白村江

白雉2年6月 新羅の貢調使知万飡(ツマササン)等、唐国の服を着て筑紫に泊つ。朝庭、恣に俗を移せることを悪み、呵責めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣奏請して曰さく、「方今し新羅を伐たずは、後に必ず悔有るべし。其の伐たむ状は、力を挙るをもちゐず。難波津より筑紫海の浦に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈て、新羅を召して其の罪を問はば、得ること廉かるべし」とまをす。

白雉4年夏5月朔  大唐に発遣す大使小山上吉士長丹、副使・・・併せて百二十一人。。又、大使大山下高田首根麻呂、副使・・・。併せて百二十人。秋7月。大唐に遣さるる使人高田根麻呂等、薩摩の曲、竹島の間に船を合りて没死りぬ。

白雉5年2月  大唐に遣す押使大錦上高向史玄理(唐で客死)、大使小錦下河辺臣麻呂、副使大山下薬師恵日、・・・智宗新羅の船で帰る。定恵、劉高徳の船で帰る。他十数人が帰国したが、残りの人たちは海や大陸で死んだ。

夏4月 トカラ国の男二人女二人、シャエの女一人、風に流されて、日向に流れ来る。

秋7月 西海使等、唐国の天使に奉対ひて、多に文書・宝物を得たるを褒美めて、・・・

斉明3年秋7月 トカラ国の男二人、女四人、アマミ島に漂泊し、筑紫に漂泊す。

5年7月  小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣して、唐国に使せしむ。高宗に謁見するも、「国家、来年に必ず海東の政有らむ。汝等倭客、東帰すること得ざら」とのたまふ。ついに、西京に逗め、別所に幽置す。戸を閉し防禁き、東西にすることを許さず。困苦すること年を経ぬ。

6年7月 高麗の沙門道顕の日本記に曰く、「七月に。春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を撃たしめ亡ぼぬ。或 いは曰く、百済、自ずからに亡びぬ。将軍蘇定方等が為に捉ゐられたる百済王より以下、太子隆等、諸の王子十三人、大佐平沙千福・国弁成より以下三十七人、併せて五十ばかりの人、朝堂に奉進る。急に引て天子におもむく。天子恩勅ありて見前にしてゆるしたまふ。

9月 百済、沙弥覚従等を遣して、「今年の7月に、新羅、力をたのみ勢をなして、隣にむつびず。唐人をひきあわせて、百済を傾け覆す。君臣皆とりこにして、ほぼのこるものなし。ここに、百済の遺臣・西部恩率鬼室福信、いかり発憤りて、ニザキノ山に拠る。散らけたるいくさををこつり聚む。兵、前の役に尽きたり。故、棓(ツカナギ・堅い木)を以ちて戦ふ。新羅の軍破れ、百済其の兵を奪う。既にして百済の兵かへりて鋭し。唐敢えて入らず。福信等、遂におなじくにひとを集めて、共に王城を保つ。

冬10月 百済の佐平福信、唐のとりこ一百人をたて献る。また、いくさを乞して救を請ふ。併せて、人質の王子豊璋を迎へて百済の国主となさんとす。

12月 天皇、まさに福信が乞せる意に随ひて、筑紫に幸して救軍を遣らむと思して、まずここに幸し、諸の軍器を備ふ。この年に、百済の為に新羅を伐たむと欲して、すなわち駿河国に勅して船を造らしむ。

7年春正月朔  御船西に征きて、始めて海路に就く。

秋7月朔 天皇、朝倉宮に崩りましぬ。

8月 前将軍大花下阿曇比邏夫連・・・・等を遣して、百済を救はしむ。よりて兵杖(ツハモノ)・五穀を送りたまふ。

12月 唐軍は楼車や戦車を繰り出したが、高麗は非常に寒く、唐兵が膝を抱えて泣いたため、矛先が鈍り攻め取ることが出来なかった。

天智元年春正月朔 百済の佐平鬼室福信に矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千端・ヲシカハ一千張・稲種三千斛を賜ふ。

3月朔 百済王に布三百端を賜ふ。この月に、唐人・新羅人、高麗を伐つ。救をみかどに乞へり。よりて、軍将を遣わしてソルノ城に拠らしむ。是によりて、唐人、その南堺を略むることを得ず。新羅もその西塁をおとすことをえず。

5月  大将軍大錦中阿曇比邏夫連等、船いくさ一百七十艘を率て、豊璋等を、百済の国に送り、勅を宣りて、豊璋等をもちて其の位を継がしむ。又、金策を福信にたまひて、其の背を撫で、褒めて爵禄賜ふ。時に豊璋等と福信と、稽首みて勅を受け、衆、為に涕を流す。

諌言を聞き入れず、避城に都を移す。

この年に、百済を救はむがために、兵甲を修繕め、船舶を備具へ、軍糧を儲設く。

天智2年春2月 新羅人、百済の南畔の四州を焼き、併せて、安徳等が要地を取る。ここに避城、賊を去ること近し。故、勢、居ること能はず。即ち還りて州柔に居り。田来津が所計る如し。

3月  前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂・後将軍阿部引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わして。二万七千人を率いて、新羅を打たしむ。

夏5月朔 犬上君馳せて、兵事を高麗に告げて還る。糺解(クゲ・豊璋)を石城に見る。 糺解、よりて福信が罪を語る。

6月に、前将軍上毛野君稚子等、新羅の沙鼻・岐奴江、二城を取る。百済王豊璋、福信が謀反心有るを嫌ひて、革をもちて掌を穿ちて縛ふ。時に自ら決め難くして、せむすべ知らず。すなわち諸臣に問ひて曰く、「福信が罪、既にかくのごとし。斬るべきやいなや」といふ。ここに達率徳執得の曰さく、「此、悪逆人。ゆるすべからず」とまをす。福信、即ち執得に唾はきかけて曰く、「腐狗痴奴」といふ。王、健児をととのへて、斬りて首を醢(スシ)にす。

秋8月朔 新羅、百済王の己が良将を斬れるを以ちて、直に国に入り、まづ州柔(ツヌ)を取らむことを謀れり。賊の計る所を知りて、諸将にかたりて曰く、「今し聞かく、大日本国の救将廬原君臣、健児万余を率て、正に海を越えて至らむときく。願はくは、諸将軍等、預め図るべし。我自ら待ち饗へむろ欲ふ」といふ。

17日、賊将、州柔に至り、其の王城をかくむ。大唐の軍将、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈れり。

27日、日本の船初づ至れる者と大唐の船師と合戦ふ。日本、まけて退く、大唐、陣を堅めて守る。

28日、日本の諸将と百済王と、気象を観ずして、相謂りて曰く、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍の卒を率て、進みて大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、すなわち左右より船を挟みてかくみ戦ふ。ときのまに(あっという間に)官軍敗績れぬ。水に赴きて溺死者衆し。艫舳廻旋すこと得ず。朴市田来津、仰天ぎて誓ひ、切歯りて嗔り、数十人を殺し、ここに戦死せぬ。この時に百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。

9月朔 百済の州柔しろ、始めて唐に降ひぬ。この時に、国人、相謂りて曰く、「州柔降ひぬ、事、奈何にといふこと無し。百済の名、今日に絶えぬ。丘墓のところ、あに能く復往かむや。但しテレ城に往きて、日本の軍将等に会ひて、事機の要とする所を相謀るべきのみ」といふ。遂に本より枕服岐城に在りし妻子等に教えて、国を去る心を知らしむ。

11日 ムテに発途つ。

13日 テレに至る。

24日 日本の船師と佐平余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、併せて国民等、テレ城に至る。明日に、発船して始めて日本に向かふ。

3年夏5月朔 百済鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物とを進る。入京を許可せず。

冬10月朔 郭務悰等を発遣す勅を宣りたまふ。この日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務悰等に、饗賜ふ。

12月朔 郭務悰等、罷り帰りぬ。

この年に、対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防と烽とを置く。筑紫に、大堤を築き水を貯え、名付けて水城を曰ふ。

4年春2月 百済国の官位の階級を勘考ふ。よりて佐平福信の功をもちて、鬼室集斯に小錦下を授く。また、百済の百姓男女四百人をもちて、近江国神前郡に居く。

3月 神前郡の百済人に田を給ふ。

秋8月 達率答火本春秋を遣して、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野と椽、二城を築かしむ。耽羅、使いを遣して来朝り。

9月朔 唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等といふは、右戎衛郎将上柱百済禰宜軍朝散大夫柱国郭務悰を謂ふ。凡て二百五十四人。七月二十八日に、対馬に至り、九月二十日に、筑紫に至る。二十二日に、表函を進る。

冬10月朔 大きに莬道(ウジ)に閲す。

11月朔 劉徳高等に饗賜ふ。

12月朔 物を劉徳高等に賜ふ。この月に、劉徳高ら罷り帰りぬこの年に、小錦守君大石等を大唐に遣す。

5年冬    百済の男女二千余人をもちて東国に居く。凡て緇と素とえらばず、葵亥の年より起りて三歳に至るまでに、並に官食を賜ふ。

6年11月朔 百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送るれり。

13日 司馬法聡等、罷る帰る。この月に、倭国の高安城、讃吉国山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築く。

7年冬10月 大唐の大将軍英公、高麗を打ち滅ぼす。

8年 10月16日 鎌足死去

この年に、小錦中河内直鯨等を遣して、大唐に使せしむ。又、佐平余自信・佐平鬼室集斯等男女七百余人を以ちて近江国蒲生郡に遷し居く。又、大唐、郭務悰等二千余人を遣せり。

10年正月13日 百済鎮将劉仁願、李守真等を遣して、上表る。

秋7月11日 唐人李守真等、百済使人等、並に罷り帰りぬ。

9月     天皇、みやまいしたまふ。

10月17日  天皇、疾病おもし。

11月10日 対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、「月生ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐四人、唐より来りて曰さく。『唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合て二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知島に泊て、相かたりて曰く、「今し、吾輩が、人船数衆し。たちまちに彼に到らば、恐るらくは、彼の防人驚駭きて射戦はむ」といふ。乃ち道久等を遣して、預めやくやくに来朝る意を披陳さしむ』とまをす。

houbokusさんの説

カクムソウの来日を、唐の征東政策の一環とした、謀略集団と見ています。天智の娘たちの天武への婚姻強要、天智帝に狩猟に事かけての暗殺、大友王子の近江朝弘文帝阻止、天智系豪族への賄賂による翻意、壬申の乱の天武勝利などを工作し、天武が皇位を相続した時点で、帰国している。彼ら大陸人は、反抗した人間は勿論、一族まで殺すのが常套です。今ひとつ、肝心の天武が誰だかわかりません。宝皇女の子で、天智の兄とは信じられません。間違いなく、占領軍最高司令官カクムソウのカイライと考えますが、誰でしょうね。幕末、孝明帝が幕府を庇ったがために薩長に毒殺された。明治維新も、壬申の乱と似たところがありますね。歴史は繰り返す。

天平8年に 鎌足が死に、カクムソウが来ました

天平10年  正月に唐の使いが来た
       9月に天皇発病
      10月 天皇病が重くなる
      11月10日カクムソウ来る
      12月3日天皇、近江宮で崩御

* 唐が大国でも 8年と10年に続けてカクムソウを派遣するとは考えられません
* 日本書紀には8年と10年にカクムソウが来たと書いてあります
* 8年と10年の間に天智天皇がお亡くなりになっています
* カクムソウの来日と 天智天皇の死・藤原鎌足の死・壬申の乱が 大きな関係があるように思えます。
* 大陸の干渉がカクムソウ以前からもあったように思えますが???

661斉明天皇7年1月6日 天皇のお乗りになった船が朝鮮征伐に出発

14日 御船が伊予の熟田津の石湯行宮に停泊しました

この時の歌

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

万葉集 1・8

この歌は額田王の歌

天皇の歌とも書いてあります

不思議な歌

清国の使者 李鴻章

カクムソウと重なるのですが

李鴻章のほうが人物は格段に上でしょうか

謎の女 額田王 だんだん謎が深まります

突然に日本書紀に登場し、あたかも天皇のような歌を読んでいます

熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

しかも天皇自らが多くの船団を従へ 朝鮮征伐に出発した所でこの素晴らしい歌を読んでいます

これからの心配をマッタク感じさせない雄大な歌

気力満々の歌

額田王 益々解かりません

日本書紀にはホトンド出てきませんが 万葉集では大活躍 是も不思議です