白村江
- 2022.03.02
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白雉2年6月 新羅の貢調使知万飡(ツマササン)等、唐国の服を着て筑紫に泊つ。朝庭、恣に俗を移せることを悪み、呵責めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣奏請して曰さく、「方今し新羅を伐たずは、後に必ず悔有るべし。其の伐たむ状は、力を挙るをもちゐず。難波津より筑紫海の浦に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈て、新羅を召して其の罪を問はば、得ること廉かるべし」とまをす。
白雉4年夏5月朔 大唐に発遣す大使小山上吉士長丹、副使・・・併せて百二十一人。。又、大使大山下高田首根麻呂、副使・・・。併せて百二十人。秋7月。大唐に遣さるる使人高田根麻呂等、薩摩の曲、竹島の間に船を合りて没死りぬ。
白雉5年2月 大唐に遣す押使大錦上高向史玄理(唐で客死)、大使小錦下河辺臣麻呂、副使大山下薬師恵日、・・・智宗新羅の船で帰る。定恵、劉高徳の船で帰る。他十数人が帰国したが、残りの人たちは海や大陸で死んだ。
夏4月 トカラ国の男二人女二人、シャエの女一人、風に流されて、日向に流れ来る。
秋7月 西海使等、唐国の天使に奉対ひて、多に文書・宝物を得たるを褒美めて、・・・
斉明3年秋7月 トカラ国の男二人、女四人、アマミ島に漂泊し、筑紫に漂泊す。
5年7月 小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣して、唐国に使せしむ。高宗に謁見するも、「国家、来年に必ず海東の政有らむ。汝等倭客、東帰すること得ざら」とのたまふ。ついに、西京に逗め、別所に幽置す。戸を閉し防禁き、東西にすることを許さず。困苦すること年を経ぬ。
6年7月 高麗の沙門道顕の日本記に曰く、「七月に。春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を撃たしめ亡ぼぬ。或 いは曰く、百済、自ずからに亡びぬ。将軍蘇定方等が為に捉ゐられたる百済王より以下、太子隆等、諸の王子十三人、大佐平沙千福・国弁成より以下三十七人、併せて五十ばかりの人、朝堂に奉進る。急に引て天子におもむく。天子恩勅ありて見前にしてゆるしたまふ。
9月 百済、沙弥覚従等を遣して、「今年の7月に、新羅、力をたのみ勢をなして、隣にむつびず。唐人をひきあわせて、百済を傾け覆す。君臣皆とりこにして、ほぼのこるものなし。ここに、百済の遺臣・西部恩率鬼室福信、いかり発憤りて、ニザキノ山に拠る。散らけたるいくさををこつり聚む。兵、前の役に尽きたり。故、棓(ツカナギ・堅い木)を以ちて戦ふ。新羅の軍破れ、百済其の兵を奪う。既にして百済の兵かへりて鋭し。唐敢えて入らず。福信等、遂におなじくにひとを集めて、共に王城を保つ。
冬10月 百済の佐平福信、唐のとりこ一百人をたて献る。また、いくさを乞して救を請ふ。併せて、人質の王子豊璋を迎へて百済の国主となさんとす。
12月 天皇、まさに福信が乞せる意に随ひて、筑紫に幸して救軍を遣らむと思して、まずここに幸し、諸の軍器を備ふ。この年に、百済の為に新羅を伐たむと欲して、すなわち駿河国に勅して船を造らしむ。
7年春正月朔 御船西に征きて、始めて海路に就く。
秋7月朔 天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
8月 前将軍大花下阿曇比邏夫連・・・・等を遣して、百済を救はしむ。よりて兵杖(ツハモノ)・五穀を送りたまふ。
12月 唐軍は楼車や戦車を繰り出したが、高麗は非常に寒く、唐兵が膝を抱えて泣いたため、矛先が鈍り攻め取ることが出来なかった。
天智元年春正月朔 百済の佐平鬼室福信に矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千端・ヲシカハ一千張・稲種三千斛を賜ふ。
3月朔 百済王に布三百端を賜ふ。この月に、唐人・新羅人、高麗を伐つ。救をみかどに乞へり。よりて、軍将を遣わしてソルノ城に拠らしむ。是によりて、唐人、その南堺を略むることを得ず。新羅もその西塁をおとすことをえず。
5月 大将軍大錦中阿曇比邏夫連等、船いくさ一百七十艘を率て、豊璋等を、百済の国に送り、勅を宣りて、豊璋等をもちて其の位を継がしむ。又、金策を福信にたまひて、其の背を撫で、褒めて爵禄賜ふ。時に豊璋等と福信と、稽首みて勅を受け、衆、為に涕を流す。
諌言を聞き入れず、避城に都を移す。
この年に、百済を救はむがために、兵甲を修繕め、船舶を備具へ、軍糧を儲設く。
天智2年春2月 新羅人、百済の南畔の四州を焼き、併せて、安徳等が要地を取る。ここに避城、賊を去ること近し。故、勢、居ること能はず。即ち還りて州柔に居り。田来津が所計る如し。
3月 前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂・後将軍阿部引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わして。二万七千人を率いて、新羅を打たしむ。
夏5月朔 犬上君馳せて、兵事を高麗に告げて還る。糺解(クゲ・豊璋)を石城に見る。 糺解、よりて福信が罪を語る。
6月に、前将軍上毛野君稚子等、新羅の沙鼻・岐奴江、二城を取る。百済王豊璋、福信が謀反心有るを嫌ひて、革をもちて掌を穿ちて縛ふ。時に自ら決め難くして、せむすべ知らず。すなわち諸臣に問ひて曰く、「福信が罪、既にかくのごとし。斬るべきやいなや」といふ。ここに達率徳執得の曰さく、「此、悪逆人。ゆるすべからず」とまをす。福信、即ち執得に唾はきかけて曰く、「腐狗痴奴」といふ。王、健児をととのへて、斬りて首を醢(スシ)にす。
秋8月朔 新羅、百済王の己が良将を斬れるを以ちて、直に国に入り、まづ州柔(ツヌ)を取らむことを謀れり。賊の計る所を知りて、諸将にかたりて曰く、「今し聞かく、大日本国の救将廬原君臣、健児万余を率て、正に海を越えて至らむときく。願はくは、諸将軍等、預め図るべし。我自ら待ち饗へむろ欲ふ」といふ。
17日、賊将、州柔に至り、其の王城をかくむ。大唐の軍将、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈れり。
27日、日本の船初づ至れる者と大唐の船師と合戦ふ。日本、まけて退く、大唐、陣を堅めて守る。
28日、日本の諸将と百済王と、気象を観ずして、相謂りて曰く、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍の卒を率て、進みて大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、すなわち左右より船を挟みてかくみ戦ふ。ときのまに(あっという間に)官軍敗績れぬ。水に赴きて溺死者衆し。艫舳廻旋すこと得ず。朴市田来津、仰天ぎて誓ひ、切歯りて嗔り、数十人を殺し、ここに戦死せぬ。この時に百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。
9月朔 百済の州柔しろ、始めて唐に降ひぬ。この時に、国人、相謂りて曰く、「州柔降ひぬ、事、奈何にといふこと無し。百済の名、今日に絶えぬ。丘墓のところ、あに能く復往かむや。但しテレ城に往きて、日本の軍将等に会ひて、事機の要とする所を相謀るべきのみ」といふ。遂に本より枕服岐城に在りし妻子等に教えて、国を去る心を知らしむ。
11日 ムテに発途つ。
13日 テレに至る。
24日 日本の船師と佐平余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、併せて国民等、テレ城に至る。明日に、発船して始めて日本に向かふ。
3年夏5月朔 百済鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物とを進る。入京を許可せず。
冬10月朔 郭務悰等を発遣す勅を宣りたまふ。この日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務悰等に、饗賜ふ。
12月朔 郭務悰等、罷り帰りぬ。
この年に、対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防と烽とを置く。筑紫に、大堤を築き水を貯え、名付けて水城を曰ふ。
4年春2月 百済国の官位の階級を勘考ふ。よりて佐平福信の功をもちて、鬼室集斯に小錦下を授く。また、百済の百姓男女四百人をもちて、近江国神前郡に居く。
3月 神前郡の百済人に田を給ふ。
秋8月 達率答火本春秋を遣して、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野と椽、二城を築かしむ。耽羅、使いを遣して来朝り。
9月朔 唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等といふは、右戎衛郎将上柱百済禰宜軍朝散大夫柱国郭務悰を謂ふ。凡て二百五十四人。七月二十八日に、対馬に至り、九月二十日に、筑紫に至る。二十二日に、表函を進る。
冬10月朔 大きに莬道(ウジ)に閲す。
11月朔 劉徳高等に饗賜ふ。
12月朔 物を劉徳高等に賜ふ。この月に、劉徳高ら罷り帰りぬこの年に、小錦守君大石等を大唐に遣す。
5年冬 百済の男女二千余人をもちて東国に居く。凡て緇と素とえらばず、葵亥の年より起りて三歳に至るまでに、並に官食を賜ふ。
6年11月朔 百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送るれり。
13日 司馬法聡等、罷る帰る。この月に、倭国の高安城、讃吉国山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築く。
7年冬10月 大唐の大将軍英公、高麗を打ち滅ぼす。
8年 10月16日 鎌足死去
この年に、小錦中河内直鯨等を遣して、大唐に使せしむ。又、佐平余自信・佐平鬼室集斯等男女七百余人を以ちて近江国蒲生郡に遷し居く。又、大唐、郭務悰等二千余人を遣せり。
10年正月13日 百済鎮将劉仁願、李守真等を遣して、上表る。
秋7月11日 唐人李守真等、百済使人等、並に罷り帰りぬ。
9月 天皇、みやまいしたまふ。
10月17日 天皇、疾病おもし。
11月10日 対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、「月生ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐四人、唐より来りて曰さく。『唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合て二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知島に泊て、相かたりて曰く、「今し、吾輩が、人船数衆し。たちまちに彼に到らば、恐るらくは、彼の防人驚駭きて射戦はむ」といふ。乃ち道久等を遣して、預めやくやくに来朝る意を披陳さしむ』とまをす。
houbokusさんの説
カクムソウの来日を、唐の征東政策の一環とした、謀略集団と見ています。天智の娘たちの天武への婚姻強要、天智帝に狩猟に事かけての暗殺、大友王子の近江朝弘文帝阻止、天智系豪族への賄賂による翻意、壬申の乱の天武勝利などを工作し、天武が皇位を相続した時点で、帰国している。彼ら大陸人は、反抗した人間は勿論、一族まで殺すのが常套です。今ひとつ、肝心の天武が誰だかわかりません。宝皇女の子で、天智の兄とは信じられません。間違いなく、占領軍最高司令官カクムソウのカイライと考えますが、誰でしょうね。幕末、孝明帝が幕府を庇ったがために薩長に毒殺された。明治維新も、壬申の乱と似たところがありますね。歴史は繰り返す。
天平8年に 鎌足が死に、カクムソウが来ました
天平10年 正月に唐の使いが来た
9月に天皇発病
10月 天皇病が重くなる
11月10日カクムソウ来る
12月3日天皇、近江宮で崩御
* 唐が大国でも 8年と10年に続けてカクムソウを派遣するとは考えられません
* 日本書紀には8年と10年にカクムソウが来たと書いてあります
* 8年と10年の間に天智天皇がお亡くなりになっています
* カクムソウの来日と 天智天皇の死・藤原鎌足の死・壬申の乱が 大きな関係があるように思えます。
* 大陸の干渉がカクムソウ以前からもあったように思えますが???
661斉明天皇7年1月6日 天皇のお乗りになった船が朝鮮征伐に出発
14日 御船が伊予の熟田津の石湯行宮に停泊しました
この時の歌
この歌は額田王の歌
天皇の歌とも書いてあります
不思議な歌
清国の使者 李鴻章
カクムソウと重なるのですが
李鴻章のほうが人物は格段に上でしょうか
謎の女 額田王 だんだん謎が深まります
突然に日本書紀に登場し、あたかも天皇のような歌を読んでいます
熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
しかも天皇自らが多くの船団を従へ 朝鮮征伐に出発した所でこの素晴らしい歌を読んでいます
これからの心配をマッタク感じさせない雄大な歌
気力満々の歌
額田王 益々解かりません
日本書紀にはホトンド出てきませんが 万葉集では大活躍 是も不思議です