法、半黄ナル梅ヲ取テ籃ニ盛リ、突ノ上ニ於テ烟リニ之ヲ薫ヘ烏梅ト為ス」と記している。この烏梅は、薬用や染色に古くから用いられてきた。『延喜式』三七典薬寮の条には「中宮臘月御薬」として「烏梅丸」の名が見えるし、腫れ物や下痢の妙薬として「烏梅湯」としても用いられた。

月ヶ瀬の烏梅はこれとは別に、専ら紅花染め用や紅用に生産されてきた。口碑では、元弘の乱(1331)の際に笠置から後醍醐天皇が落ち延びてきたとき、女官の一部が月ヶ瀬方面に逃げ、その一人姫若(また姫宮、園生姫)が滞留し、世話になった礼として烏梅の製法を教えたという。また前田利家が浪々の身の折り、この地を訪れて天神社境内に多くの梅の実が落ちているさまを見て烏梅を作り、京都に送ったのに始まるとも言う。江戸時代中期に刊行された先の『和漢三才図会』には、烏梅の産地としてまず備後三原が挙げられている。山城のものがこれに次ぐとしているが、月ヶ瀬の名はまだ見えない。ところがやや下って明和年間(1764~1771)から月ヶ瀬の梅林が紀行文に賞賛され始める。このことから推して、18世紀後半にはかなり梅樹が植えられ、烏梅の生産量も伸びてきたものと思われる。

人々は林間の渓谷や空き地を利用して梅の木を植え、烏梅を生産して主な収入源とするようになった。生梅160貫を蒸して乾燥させると約2割止まりの32貫(120kg)の烏梅となる。これを1駄といい、荷馬の背中に16貫ずつ二分して、笠置を越えて京都の染物屋へ送ったという。

月ヶ瀬には八谷といって八つの谷がある。一つの谷に1本ぐらいは、1駄の木といって160貫の梅が採れる大樹があった。人々はこの木を称して「1駄木には米7俵がぶら下がっている」といったという。

平地の少ない急峻な地域の貴重な収入源となっていた烏梅生産も、明治以降安価な化学染料が輸入されるに及び、需要は激減し急速に衰退していった。明治元年(1868)に月ヶ瀬五大字(尾山・長引・嵩・月瀬・桃香野)で820駄ほどあった生産量も、明治17年(1884)には424駄余りとおよそ半減している。転換を迫られた人々は、梅の木を伐り、桑や茶を植えるようになり、梅林は荒廃の様相を呈し始めた。その後、梅林の保護が叫ばれ、保勝会の設立によって名勝の梅林は蘇ったが、烏梅の製造はほとんど絶えてしまった。それでも第二次世界大戦前までは、関わる家族がまだ数件残っていたが、戦後は1軒のみとなった。最後の1軒

烏梅作りを営む最後の1軒となったのが、月ヶ瀬尾山の中西家である。現当主喜祥氏は、大正7年生まれ。「黒梅のおやじ」の愛称で呼ばれている。10歳の頃から祖父喜一郎氏に仕込まれたという。天神さんをお祀りするつもりで、売れても売れなくても烏梅を焼けといわれてきたといい、これさえ作っていれば家の者が安全に暮らしていけると思って続けてきたという。月ヶ瀬梅林の起こりを知るためにも残して置きたいと中西氏は語る。同氏は烏梅を作ることを「梅を焼く」といい、なぜそういうやり方をするのか判らないが、昔からのホウゴト(決まり事)であるとして、伝えられたやり方を頑なに守って、今も黒梅を焼き続けている。その方法はほぼ以下の通りである。(同氏は1995年5月に国選定文化財保存技術「烏梅製造」の保持者として認定された。)

烏梅作りは、ハゲッショ(半夏生、夏至から11日目、7月2日頃)の翌日から始まる。

<梅拾い>

先に引用した『和漢三才図会』には「半黄」の梅を用いるとあるが、ここでは完熟して地面に落ちた梅を早朝拾い集める。「アサメシ前に梅一荷といってテンビン棒にフゴなどをつけて運んだ。落ちたばかりの梅の実は、黄色く色づいて触るとまだ硬い。

<ススマブシ>

事前にカマドや鍋の底に付いたスス(煤)を集めておく(今では薪で風呂を沸かす家で、ススを残しておいてもらう)。カド庭の一郭に丸太3本でミツマタ(モンガリともいう)を組み、これにフジミ(藤と竹で作った箕)を吊り下げる。採ってきた梅の実をここに適量入れ、シュロを束ねた刷毛で水を打つ。こうして梅を湿らせておいてからジュウノウで1杯のススをかけ、箕を前後にゴロゴロとゆすり、万遍なくススが付着するようにする。暫くすると梅の実は黒光りした梅になる。真っ黒になった梅を、割竹を簾状に編んで丸竹で枠をつけたウメスダレ(幅約80㎝長さ約150㎝、いわば蒸籠)に丁寧に並べる。

<カマタキ>

このスダレぐらいの大きさで、深さ70㎝たらずの穴を地面に掘り、これをカマとする。このカマの底でシバやワルキ(割木)を焚きつけ、ある程度燃えると肥料袋一杯の籾殻を火の周囲に埋まるほど入れる。上に梅を並べたスダレを2枚ほど重ね、丸太を一本横に渡してからムシロを全体にかぶせ、水を撒く。カマの中に手を差し入れてはカマの温度を測り、その時の天候によって焚き具合を調節し、一昼夜蒸し焼きにする。

<乾燥>

薫蒸し終わると、スダレをカドに並べて1週間から2週間天日で乾燥させる。乾いて皺の寄った梅はコロコロと音を立てるようになる。この乾燥の工程では、夕立に遭わないように最も天候に気を遣う。

紅花染め

こうして出来上がった烏梅が、紅花染めに用いられる。紅花は山形県最上地方のものが有名である。「半夏の一つ咲き」といって、半夏生に突然にぽっと一輪だけ咲くという。朝露でトゲがまだ柔らかいうちに摘んで、発酵させて、踏んで餅状にしたものが紅餅である。

紅花には紅色素と黄色素が含まれているが、後者が水溶性であるのに対して、前者は水には溶けずアルカリ性の溶液に溶ける。またこれに酸を加えないと染着しない。そこで紅餅を水で何度も振り洗いをして黄色素を出してから、アカザ(藜)の灰汁(アルカリ性)を用いて紅色素を抽出する。この後烏梅を湯に一晩漬けて置いた溶液(酸性)を加え中和させると紅色素は繊維に染着し発色する。この際も徐々に烏梅の溶液を加え何度も染着させると深く美しく染まると言われる。また、紅花染めは寒に染めるのが最も良いと言われる。

月ヶ瀬と山形と遠く離れてはいるが、その風土に結びついた実と花から生まれた成分が、反応しあうことによって、紅花染めの得も言われぬ色合いが、糸の中に定着する。まるで両者呼応するかのように、半夏生からその準備は始まる。

(奈良県教育委員会文化財保存課主査 鹿谷 勲)