記紀の植物一覧

畔を毀す(はな)つは、畔(あ)田の畦(境界)を壊すこと。人の犯す農業妨害の罪。これも天津罪の一つ。(紀・天照大神・新編)

あいみがは

藍見河(アヰミガハ)岐阜県の長良川の一部の古称とされている。(記・葦原中国平定) 岐阜県の長良川中流。この神話の舞台は出雲の国だから、ずいぶん遠くへ飛んだことになる。(記・葦原中国平定・三浦佑之)

あおかき

青垣 倭の青垣の東の山上は、大和の青垣山の東の山の点の意で、桜井市の三輪山の上を言う。(記・大国主神・次田真幸) 原文「倭の青垣」とあり、青垣はヤマトのほめ言葉。山に囲まれた土地がすばらしいと考えているのである。(記・大国主命・三浦佑之)  大和の四周を垣のように取り囲む青い山をいう。(紀・景行天皇・次田真幸)    大和の山々を、青々と樹木の茂っている垣根と表現した。大和を、その山々をめぐらしてこもっているというのは、聖性を帯びた地としてたたえるもの。(紀・景行天皇・新編)

あおかし  クスノキ科

青橿 ホソバタブ 近畿、中国地方、四国、九州、沖縄、小笠原、朝鮮南部。台湾に分布。高さ10メートルから15メートルに成り、建築や家具、器具として用いられる。 紀・神代七代。面足尊(オモダルノミコト)の別名として出ている。

あおくさ

青草(アヲクサ) (紀・天照大神・新編)

あおきみけし

青き御衣(アオキミケシ)(記・大国主神・新編)

あおくさ

青草(アオクサ)  (紀・天照大神・新編)

あをな

蕪菁(アヲナ) (紀・持統天皇7年春3月17日・新編)

あおはのやま

青葉の山(アオハノヤマ) 青葉の山を飾り=青葉の木を切って、山のように飾りの意。御子を神として迎えるための儀礼。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)

あおふしがき→あをふしがき

あおやま

青山 (記・紀・天照大神)(記・大国主神・次田真幸)ーーーーー→あをばのやま(青葉の山)

あかいきぬ

赤い衣(アカイキヌ) 八十歳を過ぎた赤猪子が赤い着物を着ていた。(紀・雄略天皇・三浦佑之) →にずりのそで

あかかがち

赤かがち 赤く熟した酸漿(ホオズキ)(記・天照大神・次田真幸) 赤いッホオズキの実。「酸醤」は「酸漿」とも書く。「酸」は汁の酸味。「醤」はヒシオ(醤油のもろみ)でホオズキの汁中の多量の種子の着目した表記。「漿」はコミズ(濃水、おもゆ)で、ホオズキの糊状の汁の着目した表記。大蛇の眼の赤さを、ホオズキの実にたとえる。(紀・天照大神・新編)  鮮紅色の球体のほおずきを比喩に用いたのだが、『書紀』神代下の一書にも、猿田彦の目を赤酸漿(アカカガチ)にたとえた例がある。(記・天照大神・新編)(紀・ニニギノミコト・新編)→ほおずき

あかきひも

紅き紐(アカキヒモ)紅き紐着けし青摺の衣。官人の正装 (記・仁徳天皇・次田真幸)(記。雄略天皇・次田真幸)

あかはた

赤幡(アカハタ)大刀の下げ緒に使う赤い布切れ。(記・清寧天皇・新編)  戦陣における天皇旗は赤旗であった。(紀・清寧天皇・次田真幸)

あかひきのいと

赤引糸(アカヒキノイト) 赤い色を帯びた美しい糸。毎年五月三十日に伊勢神宮の調倉に収納し、翌年四月に神服織(カンハトリ)・神麻績(カンオミ)の織女八人ずつが神衣につくりに作り、孟夏四月の神衣祭(カンミソサイ)の料にする。(紀・持統天皇6年5月13日・新編)

あかむらさき

赤紫(アカムラサキ)  (紀・持統天皇4年4月14日・新編)

あき

秋   記は豊雲野神(国之常立神の次に現れた神)) 紀は豊秋津島(イザナキ)

あきぐひのうしのかみ

飽咋之宇斯能神 「あきぐひ」は、口を開けて穢れを食う意であろう。「うし」は「主」の意。(記・イザナキ・次田真幸)

アキグヒ(食い飽きること)+ノ+ウシ(主)(記・イザナキ・新編)

あきのみのり

秋稔(アキノミノリ) (続日本紀・景雲元年8月28日・新日本古典文学大系) 秋の取り入れ(続紀・霊亀元年10月7日・宇治谷孟)(続紀・養老4年3月17日・大系) 秋稼(続紀・神亀4年冬10月2日・大系)

あけ

真緋(アケ)   (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編) 緋(アケ)(紀・天智天皇6年閏11月・新編)

あげた

高田(アゲタ) (記・火遠理命・次田真幸)(紀・火火出見尊・新編)

あげはり

帷幕(アゲハリ) テントのような構造の仮屋。(紀・応神天皇・次田真幸) テントのような仮小屋。柱を立て、胸や桁をわたして、それを幔幕で覆ったもの。(紀・応神天皇・三浦佑之)

あきき

秋葱(アキキ)  秋の葱は一茎の中に二本の茎が含まれていることがあるので、「身の二ごもり」の比喩に用いる。(紀・仁賢天応・新編)

あさ

麻(アサ) (続紀・天平神護2年6月3日・新日本古典文学大系)

あさえびそめ

浅葡萄(アサエビソメ)  (紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)

あさじのはら

浅小竹原(アサジノハラ)  丈の低い篠原(古事記・景行天皇・新編)

あさぢはら

浅茅原(アサヂハラ) 丈の低い茅原、の意。若い茅であるから「弟日オトヒ」を導く序。 (紀・顕宗天皇・新編)

あさぬの

麻布(アサヌノ) (記・仁徳天皇・三浦佑之)

あさのいと

麻糸  (記・神武天皇・三浦佑之)

あさのきぬ

喪服(アサノキヌ)   (紀・持統天皇元年9月23日・新編)

あさのみそ

素服(アサノミソ) 「素服」の用字は常に喪服の意を表す。白い、麻で織った衣服。(紀・仁徳天皇・新編) (紀・允恭天皇・新編)

あさはなだ

浅縹(アサハナダ)  (紀・持統天皇4年4月14日・新編)

あさみどり

浅緑(アサミドリ) (紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)(紀・持統天皇4年4月14日・新編)

あさむらさき

浅紫(アサムラサキ)  (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)(紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)

あしかび

葦芽(アシカビ) イネ科 カビは芽のこと。アシの芽が大地を突き抜けて萌え出てくるところに、生命力の根源を感じていているのである。(記・天地開闢・三浦佑之)
「牙」は「芽」に通じる。カブはカビ(黴)と同源で、芽生えたものの意。(記・天地開闢・新編)

葦 葦牙 記紀冒頭に出る(記・安康天皇・新編)

あしきぬ

絁(アシキヌ) (紀・孝徳天皇大化の改新・新編)(紀・天武天皇14年冬10月8日・新編)(紀・天武天皇14年11月2日・新編)(紀・天武天皇14年12月16日・新編)(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)(紀・天武天皇朱鳥元年春正月16日・新編)(紀・持統天皇正月15日・新編) (紀・持統天皇4年7月14日・新編) (紀・持統天皇4年10月22日・新編)(紀・持統天皇5年春正月14日・新編)(紀・持統天皇5年春5月21日・新編)(紀・持統天皇6年5月4日・新編)(紀・持統天皇7年春正月月13日・新編)(紀・持統天皇7年春3月16日・新編)(紀・持統天皇8年3月11日・新編)(紀・持統天皇8年12月10日・新編)(紀・持統天皇10年夏4月27日・新編)(続日本紀・文武天皇元年正月8日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝元年正月14日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝元年8月7日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝3年冬10月25日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬5月10日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬6月11日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲2年9月26日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年正月13日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年5月15日・新日本文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏5月15日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏冬10月24日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅元年夏11月25日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅2年5月27日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅3年7月7日・体系)(続紀・和銅4年7月5日・新日本文学大系)(続紀・和銅4年7冬10月23日・新日本文学大系)(続紀・和銅5年2月19日・新日本文学大系)(続紀・和銅5年7月17日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅6年6月19日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅7年春正月25日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅7年2月3日・新日本文学大系)(続紀・霊亀元年9月2日・大系)(続紀・養老元年5月8日・大系)(続紀・養老元年11月10日・大系)(続紀・養老元年11月17日・大系)(続紀・養老2年2月19日・大系)(続紀・養老5年正月27日・大系)(続紀・養老5年6月22日・大系)(続紀・養老7年10月23日・大系)(続紀・神亀元年夏4月3日・大系)(続紀・神亀元年夏4月14日・大系)(続紀・神亀元年秋7月13日・大系)(続紀・神亀2年秋11月10日・大系)(続紀・神亀3年9月27日・大系)(続紀・神亀5年3月3日・大系)(続紀・神亀5年冬10月20日・大系)(続紀・神亀5年冬11月13日・大系)(続紀・天平元年冬春正月日・大系)(続紀・天平元年春正月21日・大系)(続紀・天平元年冬春正月日・大系)(続紀・天平元年3月23日・大系)(続紀・天平元年夏4月3日・大系)(続紀・天平元年8月5日・大系)(続紀・天平元年8月24日・大系)(続紀・天平2年正月16日・新日本古典文学大系) (続紀・天平6年3月15日・体系) (続紀・天平9年12月27日・体系)(続紀・天平12年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平14年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平14年8月5日・新日本古典文学大系)(続紀・天平16年8月5日・新日本古典文学大系)(続紀・天平勝宝閏5月11日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝冬10月15日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝2年2月4日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝2年12月5日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝6年冬10月14日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字元年8月18日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字2年27月18日・新日本古典文学体系)(天平宝字3年11月4日・新日本古典文学大系)(天平宝字4年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字4年8月26日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年6月23日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年9月30日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年10月14日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年6月13日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年10月26日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年2月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年6月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年9月11日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀元年3月4日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年5月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年10月9日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年3月18日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年11月21日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年2月2日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年10月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀7年4

月15日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年正月21日・(続紀・宝亀9年11月20日・新日本古典文学大系)新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀10年9月27日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦2年正月4日・新日本文学大系)(続紀・延暦2年7月25日・新日本文学大系)(続紀・延暦4年3月9日・新日本文学大系)

きうのう

あしなだかのかみ

葦那陀迦神(アシナダカノカミ)(記・大国主神・次田真幸)

あしはら

葦原(アシハラ) (記・神武天皇・次田真幸)(紀・崇峻天皇前・岩波大系)(紀・天武天皇7年冬10月・新編)

あしはらしこをのみこと

葦原色許男命(アシハラシコヲノミコト) 書紀に「葦原醜男」と記している、「醜男」は頑強な男の意。葦原中国を代表する強い男の意。(記・天照大神・次田真幸)
須佐之男神が呼び表した名。葦原中国の勇猛な男の意。(記・天照大神・新編)=大国主神(記・大国主・次田真幸)(記・大国主命・三浦佑之)=大穴牟遅神=八千矛神=宇都志国玉神

あしはらのちいほあきのみずほのくに

葦原千五百秋瑞穂国(アシハラノチイホアキノミズホノクニ) →とよあしはらのちいほあきのみずほのくに

あしはらのなかつくに

葦原の中つ国(あしはらのなかつくに) 地上世界をいう。中つ国(中国)は、中華中国の「中華」(真ん中がすばらしい世界であることをいう)というより、天(高天の原)と地下)黄泉の国)との間にある国の意であろう。葦原はアシの繁っている原の意だが、不毛のというのではなく、繁栄したさまをいうほめ言葉である。(記・天地開闢・三浦佑之)(紀・イザナキ・新編)(紀・天照大神・新編)(紀・大国主命・三浦佑之)(記・葦原中国平定・)(記・邇邇芸命・次田真幸)(記・神武天皇・次田真幸)

あしふね

葦船 葦船に入れて流す話には、古代の水葬の風習が反映しているらしい。また蛭と葦はともに沼沢に関係が深く、しかも蛭は水田耕作をする農民に嫌われたことであろう。(記・イザナキ・次田真幸)   葦の葉を編んで造った船。葦は邪気を払うので、葦船で蛭子の邪気を流して捨てるのである。大祓の思想性もある。(紀・イザナキ・新編)

あすかのきぬぬひべ

飛鳥衣縫部(アスカノキヌヌヒベ)  大和国高市郡飛鳥に住んだ衣縫の品部。この飛鳥衣縫部の祖樹葉(コノハ)の家を壊して法興寺(今の飛鳥寺)を立てる。(紀・雄略天皇・新編)

あずまぎぬ

東絁(アズマギヌ) (続紀・宝亀10年5月26日・新日本古典文学大系)

あた

吾田(アタ) 鹿児島県薩摩半島西南部の加世田市辺。(紀・邇邇芸命・新編)

あたかしつひめ

吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)(紀・邇邇芸命・新編) →このはなさくやひめ

あたね

「茜」という説と、「藍蓼」のヰが脱落したもので「蓼藍」とする説がある。(記・大国主神・次田真幸)  アタネはアカネ(茜)の転と見られる。山の方に蒔いた茜をつき(記・大国主神・新編)

あちき

阿直岐(アチキ) 百済王の使いで良馬二匹を貢る。 太子菟道稚郎子(ヒツギノミコウヂノワクノイラツコ)の師となる。(紀・応神天皇。新編)

あぢすきたかひこねのかみ

阿遅?高日子根神(アヂスキタカヒコネノカミ)「あぢ」は美称で、農具の?(スキ)を神体とする農耕神であって、雷神として信仰されたらしい。(記・大国主神・次田真幸)(紀・大国主命・三浦佑之)(紀・葦原中国平定・)

あぢしきたかひこねのかみ

阿遅志貴高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)=阿遅?高日子根神(記・大国主神)(記・葦原中国平定)→あぢすきたかひこねのかみ

あぢすきたかひこねのかみ

味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネノカミ) 立派な?スキ(鋤)の、高く輝く男性。実態は雷神で、女神の場合は「高姫」。「味耜」は「高彦根」の美称と考えられ、「耜」は田を鋤(ス)く農具であり、刀剣の一種でもあるから、これは刀剣と雷神との結合した神名。(紀・葦原中国平定・新編)(紀・邇邇芸命・新編)→あぢしきたかひこねのかみ

あぢまさ

檳榔(アヂマサ) 蒲葵(ホキ)の古名。ヤシ科の常緑高木で、古くは南紀や瀬戸内海沿岸にも生育した。(古事記・垂仁天皇・次田真幸) 沖縄ではクバと呼び、神木として神聖視している。(記・仁徳天皇・次田真幸)→ビンロウジュ

あづき

小豆(アヅキ) 大宜津比売神の鼻に生る。(記・天照大神・新編)  保食神の陰(ホト)に生える。紀・(新編) 記・天照大神(次田真幸)(紀・イザナキ・新編)

あづきしま

小豆島(アヅキシマ) 香川県の小豆島。粟・吉備・小豆はいずれも穀物にちなんだ地名。(記・イザナキ・次田真幸)(記・イザナギ・新編)

あづさゆみ

梓弓(アヅサユミ) (紀・応神天皇・新編)(記・允恭天皇・新編)

あつた

熱田(紀・天照大神・新編)

あづまのあしぎぬ

東絁(アヅマノアシギヌ) 東国産の絁(続紀・天平14年正月7日・新日本古典文学大系)

あなはとり

穴織(アナハトリ)  (紀・応神天皇・新編)→くれはとり

あは

粟(アハ) 大宜津比売神の二つの耳に生る。(記・天照大神・新編) 保食神の額に生る。(紀・天照大神・新編)(古事記・垂仁天皇・新編)(紀・崇神天皇48年正月。新編)  禾(アハ)(紀・欽明天皇23・岩波大系)(続日本紀・景雲3年2月16日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅元年7月16日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅6年9月17日・新日本文学大系)(続日本紀・霊亀元年5月25日・新日本文学大系)(続紀・霊亀元年10月7日・大系)およそ粟というものは、永く貯蔵しても腐らず、いろいろの穀物の中で最もすぐれたものである。(続紀・霊亀元年10月7日・大系宇治谷孟)(続紀・養老元年11月10日・大系)(続紀・養老3年9月22日・大系)

あはのくき

粟の茎(アハノクキ) 「淡」と「粟」との同音が重点。淡島からの音の連想だけでなく、少彦名命の極めて小さい身体を示すためにも粟の茎である必要があった。(紀・天照大神・新編)

あはきはら

阿波岐原(アハキハラ) 「阿波岐原」は木の名。(記・イザナキ・次田真幸)  檍(アハキ)、万年木マンネンボクとはカシ(橿)の木であるが、このアハキがはたしてどの植物に当るか、不詳。(紀・イザナキ・新編)

あはぢのほのさわけのしま

淡道之穂之狭別島(アハヂノホノサワケノシマ) 淡路島(記・天地開闢・新編)

あはなち

毀畔(アハナチ) 他の畔(アゼ境界)を壊すこと。ハナチは毀す意。人の犯す農事妨害の罪。これも天津罪の一つ。(紀・天照大神・新編)  阿離(アハナチ)田の境の畔を壊して稲作を妨害すること。(記・仲哀天皇・次田真幸)

あはのくに

粟国(アハノクニ) 四国全体をさすこともあるが、ここでは徳島県。(紀・天照大神・新編)   徳島県(記・天地開闢・新編)

あはのくき

粟の茎(アハノクキ)  (紀・大国主命・新編)・新編)

あはのと

粟門(アハノト)  四国阿波国と淡路島との間の鳴門海峡。(紀・イザナキ・新編)

あはのしま

淡洲(アハノシマ)アハム(忌みにくむ、軽蔑する)をきかせる。この島を紀淡海峡の友が島周辺の粟島や和歌山市加太の淡島に比定する説もあるが未詳。(紀・イザナキ・新編)

あはふ

粟生(アハフ) 粟畑。「生フ」は「芝生」「蓬生ヨモギフ」などのように、植物の群生する場所をいう。(記・神武天皇・次田真幸) 粟畑。フ(生)は植物の群生地の意。(記・神武天皇。新編)   (紀・邇邇芸命・新編)

あへ

贄(アヘ) 神や貴人に差し上げる御馳走。(記・葦原中国平定・三浦佑之)(記・神武天皇・次田真幸)→あへ →あめのみあへ

あまかし

甜白檮(アマカシ)  (紀・垂神天皇。新編)

あまつくめのみこと

天津久米命(アマツクメノミコト) 久米直(クメノアタヒ)らの祖先 久米直は久目部を率いて大伴氏に従属し、宮廷の軍事に従った伴造。(記・邇邇芸命・次田真幸)→くめのあたひ

あまつそらとよあきづねわけ

天御虚空豊秋津根別 「天御虚空」は「虚空津日子」の場合と同様の美称。(記・イザナキ・次田真幸)

あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコフナサタケウカヤフキアヘズノミコト)(記・火遠理命)  渚に建てた鵜の羽の屋根が葺き終っていない子という名。物語の内容を背負った名を持つ深名は他にもあった。アマツヒコは天つ神の子孫を表すほめ言葉。(記・火遠理命・三浦佑之)→うかやふきあへずのみこと

あまつひこひこほのににぎのみこと

天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト) 「天津彦」は天神の立派な男子。「彦火瓊瓊杵」は立派な男子たる、稲穂が賑々しい男性の意。父天忍穂耳尊も稲穂に由来する名。記は「天邇岐志国邇来志アメニキシクニニキシ」(天にも親しい地にも親しい)を冠する。(紀・葦原中国平定・新編) 天津日子番能邇邇芸命・(記・邇邇芸命・次田真幸) 天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト)(紀・邇邇芸命・新編)

あまつひこねほのににぎねのみこと

天津彦根火瓊瓊杵根尊(アマツヒコネホノニニギネノミコト) 「天津彦根」は天神の男性の称辞。「根」は親愛の意の接尾語。神名の本体は「火瓊瓊杵根尊」で、この「根」も親愛の意。(紀・邇邇芸命・新編)

あまつひもろき

天津神籬(アマツヒモロキ) 天上界から神の降臨する森の垣。ヒは「霊ヒ」、モロは森。キは「垣カキ」のカの脱か「神籬」は訓字とみられる。。(紀・ニニギ・新編)

あまのあらと

天糠戸(アマノアラト) 名義未詳。「糠、ヌカ、アラ」は、もみがらの意。研磨剤に基づく名か.粗砥アラトの意かとする説もある。(紀・天照大神・新編)

あまのいはくすぶね

天盤?樟船(アマノイハクスブネ) 「天」は天界の、「盤」は頑丈な、の意の美称。「?樟」は「豫樟」におなじくクスノキ。杉と?とを「浮宝」とすべきことを述べる。なお、考古学的調査により、クスは古代船の船材として多用されていることが知られている。(紀・イザナキ・新編)

あまのうずめのみこと

天鈿女命(アマノウズメノミコト) 鈿ウズ(髪飾り)をした女の神。心霊の依代(ヨリシロ)である植物で髪飾りをし、自身も神懸りになる巫女として描かれている(紀・天照大神・新編)

あまのおしほねのみこと

天忍穂根尊(アマノオシホネノミコト) 第六段一書第一に「正哉吾勝勝速日天忍骨尊」とあった。「忍骨」は「忍穂穂」か。正文ではこの部分が「忍穂耳」で、これは「忍穂霊霊ミミ」の意。(紀・邇邇芸命・新編)

あまのかきた

天垣田(アマノカキタ) 番小屋を置いて垣で囲った神殿、の意か。(紀・天照大神・新編)

あまのかはよりだ

天川依田(アマノカハヨリダ) 天上界の川沿いの田。川の増水ですぐ冠水する。(紀・天照大神・新編)

あまのくちとだ

天口鋭田(アマノクチトダ) 未詳。他の取水口や排水口の水流の速い田とも、朽チ速トで、損傷の早い田の意ともいう。(紀・天照大神・新編)

あまのくひだ

天?田(アマノクヒダ) 天上界の木の切り株の多い田。(紀・天照大神・新編)

あまのさだ

天狭田(あまのさだ) 最初に作った田だから、狭小だった。サはサネヘ、サツキなどのサと同意とする説もある。(紀・イザナキ・新編)

あまのひらた

天平田(アマノヒラタ) 天上界の凸凹のない平らな戸。(紀・天照大神・新編)

あまのほひのみこと

天穂日命 天之菩卑能命 天之菩比命   天上界の稲穂の霊的な力による神名。この神は天孫降臨の際、大己貴神と国譲りの交渉をするために葦原中国に降るが、大己貴神に媚びて三年経っても天上に報告しなかった。(紀・イザナキ・新編)(紀・天照大神・新編)(記・葦原中国平定)(記・葦原中国平定)

あめのみあへ

天の御饗(アメノミアヘ)大国主神が服属のしるしとして天つ神の側に献上するご馳走(記・ニニギノミコト・新編)

あまのやすだ

天安田(アマノヤスダ) 天上界の安全で労の少ない田の意か。(紀・天照大神・新編)

あまのむらあわせだ

天邑并田(アマノムラアハセダ) 未詳。天上界の村落に近接した田の意か、あるいは安田と平田と併用した良い田の意か。(紀・天照大神・新編)

あまのむらくものつるぎ

天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)(紀・天照大神・新編)→草薙の剣

あまのよさづら

天吉葛(アマノヨサヅル) 「天」は天上界の事物に冠する美称の接頭語。「吉葛」は良い蔓草の意で、葛根のような食用になる蔓草を言うか。ヨサズラ・ヨソズラはヨシ(吉)と同根の語か。ツラはツル(蔓)の古形。(記・イザナギ・新編)

あめちかるみづひめ

天知迦流美豆比女(アメチカルミヅヒメ)

あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと

天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコハノニニギノミコト) 「天にきし国にきし「は天地が豊かににぎわう意。「天つ日高ヒコ」は天つ神の美称。「日子」は男性の美称。「ほのににぎ」は稲穂の豊かに実る意。この長い神名は、穀神としての尊称である。(記・邇邇芸命・次田真幸)

あめのかなばた

天金機(アメノカナバタ) 「天」は美称。カナバタは金属を用いた立派な機ハタ(織機)

あめのとりふねのかみ

天鳥船神(アメノトリフネノカミ) 鳥のように天がける神の意で、雷神があまがけるとき乗る船。(記・葦原中国平定・次田真幸) トリフネは鳥船で、天空を鳥のように飛行する船の神。スペースシャトル。(記・葦原中国平定・三浦佑之)「天」は天の世界に属することの標示。取のように速く行く船の意。後で葦原中国の平定にあたり、建御雷神にそえて派遣される。地上の世界に成った神が、いきさつの説明もなく高天原の神となるのである。(記・イザナギ・新編)→とりのいはくすふね

あめのくひざもちのかみ

天之久奢母智神(アメノクヒギモチノカミ) クヒザモチは汲瓢持の意という。水を汲む瓢の神、すなわち感慨を掌る神である。(記・イザナキ・次田真幸)

あめのこやねのみこと

天児屋命(アメノコヤネノミコト) (記・天照大神・次田真幸)(記・邇邇芸命・次田真幸)

あめのふゆきぬのかみ

天之冬衣神(アメノフユキヌノカミ) (記・須佐之男命・新編)

あめのほあかりのみこと

天火明命(アメノホアカリノミコト) 「火明」は稲穂が熟して赤らむ意。書紀の一緒には、この神を尾張連(オワリノムラジ)の遠祖と伝えている。(記・邇邇芸命・次田真幸)

あめのほひのみこと

天之菩卑能命(アメノホヒノミコト) 天火明命、「日(穂)」は穂の意と同時に火が燃えるように稲穂が実るさまを表す。「明アカリ」は赤らむの意。(記・ニニギノミコト・新編)   「天穂日命」とも記す。稲穂の神霊の意。出雲国造りをはじめ、出雲系諸氏族の祖神。(記・イザナキ・次田真幸) 天穂日命(紀・葦原中国平定・新編) (記・天照大神・新編)

あめのみあへ

天の御饗(アメノミアヘ) 「御饗」は御馳走。神聖な神饌。(記・葦原中国平定・次田真幸)→あえ

あめのみくまりのかみ

天之水分神(アメノミクマリノカミ) 「天之」は次の「国之」と対称的に用いてある。「水分神」は農業用水を分配する分水嶺の神。(記・イザナキ・次田真幸)

あめのみそらとよあきづねわけ

天御虚空豊秋津根別(アメノミソラトヨアキヅネワケ)  本州のこと、大倭豊秋津島の別名(記・イザナギ・新編)→おほやまととよあきづしま

あまのよさかづら

天吉葛(アマノヨサカヅラ) (記・イザナキ・次田真幸)(紀・イザナキ・新編)

あめわかひこ

天稚彦(アメワカヒコ) 「稚彦」は若様で、世継ヨツギ(世子)の意。元来普通名詞なので「神」や「命」をつけない。これをウカ(食物)彦の意かとする説もあるが、ウカノメのように食物神は元来女神であり、またウカがワカに転ずる例はない。言葉の上からでなく、天穂日命の世子だから、天稚彦の本体は穀霊。穀霊だから、年に一度死んで、また復活する。また下照姫という雷神と結婚して熟成し、新嘗祭の主役になることがでできる。(紀・葦原中国平定・新編)

あや

綾(アヤ)  (紀・持統天皇3年3月20日・新編)(続紀・和銅6年11月16日・新日本文学大系)(続紀・養老元年夏5月2日・大系)(続紀・神亀5年夏4月16日・大系)

あやうすはた

綾羅(アヤウスハタ)  柄を織り出した薄物。 (紀・推古天皇16・岩波大系)(紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)(紀・持統天皇4年4月14日・新編)

あやがき

綾垣(アヤガキ) 綾織の衣の帳(記・大国主神・次田真幸)

あやきぬ

綾(アヤキヌ) 布帛のこまかきものを綾という。アヤは織りかたによるさまざまな模様。織り方によりさまざまな模様の出来る絹織物。(紀・仲哀天皇・新編)

あやかしきのみこと

吾屋橿城尊(アヤカシキノミコト)(紀・天地開闢・新編)

あやしきいね

瑞稲(アヤシキイネ)  茎毎に、枝有り。(紀・天武天皇7年秋9月・新編)(紀・天武天皇8年・新編)

あやしのはちす

瑞蓮(アヤシノハチス) めでたい蓮。一つの茎に二つの花が咲く。(記・舒明天皇7・新編)(紀・京極天皇3・新編)

あやのきぬぬひべ

漢衣縫部(アヤノキヌヌヒベ)  漢人系の衣縫の品部。(紀・雄略天皇・新編)

あやはとり

漢織(アヤハトリ) 早くから阿智使主を祖とする伝承が出来ていて、工女渡来の伝承が日本書紀に書かれたか。同じような話が応神天皇と雄略天皇の段に出てきます。(紀・応神天皇・新編)(紀・雄略天皇・新編)

あやめのかづら

菖蒲の蔓(アヤメノカヅラ) 五月五日は節会の一つと定められ、この日種々の儀式行事がなされたが、内外文武官が菖蒲の蔓(髪飾り)をつけることもその一つとして行われた。太政官式に「凡五月五日・・・・是日内外群官、皆着菖蒲蔓、諸司各供其職」、兵部省式に『凡同日(五月五日)節会、文武群官著菖蒲蔓」と見える他、内蔵寮式にも五月五日の菖蒲珮(飾り)の作成についての規定が見える。菖蒲を蔓とする行為が古くから行われていたことは、本条記事の前半部からも知られるが、万葉四二三「石田王卒之時前王哀傷作歌一首」の歌の中に「・・・ほととぎす鳴く五月にはあやめぐさ花橘を玉に貫きかづらにせむと・・・」あることや、同じく一九五五の「ほととぎす厭ふ時無しあやめ草かづらにせむ日此ゆ鳴き渡れ」の古歌、また四〇三五の田辺福麿の歌などからも知られる。本条の詔がこの行事定着の契機となったことは、本朝月令及び年中行事秘抄五月三日に「六衛府献菖併花等事」の説明として本条を引用していることからも知られる。なを、こした行事は、もと中国に発しており、荊楚歳時記五月五日の条には「菖蒲を以て或いは鏤み、或いは屑とし、以て酒に泛ぶ」と、薬玉や菖蒲酒に関する記載が見える。(続紀・天平19年5月5日・新日本古典文学大系)

あゆひ

足結(アユヒ)  戦や旅などで動きやすくするため、袴の膝から下を結ぶ紐。(紀・安康天皇・新編)  脚帯(アユヒ)(紀・雄略天皇・新編)

あらきさききぬ

麁狭絹(アラキサキキヌ)  (続紀・養老3年5月15日・大系)

あらぬの

麁布(アラヌノ)  (紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

あららぎ

蘭(アララギ) ノビルの古名。(紀・允恭天皇・新編)

あわ

粟(アワ) (記・天照大神・次田真幸)(記・神武天皇・)

あわ

粟 粟国(アハノクニ)  イザナキ記初出 粟国(記・天照大神・次田真幸) 粟国(紀・天照大神・新編)

あわぢのほのさわけのしま

淡路之穂之狭別島 淡路島とその亦の名の「穂之狭別」とを組み合わせた名称。(記・イザナキ・次田真幸)

あをかき

青垣(アヲカキ) 大和の青々と垣のようにめぐる東の山の上に祭り仕えよ(記・大国主神・新編)(古事記・景行天皇・次田真幸)

あをかしきねのみこと

青橿城根尊(アオカシキネノミコト)(紀・天地開闢・新編)

あをきぬ

青絹(アオキヌ)   (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)

あをずりのきぬ

青摺りの衣(アオズリノキヌ) 山藍で青く摺り染めにした衣服。 (紀・仁徳天皇・次田真幸)

あをな

菘菜(アヲナ) 青菜(記・仁徳天皇・次田真幸)

あをにきて

青和幣(アヲニキテ) 青味をおびた麻の布帛。(記・天照大神・次田真幸)(紀・天照大神・新編)→にきて→しらにきて

あをばのやま

青葉の山(アヲバノヤマ) 飾り物として、青葉の茂る山の形を作った。(古事記・垂仁天皇・新編)

あをひとくさ

蒼生(アオヒトクサ) 顕見蒼生(ウツクシキアヲヒトクサ)現実にこの世に生きて青草のごとき生命力を持った民草、人民。(紀・天照大神・新編)

あをひとくさ

青人草(アヲヒトクサ) 漢語の「蒼生」の訳語であろうという。人民の意。記・イザナキ・初出 (命ある青人草)は原文に「ウツクシキ青人草」とあり、人間のこと。ウツクシキは現実の、の意。青人草は「青々とした人である草」の意で、人は草であると考えられていた(「草のような人」という比喩表現ではなく、人は草なのである)。前に出てきたウマシアシカビヒコヂのように、人は土の中から萌え出してきた草(木)だと考えられていたのである。(記・天地開闢・三浦佑之)
神的でないものを「うつし」という。神の世界に含まれるが、神ならざる存在。この現実の世界の人間につながるものが「青人草」で、今までその出現に触れることがなく、ここで初めて既にあるものとして言及する。出現を述べないのは、主題は神を語ることにあり、人間は関心の外にあるからである。(記・イザナギ・新編)
紀・顕見蒼生(ウツシキアヲヒトクサ)

あをひゑ

竹刀(アオヒヱ) 青竹を薄くへぎ取って作った小刀。『和名抄』に、この竹刀で金銀の薄(ハク)(箔)を剪ると説明する。それが竹刀の本来の用途で、ここのように臍緒(ヘソノオ)を切る習俗は、日本のみならず南洋諸島・東南アジアにも例が多いという。ヒ3の仮名遣いは本来ヒエであったはずで、ヒヱはワ行下二段ヒウ(薄く削る)の連用名詞形。アヲヒヱは青竹を薄く削ったものの意。(紀・邇邇芸命・新編)

あをふしがき

青柴垣(アヲシバガキ)青葉の柴で作った垣。神霊の宿る神籬(ヒモロキ)である。(記・葦原中国平定・次田真幸) 柴で囲まれた聖域で、神を祀るための空間。現在、美保神社では、毎年四月にこの神話に起源をもつとされる「あお柴垣アオフシガキk神事」が行われている。(記・葦原中国平定・三浦佑之)  「柴」をフシと読めという訓注は、シバと読まれることを防いだもの。フシカキは古代の漁法に使う仕掛けの一つで、水中に潅木をめぐらし、開口部から魚を誘い込んで捕らえるもの(簀立の類)という説がよい。シバガキは、単に潅木を編んだ垣根を意味する。(記・葦原中国平定・新編)  「蒼柴籬」は常緑の小木で塞フサぎ囲った垣。シバは小木で物をふさぐもの。ふさぐものは「塞」(フシ)であるから、「柴」はフシともなる。従って「蒼柴籬」は一つの祭壇(ヒモロキ)と考えるべきである。(紀・葦原中国平定・新編)

医(イ) (天平宝字2年11月26日・新日本古典文学大系)

いうわう

雄黄(イオウ)  黄色の顔料。砒素の化合物。薬としても用い、典薬寮式の諸国進年料雑薬では、伊勢国は雄黄四斤を貢上すると定める。和名考異に「雄黄 伎尓」。(続紀・文武天皇2年9月28日・大系)

いかだ

筏(イカダ)  (紀・孝徳天皇白雉4年秋7月・新編)

いけ・うなて

池・溝(イケ・ウナテ) 溝は『釈名』に「田間ノ水・・・縦横ニ相交ハリ搆フル也」とある。田へ引く用水の溝。ウナテのウナはウネ(畝)の交換形か。(古事記・崇神天皇・新編)

いくみだけ

い茂み竹(イクミダケ)  イは接頭辞。クムは密生・密集する意の動詞。(紀・雄略天皇・新編)(記。雄略天皇・次田真幸)(紀・継体天皇・岩波大系)

いじゅつ

医術(イジュツ) (続紀・宝亀2年11月24日・新日本古典文学大系)

いしょく

衣食(イショク) (続日本紀・和銅7年2月3日・新日本文学大系)

いせのきぬぬひ

伊勢衣縫(イセノキヌヌヒ)   (紀・雄略天皇・新編)

いたさ

五十田狭(イタサ)神代紀上に「五十狭狭イササ」とある。記は「伊耶佐之小浜」(島根県簸川郡大社町引佐)。(紀・葦原中国平定・新編)

いたどり

虎杖(イタドリ) イタドリはタデ科の多年草。(紀・反正天皇・新編)→たぢひのはな

いちいがし

(記・景行天皇・三浦佑之)

いちさかき

「身の多けく」の枕詞。「いちさかき」はツバキ科のヒサカキの古名で、黒紫色の球形の実が沢山なる。(記・神武天皇・次田真幸)  イチはほめ言葉で霊力があるといった意。サカキは榊のこと。実がいっぱい付いていることの比喩。(記・神武天皇・三浦佑之)  「厳イチ」は生命力に富むの意。「榊サカキ」は常緑樹の意。ヒサカキ(?)とする説が有力だが、その実は無味で、普通は食べない。マテバシイ(実の形も大きく味も甘い)と見る説がよいか。(記・神武天皇。新編) イチイガシか。『和名抄』に「櫟子、伊知比(イチヒ)、相似テ椎子(シイ)ヨリ大ナル物也」とあり、実は果肉が多い。(紀・神武天皇・新編)

いちひ

赤隯(イチヒ)ブナ科の常緑高木のいちいがしのこと。(古事記・景行天皇・次田真幸)   イチヒガシ。材質が堅く、木刀に適しているという説があるが、偽りの大刀を作るのであり、それでは説明にならない。カシは重さがあり偽物として見破られないということで、カシを用いられたことが考えられる。(古事記・景行天皇・新編)

いつかし

厳橿(イツカシ) 神聖の橿。神霊の憑代となる神木。(紀・垂仁天皇25年3月・新編) 厳白檮(イツカシ)(記・雄略天皇・新編)

いつせのみこと

五瀬命(イツセノミコト) イツセは「巖稲イツシネ」の意であろう。(記・火遠理命・次田真幸)(紀・火火出見尊・新編)(記・神武天皇)

いつのうかのめ

巌稲魂女(イツノウカノメ)  食物の女神。(紀・神武天皇・新編)

いつのくさのたなつもの

五穀(イツノクサノタナツモノ)(記・イザナキ・次田真幸)(紀・イザナキ・新編)→いつのたなつもの

いつつのたなつもの

五穀(イツノタナツモノ)(紀・仁徳天皇・新編)(紀・反正天皇・新編)→いつのくさのたなつも

いつつのたなつものゆたかなり

五穀豊穣なり(いつつのたなつものゆたかなり)(紀・仁徳天皇・新編)→いつつのたなつもの

いづのめ

伊豆能女(イヅノメ) 「巖の女メ」の意で。禍を直す女神の意であろう。(記・イザナキ・次田真幸) イズ(巖)+ノ+メ(女)で、巫女的存在の神格化か。(記・イザナキ・新編)

いでん

位田(イデン) (続紀・天平勝宝6年冬10月14日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝6年冬11月27日・新日本古典文学体系)

いと

糸(イト)  (紀・孝徳天皇大化の改新・新編)(紀・天武天皇14年11月2日・新編)(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)(紀・持統天皇4年7月14日・新編)(紀・持統天皇10年夏4月27日・新編)(続日本紀・大宝元年正月14日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝3年5月9日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬5月10日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年正月13日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年5月15日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅2年5月27日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅4年冬10月23日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年6月19日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅7年2月3日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅7年夏4月22日・新日本文学大系)(続紀・養老元年11月10日・大系)(続紀・養老元年11月17日・大系)(続紀・養老5年正月27日・大系)(続紀・神亀元年秋7月13日・大系)(続紀・神亀元年11月4日・大系)(続紀・神亀5年冬10月20日・大系)(続紀・天平2年正月16日・新日本古典文学大系)(続紀・天平9年12月27日・体系)(続紀・天平12年正月7日・新日本古典文学大系)(天平宝字2年11月26日・新日本古典文学大系)(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)(天平宝字4年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年10月14日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字8年8月9日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年6月13日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀元年3月4日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年11月24日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年2月2日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年正月21日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)(続紀・天応元年11月16日・新日本古典文学大系)

いながら

稲幹(イナガラ) 稲の茎(古事記・景行天皇・次田真幸)(古事記・景行天皇・新編)

いなき

稲置(いなき) 古代の「姓」の一つ(姓とは、それぞれの氏族の家柄を示すために天皇=朝廷から与えられる称号)で、稲置という姓は、おもに地方豪族に対して与えられた称号の一つ。(古事記・安寧天皇・次田真幸)
垂仁紀に「忽ちに稲を積みて城を作る。其れ堅くして破るべからず。此を稲城と謂う」とある。稲積みの山を城に見立てとものであろう。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)
稲束を積み上げて作った城砦であろうか。古代の稲は穂先だけを刈り取るのが普通だから、あるいは刈り取った稲穂を袋などに入れたものを積み重ねた砦かも知れない。いずれにしても、矢や敵の侵入を防ぐために作られた即席の城砦であり、あらかじめ準備された堅固なとりでではない。(古事記・垂仁天皇・三浦佑之)
戦争の時に、稲束を積み上げて、防備のための砦としたもの。(古事記・垂仁天皇・新編)   戦争の時、稲を積み上げ、急いで防塞にした。雄略紀十四年四月条、崇俊前紀の用明二年七月条にも、戦乱に際し稲城を造ったことがみえる。(古事記・垂仁天皇・新編)   (古事記・景行天皇・次田真幸)
(紀・成務天皇)

いなしこめききたなき

伊儺之居梅枳枳多儺枳(イナシコメキキタナキ) 不須也凶目汚穢のこと。(紀・イザナキ・新編)

いなせはぎ

稲背脛(イナセハギ) イナセは「否か諾か」を問うことで、「脛」は足。諾否を問う使者の意。(紀・葦原中国平定・新編)

いなだ

稲田 奇稲田姫(紀・天照大神) 稲田宮主須賀之八耳神(記・天照大神・次田真幸)(紀・天照大神・新編)  禾田(イナダ)(紀・天智天皇前紀・新編)(続紀・和銅4年6月21日・新日本文学体系)

いなだのみやぬしのかみ

稲田宮主神(イナダノミヤヌシノカミ)奇稲田姫神の宮殿の首長。

いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ

稲田宮主須賀之八耳神(イナダノヌシスガノヤツミミノカミ) 「稲田」は「奇稲田姫」の「稲田」と同じであろう。「宮主」は「宮の首オビト」に同じく、宮の首長の意。「須賀」は地名。「八耳」の「八」は聖数で、「耳」は神名・人名に添える敬称。(記・天照大神・次田真幸)  「稲田」は、櫛名田比売の名田(稲田の略)と同じ。稲田宮主で、櫛名田比売の宮をつかさどる者、の意か。「須賀」は地名。「八耳」は未詳。 (記・須佐之男命・新編)

いなたね

稲種(イナタネ) (記・天照大神・次田真幸)(紀・天照大神・新編)(記・天照大神・新編)

いなば

稲羽(イナバ)因幡の国で、鳥取県東部の古名。(記・大国主神・次田真幸)

いなひのみこと

稲氷命(イナヒノミコト) イナヒは「稲飯」の意であろう。(記・火遠理命・次田真幸)(紀・火火出見尊・新編) 稲飯命(イナヒノミコト)「稲飯」はイナ(稲)ヒ(霊)か。神武紀に登場、熊野の神邑ミワノムラで暴風に逢ったとき海中に身を投じて、鋤持サイモチ神(サメのこと)となる。(紀・火火出見尊・新編)(紀・神武天皇・新編)

いなむしろ

稲蓆(イナムシロ) 川にかかる枕詞。 (紀・顕宗天皇・新編)

いね

稲   保食神の腹の中に生る(紀・天照大神・新編)  古事記では、以下の稲・粟・小豆・麦・大豆を五穀とするが、五穀を稲・粟・稗・麦・豆とする場合もある。いずれにしろ、稲だけが特権化されるのでなく、麦や粟・稗・豆などの雑穀類が並べられているのは、日本列島の農耕を考える場合に興味深い。(記・イザナキ・三浦佑之)(記スサノヲ・三浦佑之)(記・景行天皇・三浦佑之)(紀・天智天皇3年12月・新編) (紀・天武天皇5年夏8月16日・新編) 粳稲(紀・天武天皇10年8月・新編)(紀・天武天皇14年秋8月13日・新編)(紀・天武天皇14年秋9月24日・新編)(紀・持統天皇3年6月19日・新編)(紀・持統天皇4年春正月17日・新編)(紀・持統天皇4年3月20日・新編)(紀・持統天皇4年10月22日・新編)(紀・持統天皇5年春正月14日・新編)(紀・持統天皇6年3月29日・新編)(紀・持統天皇10年夏4月27日・新編)(紀・持統天皇10年秋7月7日・新編)(記・雄略天皇・新編)(続・宇治谷孟・文武天皇元年8月17日)(続・宇治谷孟・文武天皇元年閏12月7日)(続日本紀・大宝元年10月9日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅元年2月27日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅元年9月22日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅4年7月5日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年9月17日・新日本文学大系)(続紀・霊亀元年9月2日・大系)(続紀・霊亀元年10月7日・大系)(続紀・養老4年3月17日・大系)(続紀・養老7年10月23日・大系)(続紀・神亀4年冬10月5日・大系)(続紀・天平3年8月25日・大系)(続紀・天平勝宝閏5月11日・新日本古典文学体系)(天平宝字2年夏5月16日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字5年6月17日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字5年10月11日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年9月30日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年10月19日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年2月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年5月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年6月2日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年10月17日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年3月1日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年8月12日・新日本古典文学大系) (続紀・神護景雲3年5月13日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年5月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年7月18日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年3月18日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年5月23日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年6月5日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀10年閏5月15日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦3年6月12日・新日本文学大系)(続紀・延暦3年冬10月21日・新日本文学大系)(続紀・延暦10年冬11月6日・新日本文学大系)

いね

禾(イネ)  (続紀・和銅6年正月4日・新日本文学大系)

いねのみのり

禾稼(イネノミノリ) (続日本紀・大宝2年8月5日・新日本文学大系)

いはゆわう

石流黄(イワイオウ)  硫黄は和名抄には流黄とし、「本草疏云、石流黄。樊石液也。<和名由乃阿知、俗云由王、>)とある。典薬寮式の諸国進年料雑薬に、相模・信濃・下野から石硫黄を貢上するとさだめる。(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

いはきのかづら

磐木縵(イハキノカヅラ)  堅い樹枝形の冠の意か。(紀・允恭天皇・新編)  →おしきのたまかづら  →たちかづら →かづら

いはひへ

忌瓮(イハヒヘ) 神事に用いる瓶(カメ)。その中に神酒を入れ、幣帛として木綿(ユウ)を取り付けた。底が尖っており、土を掘って安定させるので、「居(ス)ゑ」という。ここでは、土地の神の心を和らげるためのもの。(紀・孝霊・新編)

いひ

飯(イヒ) 国に向かえば口より飯出では、陸地では稲などの穀物を生産することを表す。口から出たとは、それらが食料であることを表す。(紀・イザナキ・新編)  今日のご飯で、大嘗祭の解齋ゲサイ(神事の斎戒を解くこと)のときに食する。「固粥カタカユ」ともいうが、これは「沼田」からの連想。以上、酒と飯の「嘗」の話は、御子の聖誕と大嘗祭の儀礼の反映と見ることができる。(紀・邇邇芸命・新編)

いひのけ

飯の気(イヒノケ) 飯の湯気。(紀・敏達天皇元・岩波大系)

いひかみ

飯嚼(イヒカミ) 乾飯ホシイヒ(干飯)を口で噛みやわらげて幼児に食べさせる女。(紀・邇邇芸命・新編)

いひよりひこ

讃岐国の別名飯依比古(イヒヨリヒコ)  (記・天照大神・次田真幸)  「飯」は米・粟、「依」は依り付く、「比古」は男性で、飯の霊が依り付く男性の意。(記・天地開闢・新編)

いふく

衣服(イフク)  (続紀・和銅5年12月7日・新日本文学大系)

いほつたかむら

五百箇竹林(イホツタカムラ) よく茂った竹林。櫛を地に投げつけると竹林になったという説話は、その櫛が竹でできていることを表し、感染呪術型の説話。(紀・火火出見尊・新編)

いほつまさかき

五百箇真坂樹(イホツマサカキ) 賢木は、榊。神祭に用いる常緑樹。「五百津」は称辞で枝の繁っていることをいうか。多数の意に取る説もある。 (記・天照大神・新編)   イホツは枝葉が多数でよく繁った意、マは美称。サカキ(境木)は境界の木で、神の拠る聖域を示す木。根コジは根っこのまま掘り取ること。(紀・天照大神・新編) イホツマサカキを立てて神籬(ヒモロキ)とし神が依り付くので、それを中心としたある広がりを聖域として、周囲の俗界と境をなすことに基づく。(紀・神武天皇・新編)→まさかき

いほつのすすき

五百箇野薦(イホツノススキ) 野に生える萱・薄・篠の類。「薦」はコモの意もあるが、ここは同音の「クサカンムリに千セン」の意。コモは水生、ここは野槌の神なので野生のススキと読む。(紀・天照大神・新編)

いほつまさかき

五百津真賢木(イホツマサカキ) 枝葉のよく繁っている賢木。「賢木」は神霊のより代となる常緑樹。(記・イザナキ・次田真幸)(紀・天照大神・新編)

いほ

廬(イホ) 草木で作った仮の小屋。(紀・仁徳天皇・新編)

いみかしきのみこと

忌橿城尊(イミカシキノミコト)(紀・天地開闢・新編)

いもはやあきつひめのかみ

妹速秋津比売神(イモハヤアキツヒメノカミ) 速秋津日子神の妹(記・イザナギ・新編)→はやあきつひこのかみ

いもわかさなめのかみ

妹若紗那売神(イモワカサナメノカミ)サナメは「稲サの女メ」の意で、田植えをする早乙女の意であろうという。(倉野憲司博士説)(記・大国主神・次田真幸)

いやく

医薬(イヤク)  (続紀・天平宝字元年冬10月6日・新日本古典文学体系)

うえ(筌)→うへ

うえつわたつみのかみ

上綿津見神(ウエツワタツミノカミ)   (記・イザナキ・新編)

うかのみたまのかみ

宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) 「うか」は「うけ」と同じで、食物・穀物の意。穀物の神霊。(記・天照大神・次田真幸)  稲倉魂(ウカノミタマ)記に、イザナキのミコトが天照大神に授けた御頚珠ミクビタマの名を「御倉板挙ミクラタナの神」という。この珠は稲魂イナダマの象徴で、それを倉の棚に安置したのでその名がある。そこで「稲魂」には「倉」を冠する。(紀・イザナキ・新編)  ウカ・ウケは、食物のこと。ミタマはその霊力を言う。(記・須佐之男命・新編)

うかやふきあへずのみこと

鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアヘズノミコト)(記・火遠理命)→あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと

うきき

枯査(ウキキ) 枯れ木(紀・孝徳天皇大化元年・新編)

うきくさ

萍(ウキクサ) (続紀・神護景雲3年正月30日・新日本古典文学大系)

うけ

覆槽(ウケ) ウケはヲケ(績ウんだ麻などを入れる器)の転。「覆槽」の「覆」は、桶などを逆さにして伏せる意。その桶の底を叩いて音を出し太陽神に活力を与え、復活を図ろうとする呪術。記にも「汗気ウケ伏せて」それをふみとどろかせたと記す。(紀・天照大神・新編)

うけき

浮木(ウケキ)水の上に浮かせた木、の意から、筏または舟の意。ウケキのウケは浮くの他動詞。今日の「浮標ウキ」も、本来ウケ(浮かせたもの)といわれた。別にウキキの語もあるが、水中に浮いている木の意。(紀・火火出見尊・新編)

うけもちのかみ

保食神(ウケモチノカミ)ウケは立派な食物。モチは「貴ムチ」の意。「保ハ猶保持ノゴトシ。宇気ハ食ニ義也。是レ食物ヲ保持スル神ヲ云フ」。食物神は倉稲魂(ウカノミタマ)神とも云う。古事記では大宜都比売という女神。(紀・イザナキ・新編)  →うかのみたま  →おほげつひめ

うすきぬ

羅(ウスキヌ) (紀・仲哀天皇・新編)

うすめ

碓女(ウスメ) 臼で米をつく女(記・葦原中国平定)→つきめ

うたあらすだ

歌荒樔田(ウタアラスダ)「歌」は「葛野郡宇太ウタ村」(京都市右京区宇多野一帯)。「荒樔田」は、産アラス(スは尊敬)田、神の誕生の田、神殿の意か。 (紀・顕宗天皇・新編)

うだち

楹(ウダチ) 梁の上に立て、棟木を支える短い柱。(紀・仁徳天皇・新編)

うちのそめもののかみ

内染正(ウチノソメモノノカミ) 内染司の長官、従六位上相当。「供御雑染之属」を掌る。(続紀・天平宝字5年10月・新日本古典文学大系)

うつくしきあおひとくさ

顕見蒼生(ウツクシキアヲヒトクサ) ウツクシキは現ウツしの連体形。この世に生きるの意。「蒼生」は人民。青草にたとえて青人草という。(紀・イザナキ・新編)(紀・邇邇芸命・新編)→あおひとくさ

うつはり

梁(ウツハリ) 棟を受ける木。ウツ(内)ハリ(張)の意。(紀・仁徳天皇・新編)

うつゆふ

内木綿(ウツユフ) ここではマサキ国にかかる枕詞。ユフはコウゾ(楮)の樹皮を晒したもの。(紀・神武天皇・新編)

うなて

溝(ウナテ) 田間の水、縦横に相交わり構ふるなり。田へ引く用水の溝。ウナテのウナはウネ(畝)の交換形か。(紀・崇神天皇62年7月。新編)(紀・仲哀天皇・新編)  溝瀆(ウナテ)(紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)

うねびのかしはらのみや

畝火の白檮原宮(ウネビノカシハラノミヤ) 畝傍山の東南の橿原に営まれた宮殿。(記・神武天皇・次田真幸)→ かしはらのみや

うばい

烏梅

うはつわたつみのかみ

上津綿津見神(ウワツワタツミノカミ) 海の神(記・イザナキ・次田真幸)

うばらきのくにのみやっこ

茨木国造 (記・天照大神・新編)

うへ

筌(ウエ)  川で魚を捕らえる仕掛け。割った竹を編んで筒型に作ったもので、一度入った魚は出られなくなる。ヤナと読む説もあるが、ヤナは、川に打ち並べた杭の一部をあけて、そこに入ってきた魚を簀(ス)で受け止める仕掛けで、普通「簗」と表記する。(記・神武天皇・新編)   竹で編んだ筒を、流れに仕掛けて魚を捕る道具。(記・神武天皇・次田真幸)  竹で編んだ筒状の漁撈道具で、河の沈めて魚を獲る。(記・神武天皇・三浦佑之)→うえ

うましあしかびひこぢのかみ

宇摩志阿斯備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ) アシカビ(葦の芽)に象徴された万物の生命力・成長力を神格化した男性神。(記・天地開闢・次田真幸) 立派な葦の芽の男神の意。この神の誕生のイメージは、「青人草」と呼ばれる人間の誕生と重ねられている。(記・天地開闢・三浦佑之)  可美葦牙彦舅尊ウマシは美称。立派な、よい、などの意。形容詞シク活用。葦牙。春先に萌え出る葦の芽の生命力の表象。陽の気を持つ神であるため、男性を示す「彦舅「(彦は男子、舅は女性側からみた男性)の名が付く。(紀・天地開闢・新編)  葦の芽のように生き生きとした生命力を表す神。(記・天地開闢・新編)

うまはりなむ

蔓生りなむ(ウマハリナム)  蔓草のように蔓延する。(紀・雄略天皇・新編)

うまふせ

伏馬(ウマフセ) 天上界の斑毛(まだらけ)の馬(ウマ・ムマ)。呪術的に斑毛の馬が用いられるらしい。秋にこの馬を放って、田に腹這いにさせたのは、収穫妨害。(紀・天照大神・新編)

うましまぢのみこと

宇麻志麻遅命(ウマシマヂノミコト) 物部連・穂積臣・?臣の祖なり。(記・神武天皇・次田真幸)→稲積臣

うましもの

味物(ウマシモノ) 美味なもの(紀・天照大神・新編)

うまふせ

伏馬(ウマフセ) 天上界の斑毛(まだらけ)の馬(ウマ・ムマ)。呪術的に斑毛の馬が用いられるらしい。秋にこの馬を放って、田に腹這いにさせたのは、収穫妨害。(紀・天照大神・新編)

うむかひひめ

蛤貝比売(ウムカヒヒメ) ウムキはハマグリの古称。ウムキを表す、「蛤」字が「合」字を含み、大穴牟遅神のばらばらになった体を一つにあわせるという役割にふさわしいからである。(記・大国主命・新編)

うめのき

梅樹(ウメノキ)  (続紀・天平10年7月7日・新日本古典文学大系)

きうのう

うらぐはのき

うら桑の木 「うらぐはしき桑の木」の縮約形。心に美しいと思う桑の木、の意。養蚕の桑の木を皇后がほめているのである。(紀・仁徳天皇・新編)

うらへた

卜定田(ウラヘタ) 占いにより神田と定められた田。(紀・邇邇芸命・新編)

うり

瓜(ウリ)   (紀・仁賢天皇・岩波大系)

うるし

漆(ウルシ)  柒(続紀・養老4年6月28日・大系)(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)

うるしのうすはたのかがふり

漆紗冠(ウルシノウスハタノカガフリ) 漆をかけた薄絹の冠。(紀・天武天皇11年6月6日・新編)

うゑくさ

植ゑ草(ウヱクサ) 大河原の植ゑ草お=大きな川の河原に生えている水草。(古事記・景行天皇・次田真幸)   生えている草の意。浮き草をいう。(古事記・景行天皇・新編)

うんげん

暈燗(ウンゲン)  暈襉は繧襉とも。錦の織色で、色の濃淡を段階的に現したもの。齊院司式に「大暈襉錦」がみえる。(続紀・和銅6年6月19日・新日本古典文学大系)

うんも

雲母(ウンモ)  和名抄に「岐良々」と読む。本草集注や蘇敬等の新修本草に、耐寒暑・不老・軽身・延年・志高神仙等の効能があるという。(続日本紀・和銅6年5月16日・新日本古典文学大系)

えつり

蘆萑(エツリ)  「蘆」は葦、「萑」は荻(オギ)。それらの植物を垂木の上に並べて屋根の下地とするが、その葺下地(フキシタジ)をエツリと言う。(紀・顕宗天皇。新編)

えだは

枝葉(エダハ) (紀・邇邇芸命・新編)

えのき

朴(エノキ) 朴はホオの木。しかし、古来、エノキと訓む。(紀・祟峻天皇前・岩波大系)

えびかづら

蒲子(エビカヅラノミ)(記・イザナキ・次田真幸) 蒲陶(エビカヅラ)  山ぶどうのこと。このカヅラはぶどうのつるで作ったものだからもとの自然に戻ったのである。(記・伊耶那岐神・新編)   葡萄の古名 (紀・イザナキ・新編)記紀初出

おおちから

大税(オオチカラ) 政府が国民に貸し付ける稲、利息は五割。(記・雄略天皇・新編)(記。雄略天皇・次田真幸)

おきつも

沖つ藻(オキツモ) (紀・邇邇芸命・新編)

おくて

晩稲(オクテ)  (続紀・天平宝字元年8月18日・新日本古典文学体系)

おしきのたまかづら

押木珠縵(オシキノタマカヅラ)  木の枝の形をした玉飾りのある冠をいう。韓国慶尚北道の慶州の天馬塚出土の金冠は古新羅の王冠であって、鹿角形立飾りと四段からなる対生樹枝形立飾りに勾玉と歩瑶が飾られている。この種の王冠は古代の朝鮮に多い。我が国の藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町)出土の冠も樹枝形立飾りをもつ。もしこのようなものだとすると、「押木」は幾段にも押し重なった樹枝の意、そこにそこに勾玉を飾った冠で、まさに樹枝形立飾りの王冠である。(紀・安康天皇・新編)(記・安康天皇・新編)→たちかづら→いわきのかづら→かづら

おすひ

襲(オスヒ) 頭からかぶって衣服を覆った布。(記・大国主神・次田真幸) (紀・仁徳天皇・次田真幸)

おとたなばた

弟棚機(オトタナバタ) うら若い機織女の意。七夕伝説の織女ではない。(記・葦原中国平定・次田真幸)  「弟」は年若く美しいの意。「棚機」はタナバタツメ(棚機つ女〕の略で、機織の女。(記・葦原中国平定・新編)  「弟」は若い意。タナバタはタナバタツメ(棚機女)の略。元来、タナ(棚・横板)をつけたハタ(機械)の意から、それを用いて布を織る少女を言う。若い織女(紀・葦原中国平定・新編)

おほあなむちのかみ

大己貴神(オホアナムチノカミ)(紀・天照大神・新編) →あしはらのひこを

おほうなて

大溝(オホウナテ) 大きな溝(紀・仁徳天皇・新編)

おほかはらのうえくさ

大河原の植ゑ草  大きな川の河原に生えている水草。(紀・景行天皇・次田真幸)

おほかむづみ

偉大な(オホ=大)神の(ヅ)実、という意。桃に呪力があると考えるのは、中国の神仙思想などとかかわるか。(記・天地開闢・三浦佑之)  (記・イザナギ・新編)

おほき

大樹(オホキ) (記・大国主神・次田真幸)(紀・イザナキ・新編)(紀・神武天皇・新編) オホキナルキ(紀・仁徳天皇・新編)

おほくにたまのかみ

大国玉神(オホクニタマノカミ) 偉大な、国土の神霊の神。記では、「大国御魂神」の名で、大年神(稲の神)の系譜に見える。稲を成育させる神である。(紀・天照大神・新編)→おおくにぬしのかみ →あしはらのひこを

おほくめのみこと

大久米命(オホクメノミコト)(記・神武天皇・次田真幸)→くめのあたひ

おほげつひめのかみ

大宜都比売神 穀物や食物をつかさどる女神。「け」は「うけ」「うか」と同じく,食物の意。 記・初出 紀では保食神(ウケモチノカミ)(記・イザナキ・次田真幸)  「宜ゲ」は食(ケ。粟国の又の名もオホゲツヒメだが、それとは別神。この神は須佐之男神によって殺され、その体から蚕や稲種等が成ったという。須佐之男神が出雲に降る前のことであり、事件は高天原でおこった。ここでも地上に成った神が高天原に神となる例を見る。神の世界として、天と地上とは画然として排他的な世界を作っていたわけではないのである。(記・イザナギ・新編)   (記・大国主神・次田真幸) 偉大なる(オホ)食べ物(ケ)の(ツ)女神(ヒメ)の意。大地母神的な性格をもつ神で、後に語られる神話によれば、スサノヲに殺され、体から五穀の種が誕生するという神話は、インドネシアなど南太平洋一帯に分布しハイヌヴェレ型穀物起源神話呼ばれる。(記・天地開闢・三浦佑之)  「宜ゲ」は食物。偉大の食物の女性の意。(記・天地開闢・新編)

おほせひみくまのうし

大背飯三熊之大人(オホセヒミクマノウシ) 未詳。背に飯イイを負い、神饌を献る神の意か。神名に「大人ウシ」をもつ神は、人間の姿をし、防塞神サエノカミに多い。(紀・葦原中国平定・新編)

おほた

大田(オホタ) 収穫の多い田。(紀・仲哀天皇・新編)

おほつきのき

大槻樹(オホツキノキ)→つきのき

おほとしのかみ

大年神(オホトヒノカミ) 「年」は稲の稔りをいう。穀物の神。(記・天照大神・次田真幸)  「大」は称辞、「年」稲の実り。(記・須佐之男命・新編)

おほにへ

大嘗(オホニヘ) 新嘗祭のとき、神に供え天皇自身も召し上がる新穀を言う。大嘗聞こしめす殿は新嘗祭が行われる神聖な御殿のこと。(記・イザナキ・次田真幸) 大嘗を召し上がる殿は収穫感謝のために神をもてなす神聖な御殿。(記・天照大神・三浦佑之) (記・天照大神・新編)→新嘗

おほね

大根(オホネ)  (紀・仁徳天皇・新編)    オホネは大根のこと。その根の白さから腕の白さを連想で繋ぐ。(記・仁徳天皇・新編)

おほはがり

大葉刈(オホハガリ)大きな刃の刀。カリはマサカリのカリで、刃の意。朝鮮語でも刀をkalという。(紀・葦原中国平定・新編)

おほまあらこ

大目麁籠(オホマアラコ)(紀・火火出見尊・新編)→まなしかたま

おほみあつもの

煖羹(オホミアツモノ)(紀・仁徳天皇・新編)

おほみあへ

大饗(オホミアヘ) オトウカシが御膳(ミケ)を献(タテマツ)ったのは服属儀礼である。(記・神武天皇・次田真幸)

おほみきのかしは

大御酒の柏(オホミキノカシハ) お酒を受ける杯としての木の葉。「柏」は、飲食器として用いたオホガシワなどの木の葉を云う。(記・応神天皇・次田真幸)

おほみそ

衣(オホミソ)(紀・仁徳天皇・新編) 御衣(オホミソ)(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)(紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

おほみたから

人民(オホミタカラ) オホミタカラは、オホミタ(大御田)+カラ(輩)で、人民を天皇の所属する田地を耕す存在としてとらえた語。漢語「公民」の訓読語として生まれた語か。カラ(輩)は、トモガラ・ハラカラなど、同類の人間を意味する。(紀・崇神天皇・新編)

おほみふすま

被(オホミフスマ)(紀・仁徳天皇・新編)衾(紀・持統天皇5年11月25日・新編)

おほみもの

温飯(オホミモノ)(紀・仁徳天皇・新編)

おほやまととよあきづしま

大倭豊秋津島 「豊秋津島」は、穀物の豊かに実る国の意。(記・イザナキ・次田真幸)  大日本豊秋津州・本州。「日本」は「日本ヒノモトの大和の国」(万葉319)のようにヤマトの枕詞。それを「日本」と記してヤマトと訓む様になる。ヤマトは奈良県天理市・山辺郡辺りの一地名であったが、奈良県全体の大和国の称と鳴り、さらに日本国の称となる。「豊秋津州」も元来吉野郡の一地名アキヅであったが、大和国、本州、そして日本国の称となる。「大・豊」は美称。ヤマトのトは乙類の仮名。アキヅのヅは濁音。清音となるのは平安以降。(紀・イザナキ・新編)  本州のこと(記・イザナギ・新編)

おほわたつみのかみ

大綿津見神 海を主宰する神(記・天照大神・次田真幸)  オホ(偉大な)+ワタ(海のこと)+ツ(の)+ミ(神霊)(記・イザナギ・新編)

おみつぬのかみ

淤美豆奴神(オミツヌノカミ) 『出雲風土記』に「国引きましし意美豆努命オミツノノミコト」とある八束水臣地野命ヤツカミズオミツノカミと同じ神であろう。(記・天照大神・次田真幸)  大水主の意か。(記・須佐之男命・新編)

おりかも

良質の毛氈。獣毛の製フェルトの敷物。(紀・欽明天皇15・岩波大系)

おりもの

織(オリモノ)  (紀・推古天皇16・岩波大系)(紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)

かううん

耕耘(コウウン) 農耕(続紀・霊亀元年10月7日・大系)

かうかん

亢旱(コウカン)   (続日本紀・霊亀元年6月12日・新日本文学大系)

かうゆのち

膏腴の地(コウユ)  肥沃な地。 (続紀・天平元年11月7日・大系)

かいこ

蚕 稚産霊(ワクムスヒ)の頭の上に生える。イザナキ-紀・初出 記は(コ)

かうこくじゅ

杠谷樹(コウコクジュ) ヒイラギのこと。モクセイ科の常緑小高木で、トゲがあり、悪霊邪気を祓う呪力があると考えられていた。景行記に、天皇が日本武尊に東方十二道のアラブル神の征伐を命じたとき、「比々羅木之八尋矛』を賜ったという。下文四月丁未条に「杠谷樹八尋桙根」献上の記事がある。祥瑞に準じて献上されたものであろう。(続日本紀・大宝2年正月8日・新日本文学大系)

かうのう

耕農(コウノウ)  (続日本紀・霊亀元年5月14日・新日本文学大系)

かうしゅ

耕種(コウシュ)  (続日本紀・景雲3年3月13日・新日本文学大系)

かうゆ

膏油(カウユ) 肉脂を膏とし自余を油とす。穀液を油となす。諸膏を刀を研く料。胡麻油を洗刷の料。(紀・天武天皇3秋8月・新編)

かうゆ

膏腴(コウユ)  肥沃な地。膏も腴も、肉が豊かで脂肪が多い意。(続紀・養老6年閏4月25日・大系)

かがみ

羅摩(カガミ) 多年生蔓草の蘿?(ガガイモ) の古名。長さ20センチほどの実を割ると船の形になる。天の羅?船に乗りて(記・大国主神・次田真幸) 白蘞(カガミ)ガガイモ。熟果は二つに割れ、殻は舟の形に似る。記の「天の羅摩カガミの船」のカガミに同じ。(紀・大国主命・新編)・新編)

かき

垣(カキ)  (記・須佐之男命・新編)

かきはみのくるす

攪食の栗林(カクハミノクルス)  (紀・履中天皇・新編)

かげやかげ

縵八縵(カゲヤカゲ) 葉の付いた橘の枝八本。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)    「縵カゲ」は本来、頭にかぶるもの、冠の意だが、ここでは「陰」の意に用いる。木の葉が陰を生ずるところから、橘の実がなった枝を、葉が付いたまま取ったものをいう。「陰橘カゲタチバナ」の略(古事記・垂仁天皇・新編)→ほこやほこ

かさのたかまろ

蓋高麻呂(カサノタカマロ) 天平十七年八月の内薬司解に正六位上内薬佑侍医として見える。本条の高麻呂と吉田兄人への叙位は、聖武の病床に侍した労に対し、黄金産出を機に酬いたものか。

蓋氏は、天応元年九月に蓋麻呂等三人が吉水連の、蓋三野麻呂等三人が吉水造の賜姓に与かったとあり、姓氏録左京諸蕃に吉水連は前漢の魏郡の人、蓋寛饒の後と見え、大陸系の渡来氏族。(続紀・天平勝宝元年4月14日・新日本古典文学大系)

かさぬひ

作笠者(カサヌヒ) 祭具の一つの笠を作る者。菅を糸で縫ったのでカサヌヒという。(紀・葦原中国平定・新編)

かさみの

笠蓑(カサミノ) 人の罪穢れを転移させた人形ヒトガタが笠蓑姿であったため。本来村境の山や川に放棄されるべきこの人形が家の内に入り神、罪穢れに汚されてしまいことを恐れてのことである。人形の悪役を一身に背負ったスサノオノミコトは、またつみ穢れの主役でもある、から追放される運命にあるわけである。(紀・天照大神・新編)

かざもくつわけのおしをのかみ

風木津別之忍男神(カザモクツワケノオシヲノカミ) (記・イザナギ・新編)

かし

橿(カシ) 樫(紀・応神天皇。新編) 白檮(記・応神天皇・次田真幸)(記・雄略天皇・新編)

かしきはむ

炊飯(カシキハム)  路頭に炊飯む。役民が往還の途次、路傍で炊飯するとき、そこの家人がそれを嫌って御祓いを強要する。(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)—————————————紀

かしつひめ

鹿葦津姫(カシツヒメ) カシは九州南部の地名。そこの豪族(加志公かしのきみ)の娘の名。(紀・邇邇芸命・新編)→このはなさくやひめ

かしのを

白檮尾(カシノヲ) (記・神武天皇・次田真幸)  「尾」は、山裾の延びている所を言う。カシ(樫)が生えていたことに基づく地名であろう。(記・神武天皇・新編)

かしはのは

柏葉(カシハノハ) 柏の葉(紀・景行天皇12年10月。新編)(紀・応神天皇・三浦佑之)古代の酒は、形状としてはオカユのような状態で、液状ではなかったのでカシハの葉に盛ったのである。とくに、、祭祀における酒は、古い製法で作られることが多い。渡来の醸造法を教えたススコリの酒は、新しい発酵法によるスミザケ(清酒)であろう。(記・仁徳天皇・三浦佑之) (紀・仁徳天皇・次田真幸)

かしはらのみや

白檮原の宮(カシハラノミヤ) カシハラは奈良盆地南部に位置する地名。いま、橿原市にある橿原神宮は神武天皇を祀るが、宮殿後に立つという神社は、明治二十三年(1890)に創建された新しい神社である。(記・神武天皇・三浦佑之)→うねびのかしはらのみや

かじゆ

嘉澍(カジュ)  万物をうるおすほどよい雨。(続日本紀・和銅7年6月23日・新日本文学大系)

かしわで

膳夫(カシワデ) 神饌を調理する者。(記・葦原中国平定・次田真幸) 調理人のこと。(記・葦原中国平定・三浦佑之)(記・神武天皇・次田真幸)

かざもつわけのおしをのかみ

風木津別之忍男神(カザモツワケノオシヲノカミ) 風の神であろう(記・イザナキ・次田真幸)

かすみにしき

霞錦(カスミニシキ)  (朝霞の色)とは朝焼けの空の色をさす。(朝の霞の色)ではない。新羅の特産物か。(紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

かぜきるひれ

風切るひれ 風を鎮めるための領巾。(紀・応神天皇・次田真幸)→なみふるひれ・なみきるひれ

かぜふるひれ

風振るひれ  風を起こす呪力のある領巾。(紀・応神天皇・次田真幸)→なみふるひれ・なみきるひれ

かたびらかきしろ

帷帳(カタビラカキシロ)  棺を蔽ふとばり。(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

かたま

堅間(カタマ) カタマは竹製の籠。カタマは「堅編カタアマ」の意かと言う。(紀・火火出見尊・新編)

かちはやひあまのおしほみみのみこと

勝速日天忍穂耳命(カチハヤヒアマノオシホミミノミコト)(紀・イザナキ・新編) →まさかつあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと

かづね

葛根(カズネ) 根のついた葛(カズラ)。若く強く長い葛(蔓草の総称)(紀・顕宗天皇。新編)

かづののまつのを

葛野の松尾 山城くに葛野郡(京都市右京区)の松尾神社(記・大国主神・次田真幸) 京都市西京区嵐山にある松尾神社。渡来系の秦氏が祀る神社。 (記・大国主神・三浦佑之)

かつはやひあまのおしほみみのみこと

勝速日天忍穂耳尊(カツハヤヒオマノオシホミミノミコト)(紀・葦原中国平定・新編)→まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと

かつら

大きなカツラの木。 原文は、ユツカツラ。神聖な神の依りつく木として、他の神話にも描かれるが、「楓」「香木」「桂」などと表記されており、今言うカツラ(桂)ではなくキンモクセイではないかと言われたりしている。(記・葦原中国平定・三浦佑之) 杜(カツラ)(紀・葦原中国平定・新編) 香木(カツラ)(記・火遠理命)

かつらのき

社樹(カツラノキ) 「社」は境界木としての木の意。ここでのカツラの木(楓はヲカツラ、桂はメカツラ)。天神の降臨の木として登場。(紀・火火出見尊・新編)→かつら

かづら

鬘 黒鬘(クロミカヅラ) クロミは黒む(黒みかかるの意)の連用形。カヅラは蔓草。蔓延することから、「生命の木」として髪飾りにした。これを投げ捨てるのは逃亡説話の類型、それから葡萄が生えるのは一種の感染呪術。(新編)   蔓草の一種。イザナキはそのツルを束ねて冠として頭にかぶっていた。コレハ、クロミカヅラの冠の呪力を得ようとする行為。蔓草を投げたから、エブカヅラ(山ぶどう)が生えてきたのである。(三浦佑之) 記紀初出 天照大神(記・紀) 髪を巻く蔓草などの髪飾(紀・天照大神・新編) 蔓草の総称(紀・神武天皇・新編)→みかづら

かづら

縵(カヅラ) 青柳・百合・稲穂・菖蒲など種々の植物を飾りとして髪に結んだりまきつけたりしたもの。「鬘」とも記す。ここは菖蒲の葉を輪にして頭にかぶる者。その強い香気によって邪気を払い長寿を祈る呪的行為。五月五日の節会に鬘をつけて宮中に入ることを命じた詔。(続紀・天平19年5月5日・体系)  五月五日は節会の一つと定められこの日種々の儀式行事がなわれたが、内外文武官が菖蒲の縵(髪飾り)をつけることのその一つとして行われた。太政官式に「凡同日費(五月五日)・・・其日内外群官、皆着菖蒲鬘、諸司各供其職」、兵部省式に「凡同日(五月五日)節会、文武群官著菖蒲鬘」と見える他、内蔵寮式にも五月五日の菖蒲珮(飾り)の作成についての規定が見える。菖蒲を鬘とする行為が古くから行われていたことは、本条記事の前半部からも知られるが、万葉4238石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」の歌の中に「・・・ほととぎす鳴く五月にはあやめぐさ花橘を玉に貫きかづらにせぬと・・・・」とあることや、同じく1955の「ほととぎす厭ふ時無しあやめ草かづらにせむ日此ゆ鳴き渡れ」の古歌、また4035の田辺福麿の歌などからも知られる。山前王は続紀によると養老七年十二月辛亥に没しているから、その頃には菖蒲を鬘にする風習が既に存在していたことが窺われる。本条の詔がこの行事定着の契機となったことは、本朝月令及び年中行事秘抄五月三日に「六衛府献菖蒲並花等事」の説明として本条を引用していることからも知られる。なお、こうした行事は、もと中国に発しており、荊蘇歳時記五月五日の条には「菖蒲を以て或いは鏤み、或いは屑とし、以て酒に泛ぶ」と、薬玉や菖蒲酒に関する記載が見える。(続紀・天平19年5月5日・新日本古典文学大系)→おしきのたまかづら→いわきのかづら→たちかづら

かつを

堅魚(カツヲ)  神社や宮殿の屋根で、棟木と直角に間隔を置いて並べる装飾用の木。後世「鰹木」という。(記・雄略天皇・新編)→ひぎ

かつおぎ

堅魚木(カツオギ) (記・雄略天皇・三浦佑之)→かつを→ひぎ

かとり

絹(カトリ)  (紀・孝徳天皇大化の改新・新編)(紀・持統天皇2年2月2日・新編)

かとりのきぬ

縑絹(カトリノキヌ) 細い糸で目をつめて堅く織った絹織物。カタオリ(堅織)の約。(紀・仲哀天皇・新編)(紀・雄略天皇・新編)(紀・雄略天皇・岩波大系)

かなすき

金鉏(カナスキ) 刃が金属製の鋤。木製の鋤よりはるかに強力。それを五百丁も手に入れようというのは、強大な権力者の発想である。(記・雄略天皇・新編)

かにはたのおび

綺の帯(カニハタノオビ)  文様が斜めの綾絹の帯か。(紀・持統天皇4年4月14日・新編)

すきはぬる

鋤き撥ぬる(スキハヌル)  土を掘り起こして撥ね取ってしまう。(記・雄略天皇・新編)

かはそひやなぎ

川副楊(カハソヒヤナギ)  川に添って生えている柳。 (紀・顕宗天皇・新編)

かび

穎(カビ) 穂のこと。(紀・天武天皇7年冬10月・新編)

かひこ

蚕(カヒコ)(記・イザナキ・次田真幸)(紀・イザナキ・新編)(紀・仁賢天皇)  絹糸を吐くカイコのこと。最近の考古学の発見によれば、日本列島で生産された弥生時代の絹織物の断片が発掘されている。ただし、その絹が天蚕(自然のままに糸をかけたカイコ)によって得られたものか、養蚕によって生産されたものか不明。この伝承でカイコを養っているヌリノミは、前に「韓渡りの人」(原文は「韓人」)とあったように、渡来系の人物である。おそらく、本格的に養蚕が行われるようになったのは、こうした朝鮮半島や中国からの技術者集団の渡来によるのであろう。なお、ここにある三種のうち、飛ぶ鳥とは、もちろんガのことである。(記・仁徳天皇・三浦佑之)(紀・推古天皇12・岩波大系)(続紀・天平宝字元年8月18日・新日本古典文学体系)

かへきぬ

換衫(カヘキヌ)  (紀・斉明天皇6年3月・新編)

かま

莞子(カマ) ガマ科の多年草。花粉を薬用にし、葉は編んで蓆にする。(紀・天武天皇10年8月・新編)

がまのはな

蒲黄(ガマノハナ)  現在いうガマで、古くカマと清音。茎の先に円柱状の花穂ができ、上部に黄色の雄花、下部に緑褐色の雄花がつく。花粉は古くから薬用とされる。(記・大国主命・新編) 蒲の穂の黄色い花粉を言う。古代では、止血、沈痛に利く薬草として用いられた。オホナムヂノ神は、民間で医療の神として信仰されていたので、白兎の話にこの神を登場させて、オホナナムヂノ神が医療の神であることをかたったのである。未開社会では、医療を施す能力のある者は、民衆から特に尊敬されたのである。呪医が酋長となり、さらに王者となることは、土人社会では珍しくなかったという。→がまのほ

がまのほ

蒲の穂(ガマノホ) ガマの穂は、古来より血止めの薬などに用いられている。こうした医療技術を持つ神としてオホナムヂが語られているところに、この神の人文神的な性格は明らかであり、オホナムヂは、メディカル・シャーマン(呪医)であることによって、王となる資格を持つのである。この神話では、八十の神がみとオホナムヂとが、王になるための、女を得るための資格試験を受けていたのだということが明らかになる。ただし、資格を得た、オホナムヂがヤガミヒメと結婚し、地上の王となるのは、自らの力で八十の神がみを倒した後のことである。(記・大国主神・三浦佑之)→がまのはな

かまふのいなき

「蒲生」は滋賀県蒲生郡の地。「稲寸」は姓カバネの名。(記・イザナキ・次田真幸) (記・天照大神・新編)

かみら

臭韮(カミラ) 「か」は香、臭気の意。「みら」はニラの古名。久米部の者たちの作っている粟畑には、臭気の強い韮が一本生えている。そいつの根と芽といっしょに引き抜くように、数珠つなぎに敵を捕らえて、撃ち取ってしまうぞ。(記・神武天皇・次田真幸)  匂いの強いニラ。ミラはニラの古名。(記・神武天皇。新編)
カミラは臭韮で、臭気の強い韮。(紀・神武天皇・新編)

粟畑に韮が一本生えていて、韮を芽と根をいっしょに引き抜いたのでしょうか。当時の農耕の様子が垣間見られて面白いです。

かむあたつひめ

神阿多都比売(カムアタツヒメ) 「阿多」は薩摩国阿多郡阿多郷(鹿児島県加世田市のあたり)で、阿多の隼人の本拠地であった。「神阿多都比売」は隼人の女神でニニギノ命が隼人の女神を娶ったとするのである。(記・邇邇芸命・次田真幸)、  「鹿葦津姫」「神吾田鹿葦津姫」またの名を木花開耶姫。アタもカシも共に九州南部、加世田市辺りの地名で、そこの豪族の娘子の名。名に「神」の字を冠するのは、特に神威の烈しい神の場合であるが、女神の場合は巫女的神性をもつ場合である。ここで父と自己の名とを答えたのは求婚の承諾を意味する。(紀・邇邇芸命・新編)→このはなのさくやびめ

かむし

甘子(カンシ)  和名抄の菓類に「柑子<和名加無之>」とあるのとおなじ。コウジは宇津保、源氏などにもみえる柑橘類。今日も一部で栽培されている小型で種子の多いミカンはこの系統という。丁度、その実のなる季節。(続紀・神亀2年秋11月10日・大系)

かむしね

神稲(カムシネ) 神に供えた齊(ユダネ)として中臣氏に給したと見る見解(岡田精司説)もあるが、神税に関する勅か。神田・神戸の租稲を蓄積した神税を言うか。(続日本紀・大宝元年夏4月3日・新日本文学大系)

かむすぎ

神椙(カムスギ)   (紀・顕宗天皇・新編)

かむたう

甘棠(カントウ) (続日本紀・景雲3年3月13日・新日本文学大系)

かむやまといはれひこのみこと

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト) 神武天皇の和風諡号。「神」は尊称、「倭」は大和、「伊波礼」(磐余イハレとも記す)は地名で、奈良県桜井市から橿原市にかけての地の古称。 (記・火遠理命・次田真幸)

かむむすひのかみ

神産巣日神(カムムスヒノカミ) 高御産巣日神と共に、万物の生産・生成を掌る神、タカミムスヒは高天原系(皇室系)。タカミムスヒは出雲系の神。

かもう

蒲生稲寸(カモウノイナキ)アマツヒコネノ命の子供。蒲生は滋賀県蒲生郡にある。(記・次田真幸)

かや

葺草(カヤ) 鵜の羽を屋根に葺フく草として用いた理由は明らかではない。鵜が魚を飲み、またたやすく吐き出すので、鵜を安産の呪いにしたのであろう、という。(記・火遠理命・次田真幸)

かや

草(カヤ) (紀・邇邇芸命・新編)(紀・欽明天皇・岩波大系)

かや

草葉(カヤ)  カヤは茅モ・萱・すすきなどの・有用の植物で雑草のクサに対していう。(紀・顕宗天皇。新編)

かや

茅茨(かや) 茅・茨は屋根などを葺くかやの類。二字でカヤと訓む。(紀・仁徳天皇・新編)

かやのおやかやのひめ

草の祖草野姫(カヤノオヤカヤノヒメ) 「草の祖」とは屋根材として有用な萱(カヤ)・茅(チガヤ)・薄(ススキ)・菅(スゲ)まどをいう。の(山裾の広い傾斜地、高原地帯)に生えるカヤの女神の意。女とするのはカヤの風にそよぐ姿態からか。(紀・イザナキ・新編)→かやのひめ→野槌(ノツチ)

かやのきぬぬひ

蚊屋衣縫(カヤノキヌヌヒ) (紀・応神天皇・新編)→くれのきぬぬひ

かやのは

草葉(カヤノハ)  磐ね。木株・草葉も猶し能く言語ふ(紀・邇邇芸命・新編)

かやのひめのかみ

鹿屋野費売神(カヤノヒッメノカミ) カヤは屋根を葺く草をいう。(記・イザナキ・次田真幸) カヤは屋根をふく草。カヤノヒメとは、そのカヤの生えている野の女性の意。別名「野椎」はノ(野)+ツ(の)チ(精霊)の意。(記・イザナギ・新編)   草野姫(紀・イザナキ・新編)→かやのおやかやのひめ→野槌

かゆ

粥(カユ) (続日本紀・文武天皇4年3月10日・新日本文学大系)

からさひ

韓鋤(カラサヒ) 朝鮮半島伝来の鋭利な小刀。サヒは古代朝鮮語で?sapの意。?は「鋤・?」に同じく、農具のスキのこと。これを刀の意に用いた。記に、山幸彦の「紐小刀ヒモガタナ」を与えられた鮫を「佐比持サヒモチ神」と呼んだという話がある。これは鮫の鋭い歯をサヒは紐小刀、つまり匕首アイクチ(懐剣)くらいの大きさであたと考えられる。紀・天照大神・新編)

からの

枯野(カラノ)  (記・仁徳天皇・新編)→たかぎ

からのかぬち

韓の鍛(カラノカヌチ) 韓は朝鮮半島のこと。カヌチはカジ屋。新しい技術の導入。(紀・応神天皇・三浦佑之)

からまつ

枯松(カラマツ) 枯れて葉の落ちた松。鹿の角のこと。(記・安康天皇・新編)

からむし

紵(カラムシ) (紀・持統天皇7年春3月17日・新編)

かりこも

刈薦(カリコモ) 「刈薦の乱れ」は刈った薦がばらばらになることをいい、破局の比喩とする。「乱れば乱れ」は、ばらばらになるならそうなれの意。別離の予感を示す言葉。(記・允恭天皇・新編)

かりくひ

刈杙(カリクヒ)(古事記・景行天皇・次田真幸)   切り株(古事記・景行天皇・新編)

かりて

粮(カリテ) カリテは食料のこと。後世、カテと言う。(記・安康天皇・新編)

かるのさかをりのいけ

軽の酒折池(カルノサカヲリノイケ) 奈良県橿原市大軽町のあたりにあったという池。崇神天皇がお作りになった灌漑用の池(記・崇神天皇・次田真幸)→よさみのいけ

かれきのうれ

枯樹(カレキ)の末(ウレ) 枯れ木の枝。(紀・雄略天皇・新編)

かれひ

糒(カレヒ)  乾した飯(メシ)。旅行に携帯する食料。(紀・允恭天皇・新編)

木 (記・火遠理命)(紀・神功皇后・新編)(紀・雄略天皇・新編)(紀・舒明天皇10・新編) 樹(キ)(紀・孝徳天皇前・新編) (紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)(紀・天武天皇9年8月14日・新編)(続紀・和銅3年2月11日・体系)(続紀・和銅6年5月2日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年8月24日・新日本文学大系)(続紀・神亀4年冬10月2日・大系)(続紀・天平2年6月27日・新日本古典文学大系)

樹(キ) (続日本紀・慶雲元年8月28日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲3年3月13日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲3年秋7月28日・新日本古典文学大系)(続紀・天平10年7月7日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年8月6日・新日本古典文学大系)

きうのう

九農(キュウノウ)  九扈ともいい、中国古代少皞のときに置かれたという農桑に関する九つの官名。ここでは農業の意。(続紀・神亀4年春2月23日・大系)

きく

菊 菊理媛神(ククリヒメノカミ)黄泉の国と地上の国との間を漏れ流れて境の立つ神か。あるいは、最終的に二神の争いをまとめる「括る」の意を持つ神か、不明。新編 紀・初出

きくさ

樹草(キクサ) 是の時に、斬る血激ち灑(ソソ)きて、石礫・樹草を染む。(紀・イザナキ・新編)紀・初出

きくわ

木鍬(キクワ) 木の鍬(紀・仁徳天皇・新編)

きさきのみやのわたくしのいね

皇后宮の私稲(キサキノミヤノワタクシノイネ) 内裏の私用の稲五千束を、川原寺に納めた。(紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

ぎさう

義倉(ギソウ)  賦役令9集解古記に「養老三年諸国按察使等請事。答。官判云、諸国卒飢、給義倉穀、五百斛以上聴之。若応数外給者、使専知状、且給且申。若義倉不足、用税聴之」とあり按察使が義倉支給について申請を行った。(続紀・養老3年9月22日・大系)

きったむらじ

吉田連(キッタノムラジ) 姓氏録左京皇別の吉田連の項に、祖を任那に渡った塩垂津彦とする伝承を載せ、吉は任那の宰の意であり、知須(智首)らが奈良京の田村里に住んだので、神亀元年に本姓の吉と居地の田を取って吉田連と賜姓されたとする。続後紀承和四年六月己未条では任那が百済に隷したとするが、吉田連の由来についてはほぼ同じ。吉田の訓は、当初はキッタ、後にヨシダか。(続紀・神亀元年5月13日・新日本古典文学大系)

きつためらじえひと

吉田連兄人(キッタムタジエヒト) 天平二十年十月の皇后職牒に正七位上侍医皇后宮大属河内大目とみえる。天平勝宝元年八月紫微少忠、同三年十月従五位下。吉田連氏に医を以て者の多かったことは、続後紀承和四年六月巳未条の吉田書主等への興世朝臣賜姓の記事に「世伝医術」とあることや、文徳実録嘉祥三年十一月の興世朝臣書主の卒伝に、祖父の吉田宜、父の古麻呂とともに内薬正、侍医であったと記すことからも知られる。

吉田連は姓氏録には左京皇別に収めるが、百済系の渡来氏族であったことは、上記の文徳実録の文に「其先出自百済」とあることから明らかである。(続紀・天平勝宝元年4月14日・新日本古典文学大系)

きつたむらじこまろ

吉田連古麻呂(キツタノムラジコマロ) 宜の子。興世書主の父。医家として内薬佑、内薬正・侍医となり、天応元年四月には従五位下に昇叙。文徳実録嘉祥三年十一月条の興世書主卒伝に「書主右京人也、本姓吉田連、其先出自百済、祖正五位上図書頭兼内薬正相模介吉田連宜、父内薬正五位下古麻呂、並為侍医累代供奉」と見える。(続紀・宝亀7年冬正月7日・新日本文学大系)

きつたむらじひだまろ

吉田連斐太麿(キツタノムラジヒダマロ) 医家。宝亀二年閏三月に内薬正。以後、出雲掾・伯耆介・伊勢介・相模介を兼任。宝亀十一年には内薬正・侍医と見え、天応元年八月に従五位上。(続紀・宝亀元年七月二十日・新日本古典文学大系)

きぬ

絹(キヌ) (紀・雄略天皇・新編) (紀・孝徳天皇大化の改新3・3月・新編)(続紀・天平元年夏4月3日・大系)(続紀・天平12年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)

きぬ

帛布(キヌ) (紀・大化元年・新編)

きぬ

袍(キヌ)   (紀・天武天皇朱鳥元年春正月18日・新編)

きぬ

衣(キヌ)  (続日本紀・和銅2年9月26日・新日本古典文学大系)

だいこう

きぬおりめ

織縑女人(キヌオリメ) 「縑」は固く織った絹織物。(紀・仁徳天皇・新編)

きぬがき

絁垣(キヌガキ) 絹の幔幕のこと。(紀・応神天皇・次田真幸)

きぬたたみ

?畳(キヌタタミ)(記・ホホデミノミコト・新編)

きぬのくび

衽(キヌノクビ) (続紀・和銅5年12月7日・新日本文学大系)

きぬはかま

糸包袴(キヌハカマ)  (紀・持統天皇3年春正月7日・新編)

きぬぬひ

衣縫(キヌヌヒ) 兄媛(エヒメ) 弟媛(オトヒメ) (紀・雄略天皇・新編)

きのあしぎぬ

黄の絁(キノアシギヌ)  黄蘗などで染めた虫のつかぬ絹。(続紀・神亀3年秋7月13日・大系)

きのうえ

樹上(キノウエ) (紀・葦原中国平定・新編)(紀・邇邇芸命・新編)

きのおやくくのち

木の祖句句廼馳(キノオヤククノチ) 「木の祖」とは建築用材としての有用な杉や檜などの木をいい、木霊コダマが宿るとされた。ククはクキの古形で、ククノチはクキノ精霊ちの意。(紀・イザナキ・新編)→くくのち

きのかみ

木神(キノカミ)(紀・イザナキ・新編)(記・イザナギ・新編)→くくのち

きのくに

木国(キノクニ) 紀伊国(和歌山県)(記・大国主神・次田真幸)(紀・大国主命・三浦佑之)

きのくにのみやつこ

木国造(キノクニノミヤツコ) 「木」は「茨木」の誤りで、茨木国造の意であろうという。(『古事記伝』参照)(記・イザナキ・次田真幸)

きのすゑ

樹の巓(キノスヱ) (紀・武烈天皇・岩波大系)→き→このもと

きのまた

木の俣(キノマタ) (記・大国主神・次田真幸) (記・大国主命・新編)

きびのこじま

吉備児島(キビノコジマ) 今の児島半島であるが、昔は島であった。(記・天地開闢・次田真幸) キビノコの島・アヅキの島・オホの島は、瀬戸内海に浮かぶ小島をさすと考えられている。(記・天地開闢・三浦佑之) 吉備子洲(キビノコシマ)備前(岡山県南東部)の児島半島。近世初頭までは島であった。(紀・イザナキ・新編)

きぬ

帛(キヌ)  (紀・清寧天皇・新編)(紀・持統天皇称制前紀12月26日・新編)(続紀・天平宝字元年4月4日・新日本古典文学体系)

きぬ

帛布(キヌ)  (紀・皇極天皇2・新編)(紀・孝徳天皇大化元年・新編)

きぬ

絹(キヌ)   (紀・雄略天皇・岩波大系)(紀・天智天皇7年11月・新編)(紀・持統天皇5年11月30日・新編)(続日本紀・和銅2年5月27日・新日本古典文学大系)(続紀・養老元年11月17日・大系)(続紀・宝亀3年2月2日・新日本古典文学大系)

きぬ

絁(キヌ)  (紀・推古天皇11・岩波大系)

きぬ

衣(キヌ) (続日本紀・大宝3年冬10月25日・新日本文学大系)(続紀・和銅3年正月16日・体系)

きぬたたみ

絁畳(キヌタタミ)(古事記・景行天皇・次田真幸) →すがたたみ

きぬのぬの

絹布(キヌノヌノ)  (紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

きぬぬひのをみな

縫衣工女(キヌヌヒノヲミナ)  着物を縫う女性技術者。(紀・応神天皇。新編)

きぬはかま

袍袴(キヌカカマ)  (紀・持統天皇3年春正月月3日・新編)

きぬまく

帷幕(キヌマク)   (紀・継体天皇・岩波大系)

きぬも

衣裙(キヌモ) 衣服(紀・雄略天皇・新編)

きゅうじきほう

給食法(クユウジキホウ)  和銅五年格では、四等官に一日に付き米二升・酒一升、史生に一日に付き米二升・酒八合、従者に一日に付き米一升五合を支給する者としているが、正税帳の実例でもこれにのっとて行われている(ただし米についてはそれぞれの量に見合う四把・三把の穎稲を支給)。なお駿河・但馬・周防の三国では、このほかに塩を支給しており、その量は駿河国と但馬国では史生以上に日別二勺五撮だが、周防くにでは一律に二勺となっている。塩の支給は、このころ、各国の自由裁量に委ねられていたことをしめすものか。<亀田>(続日本紀・和銅5年5月15日・新日本文学大系)

きよたう

挙稲  (天平宝字2年夏5月16日・新日本古典文学大系)

きもの

衣裳(キモノ)   (紀・継体天皇・岩波大系)(紀・天武天皇14年11月2日・新編)(紀・持統天皇5年春正月7日・新編)衣服(紀・天武天皇14年12月4日・新編)   衣冠(きもの)(紀・継体天皇・新編)(紀・持統天皇6年2月11日・新編)

きらら

雲母(キララ)  (続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

さかき

坂樹(サカキ)紀・五百箇真坂樹イホツマサカキ)イホツは枝葉が多数でよく茂った意。マは美称。サカキ(境木)は境界の木で、神の拠る聖域を示す木。根コジは根つきのまま掘り取ること。(新編、紀)  五百津真賢木(イホツマサカキ)枝葉のよく繁っている賢木。「賢木」は心霊の拠りしろとなる常緑樹。(記・次田真幸)  賢木(サカキ)(紀・景行天皇・新編)
(紀・仲哀天皇)

くうでん

功田(クウデン)  特に功績のあるものに給される田。(続紀・天平元年11月7日・大系)(続紀・天平宝字元年12月8日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年3月10日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護2年2月21日・新日本古典文学大系)

くうでん

公田(クウデン)  (続紀・天平宝字元年閏8月17日・新日本古典文学体系)(天平宝字2年夏5月16日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年12月4日・新日本古典文学大系)

くうとう

公稲(コウトウ) 利稲を国用にあてているので、利息をやめると本稲まで失ってしまうことになる。(続紀・養老4年3月17日・大系)

くくきわかむろつなねのかみ

久ゝ紀若室葛根神(ククキワカムロツナネノカミ)材木で新室ニイムロを建て葛カズラで結い固める意で、新嘗祭を行うための屋舎を造営することであろう。(記・大国主神・次田真幸)

くくとしのかみ

久ゝ年神(ククトシノカミ) 稲の茎が成長して実ることを表す。(記・大国主神・次田真幸)

くくのち

久久能智神(ククノチ)ククは茎の意。チは霊威を表す(記・イザナキ・次田真幸)  クク(木)+ノ+チ(精霊)(記・イザナギ・新編)   「木の祖とは建築用材として有用な杉や檜などの木をいい、木霊こだまが宿るとされた。ククはクキの古形で、ククノチは茎ノ精霊ちの意。(紀・イザナキ・新編)

くくりひめのかみ

菊理媛神(ククリヒメノカミ)「菊」の韻がキクであることを示す。この「菊」は「竹・筑・竺」などと同じ「屋」韻であること、また「菊池、久ゝ知ククチ」、「菊麻ククマ国造」の地名の例によって、古韻はククであったといえる。それで「菊理媛「をククリヒメと訓める。その名義は漏ククり媛で、黄泉国と地上の国との間を漏れ流れて境に立つ女神の意か、あるいは最終的に二神の争いをまとめる「括ククる」の意を持つ女神か、不明。この神の言上のないようはきされていないが、両神を妥協させるようなしめくくりの言葉であったか。(紀・イザナキ・新編)

くげでん

公廨田(クゲデン) 大宰府官人および国司に給される田の、大宝令での名称。養老令では職分田。史生には六段。(続日本紀・和銅元年3月22日・新日本古典文学大系)(続紀・養老5年6月10日・大系)(続紀・天平8年5月17日・大系)

くげのいね

公廨稲(クゲノイネ) (続紀・天平8年5月17日・大系)

くさ

草(クサ)  (古事記・景行天皇・次田真幸) (紀・景行天皇40年7月。新編)(紀・景行天皇40年10月。新編)(紀・神功皇后・新編)(紀・仁徳天皇・新編)(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

くさかのつ

草香津(クサカノツ) 「白肩津」や盾津(蓼津)と同所。(紀・神武天皇・新編)

くさかのむら

草香邑(クサカノムラ) 東大阪市日下辺り(紀・神武天皇・新編)

くさき

草木(クサキ)  (紀・イザナキ・新編)(紀・天照大神・新編)(紀・葦原中国平定・新編)(紀・崇神天皇10年9月。新編)(紀・欽明天皇16・岩波大系)

くさなぎのたち

草薙の大刀(クサナギノタチ) 倭建命が相模国で野火攻めに遭ったとき、草薙の剣で草を刈り払った、という伝説後中巻に記されている。草薙の剣は、熱田神宮のご神体とされた剣で、この神話の草薙の剣出現の話は、熱田神宮の神体の起源として語られえいる。記・天照大神(次田真幸)(記・邇邇芸命・次田真幸)

天皇家の三種の神器の一つ。あとの二つは、先のアマテラスを岩屋から引き出す場面で小道具として準備された「鏡」と「玉」である。王権が、倒した仇敵の神宝を自らの宝物にするのはよくみられることで、それは、相手の力を内部に取り込みことを意味する。草薙の太刀は、後に地上にもたらされ、伊勢神宮に祀られるが、ヤマトタケルによって運ばれ、尾張の熱田神宮にとどまることになる。(記・天照大神・三浦佑之)

大蛇の尾から剣が出てきたことについては、八岐大蛇は斐伊川の表象で、その流域の中国山脈からは良質の砂鉄が採れたため名刀も産出した(後世の名刀、備前長船もその一例)。採取法はいわゆるカンナ(金穴)流しで余分な土砂を流すから、流れは赤く濁る。記の大蛇の血で流れが赤く染まったという記述も、この採取法によるもので、「簸の皮」も本来「火の川であろう。この説話の主人公がスサノオであるのは、ココでの尊が雷神として機能していることを物語る。雷神は火と水の徳による刀剣の神であるから、この産鉄地の斐伊川と結びついて神話化されたものと見たい。この剣が十握剣より利剣であったことは、十握剣の刃が欠けたことでわかる。景行記(紀も)にも日本武尊がこの剣で草を薙ぎ、危難を逃れたことによる命名とみえる。{所謂」とは編纂当時から見て言ったもの。本来は「臭蛇クサナギ)」(憎いほど強い長物ナガモノ=蛇)から出現した剣の意か。本の名は天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)(紀・天照大神・新編)(記・邇邇芸命)(紀・景行天皇・次田真幸)草薙横刀(紀・景行天皇40年10月。新編)
→あまのむらくものつるぎ

くさのなか

草中(クサノナカ) 草の中(紀・仁徳天皇・新編)(紀・雄略天皇・岩波大系)

くさひとかた

蒭霊(クサヒトカタ) 茅で作った人形。(紀・神功皇后・新編)

くさびら

蔬(クサビラ)   (紀・持統天皇3年春正月月3日・新編)

くすし

医師(クスシ) (続紀・天平勝宝7年4月29日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字元年冬10月11日・新日本古典文学体系)

くし

櫛櫛に火をともして「見るな」の禁忌を犯す話は、イザナギがイザナミの死後の姿を見た話があります。おそらく「一片之火ヒトツヒ」をともしたのであろう。この行為は禁忌である。それにこの例を併せると、櫛の火をともす行為そのものが禁忌であったか。(紀・火火出見尊・新編)
櫛は頭髪に挿す物。霊魂の象徴。運命を左右する力を持ち、邪気や悪霊を祓う力がある。→ゆつつまくし

くしざし

捶籤(クシザシ)  秋の農事妨害の一つ。他人の田地に串を立てて、自分の土地であると主張する所有権の侵犯である。ただし、異説もある。(紀・天照大神・新編)

くしなだひめ

櫛名田比売(クシナダヒメ) 紀に「奇稲田姫」と記している。霊妙な稲田の女神の意。「櫛」の字を用いたのは、櫛をさした巫女であることを暗示するためであろう。記・天照大神(次田真幸)
クシ(奇し)+ナダ(イナダ=イナダ稲田の約)+ヒメ(女性)で、稲田の守護神。ただし、「櫛」の字は、須佐之男命がこの少女を湯津爪櫛に取り成したということに連想的につながっている。(記・天照大神・新編)
スサノヲによって櫛に姿を変えられたための名とも読めるが、もともとの意味は、霊妙な稲田の女神(原文は櫛名田比売、日本書紀は奇稲田姫)で水田の守護神であろう。それゆえに、稲種をもたらすスサノヲと結婚することになるのである。(記・天照大神・三浦佑之)  奇稲田姫(クシイナダヒメ)霊妙な、稲田の女神。後文に姫を「湯津爪櫛ユツツマクシ」に変身させるとあるが、「奇クシ」と「櫛」とが響きあう名。この姫は稲田の守護神であるが、ここでは大蛇への人身御供(ヒトミゴクウ)となる巫女的性格を持つ。(紀・天照大神・新編)

くしひ

?日(クシヒ) 『新撰字鏡』に「?、無?」。「無?」は「無患」とも記し、その実は堅く、羽根つきの羽根の玉などに用いる無患子(ムクロジ)。逸文『日向風土記』では、ムクロジ(?)をクジといったのであろう。クジは書紀はクシと清音。「無v患」だからクシ(奇)で、それに霊性を表す「日」をつけて「奇霊クシヒの二上山」としたもの。なお、朝鮮神話に加羅の亀旨(クシ)の峰に六可那(加羅)の始祖が降臨したとの伝承がある。(紀・邇邇芸命・新編)

くす

?樟(クス) 記・鳥之石樟船神(トリノイハクスフネノカミ)初出  イザナキ紀・天盤?樟船(あまのいはくすぶね)初出

杉と?樟と、此の両樹は、以つて浮宝(ウクタカラ=船)にすべし。(紀・天照大神・新編) 河内の国泉郡の和泉灘で浮かぶ楠を得、天皇仏像二体をつくらしめたまふ。今の吉野寺に、光を放ちます樟の像なり。(紀・欽明天皇14・岩波大系)

くすし

医師者(クスシ) 医師一般ではなく、養老令制では宮内省典薬寮に所属する医師の前身であろう。(紀・天武天皇朱鳥元年春正月13日・新編)

くすし

医(クスシ) (続紀・神亀3年冬6月14日・大系)  武官の医師(ブクワンノクスシ)五衛府・中衛府などに所属する医師。(続紀・天平3年冬11月2日・大系)

くすしのしやう

医生の履修すべき経書

太素 令文に見えない。中国古代医学の古典、黄帝内経を唐の楊上善が改編した黄帝内経太素三十巻のこと。日本国見在書目録に「内経大素三十<楊上(善)撰とある。全三十巻のうち、二十三巻分が京都仁和寺に伝来する。

甲乙 医疾令3義解に十二巻、日本国見在書目録に「黄帝甲乙経十二(巻)<玄晏先生撰>」とある。西晋の皇甫謐(号玄晏先生)の撰した鍼灸の書。

脈経 義解に二巻とある。西晋の王叔和の撰。漢代以来の諸派の脈診の方法を体系化した書。隋書経籍志に「脈経十巻<王叔和撰とあり、新唐書芸文誌には「脈経十巻又二巻」とある。

本草 義解に「新修本草二十巻」とある。はずめ、梁の陶弘京の神農本草経集註七巻が用いられていたが、延暦六年五月、唐の蘇敬等撰の新修本草に代えられた。日本国見書目録に「新修本草二十巻<孔玄均(志約か)撰>」とある。新修本草は、本文二十巻のほか、草図二十五巻、図経七巻、目録各一巻の合計五十五巻からなる。中国では亡失したが、日本では、本文二十巻の内、古鈔本の伝写本が十巻分伝存する。

針生の履修すべき経書

素問 医疾令3義解に三巻、日本国見在書目録に「黄帝素問十六(巻)、新唐書全元起注>」とある。全元起注の黄帝素問は、新隋書芸文志には八巻とある。黄帝と六人の名医との問答の書。

針経 義解に黄帝針経三巻、日本国見在書目録に同九巻とある。隋書経籍志は、九巻、新唐書芸文志は十巻とある。

明堂 義解に三巻、日本国見在書目録に「黄帝内経明堂<楊上善撰>」とある。新唐書芸文志に「黄帝明堂経三巻」・「楊上善注黄帝内経明堂類成十三巻」とある。この全十三巻のうち、第一巻のみ仁和寺に伝来する。明堂は針または灸点を施すべき腧穴を示した偶人(土人形)のこと。

脈決 義解に二巻、日本国見在書目録に「黄帝脈決十二(巻)<王叔和新撰>」とある。考証は隋書経籍志の「脈経決二巻<徐氏新撰>」と新唐書芸文志の「徐氏脈経訣三巻」をあげる。

続紀・天平宝字元年十一月二十三日・新日本古典文学大系

くすは

樟葉(クスハ)  大阪府枚方市楠葉(紀・崇神天皇10年9月。新編)

くすり

薬(クスリ)  元旦に天皇が屠蘇・白散などの薬を服用し、百官とともに長寿を願う中国伝来の行事がある。(紀・天武天皇4年春正月・新編)(紀・天武天皇8年10月・新編)(続紀・神亀3年冬6月14日・大系)

くすりのたぐひ

薬物の類(クスリノタグヒ)  (紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

くだもの

菓菜(クダモノ)  (続紀・養老2年夏4月11日・大系)

くだらのいけ

百済の池 堤を作るのにすぐれた技をもつ新羅の人も渡り来たのでの、カケウチノスクネがその新羅の人を率いて、渡りの技を取り入れた池として百済の池を作ったのじゃった。(紀・応神天皇・三浦佑之)

くちなし

支子(クチナシ) アカネ科の常緑潅木。果実は黄色の染料や薬用。(紀・天武天皇10年8月・新編)

くづ

葛 天吉葛(アマノヨサヅラ)「天」は天上界の事物に冠する美称の接頭語。「吉葛」は良い蔓草の意で、葛根のような食料になる蔓草を言うか。紀・イザナキ初出

くでん

口田(クデン) (続紀・天平宝字5年3月15日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年11月日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年12月4日・新日本古典文学大系)

くにはくし

国博士(クニカカセ) 国博士・国医師は、国別に各一人が置かれ、国学生・国医生を教授することを任とする(職員令80)。国博士・国医師はこれら四区分の範疇外の、国司の専権によって現地で採用される官であったと見ることも、不可能ではない。さて、本条は、国博士について、このような任用方法を改めて、(イ)部内・傍国に適任者がある場合は選叙令の規定に従って任用するが、(ロ)適人者の無い場合は、国はその旨を式部省に上申し、式部省は候補者を詮議して太政官に上申し、太政官がこれを処分するという方法で採用するということにしたものである。(ロ)は、国博士に土人にあらざる中央出身者を任用する令をひらいたことを意味するが、その任官が事実上(官)判任扱いとなったことをも示している。このような二種の任用方法は其の後国医師の任用にも拡大されたらしく、和銅元年四月癸酉条の制によれば、国博士・国医師の選考について、(a)土人・傍国で採用したものは、令条によるが、(b)「朝」より補せられたものの考選は史生と同じくするとの、任用方法の相違に対応する考選法が定められている。しかし、神亀五年八月壬申条の太政官奏では両者の区別無く「博士いし、以八考成選」とされ、宝亀十年閏五月丙申条の太政官奏でも両者の区別をせずに六考成選に改めているから、令条による現地採用の方式は、次第に行われなくなったものと推定される。なお、中央からの派遣官として国博士・国医師に任用されたのは、霊亀二年五月丁酉条の制に見られる如く、大学寮の大学生および典薬寮の医生の内の成業者であった。(続日本紀・大宝三年三月十六日・新日本文学大系) 諸国の国博士・国医師は職員礼0に国別各一人とあり、選叙令7にはその国内(の国学生・医生)から取るが隣国からでも良いとし、選叙・考課は郡司と同じとしており、これはk大宝令でも同様だったらしい。しかし地方の諸国で博士や医師の適格者を養成するのは当時の日本で難しかったようで、霊亀二年五月丁酉条では、中央の大学寮の大学生や典薬寮の医生の中に国博士・国医師へ推薦されることを望む者がいたことが知られ、神亀五年八月壬申条では、国博士を三、四国に一人、国博士を毎国一人とした。これは本条(養老七年十月庚子)が国博士を按察使のいる国(すなわち三、四国の中で一国)に一人として令制の国別一人を減定し、国医師については触れていない(すなわち令制どおりに国別一人)ことを、神亀五年八月に至って再確認をしたことを示している。(続紀・養老7年冬10月8日・大系)

くぬぎ

歴木(クヌギ) ブナ科の落葉高木。『筑後風土記』三毛郡の条に「昔楝(アフチ)一株(ヒトモト)、郡家の南に生(オ)ひたりき。素の高さは九百七十丈(ツヱ)なり。朝日の影は肥前の国藤津の郡の多良の峰を蔽ひ、暮日の影は肥後の国山鹿の郡の荒爪(アラツメ)の山を蔽ひき。・・・・因りて御木(ミキ)の国と言ひき。後の人訛りて三毛(ミケ)と曰ひて、今は郡の名と為す。他にも大樹伝説は多い。(紀・景行天皇18年7月。新編)(記・神功皇后・次田真幸) 「ヒサギ」と読む説もある。(記・神功皇后・新編)(紀・景行天皇・新編)(紀・仁徳天皇・新編)

くは

桑(クハ)(紀・イザナギ・新編)(紀・持統天皇7年春3月17日・新編)(続紀・天平神護2年6月3日・新日本古典文学大系)

くは

鍬(クワ)  (続紀・養老5年正月27日・大系)

くはこく

桑こく(クハコク)  古代中国の后妃が三月に行った農事関係祭祀。奈良時代は、正月の子の日に蚕の床を掃く玉箒を侍臣に賜い宴したことが万葉4493に見える。クハコクは桑の葉を摘み取る意。(紀・雄略天皇・岩波大系)

くはのえ

桑の枝(クハノエ) (紀・仁徳天皇・新編)

くはよほろ

钁丁(クハヨオロ)   (紀・安閑天皇・岩波大系)

くぶんでん

口分田(クブンデン)日本の班田制は概ね唐の均田制を模して田令に規定されされたが、華北の畑作を基準とする均田制と水稲耕作を基準とする班田制とでは農業事情が違うため、日本独自で決定しなければならぬ部分もあった。たとえば均田制では丁男一人に八十畝とする口分田は、班田制では次の如くである。

凡給口分田者、男二段(女減三分之一)。五年以下不給。其地有寛狭者、従郷法。易田倍給。給訖、具録町段及四至。(田 令3)

この条文の「男二段<女減三分之一>」は、水田の全面積を日本の男女別総人口を調査し、前者を後者で割って出した数値を参考にしなければ決定できなかったであろうが、男子の三分の一にせよ女子にも口分田を班給するのは日本独自である。之は粗放な畑作と違って集約的な水稲耕作が女性の労働力を必要としていたためというけれども、ともかく均田制が受田資格と租調負担とを結び付けていたのに対して、両者を一応切り離すという班田制の基本方針にもとづいている。均田制が租調を負担する良民の成年男子のみに口分田を班給しているのに、班田制では前記の条文に「五年以下不給」、即ち満六歳になれば受田資格があると解される規定を設けていることや、次の条文に見えるように官戸の男女には良民並み、家人の男女や奴婢まで良民の三分の一にせよと受田資格を認めているのも日本独自である。

凡官戸奴婢口分田、与良人同。家人奴婢、髄郷寛狭、並給三分之一。(田令27)

この条文は律令制定に参加した官人貴族自身が多数の家人奴婢を持っていたので加えたとも云われるけれども、令集解の古記はこの条文を注釈して「問、家人奴婢並給三分之一。未知、寺家々人奴婢如何処分。答、無給之法。但従来有田者、不在給限。唯無田寺臨時量給耳」と言う。田を持つ寺の家人奴婢はその田を耕して食べてゆけば良いが、田のない寺の家人奴婢には適宜に口分田を班給するのだと言うことである。この注釈は、家人奴婢にも口分田を班給するのは彼等の所有者の田を増加させると言うことよりも、家人奴婢にも生存権があるという考えにもとずいているように見える。

しかし班田収受も六年ごとに実施されるようになってから六回目を迎え、昨養老六年閏四月の百万町歩開墾計画や本養老七年四月の三世一身法で明らかなように「頃者、百姓漸多、田池窄狭」となったので、班年にあたる本年の十一月一日からの口分田班給(田令23)に際して、今後は家人奴婢なら満十二歳以上で無いと与えないこととしたのである。天平の頃にもこの措置が引き続き行われていたことは、令集解の古記が前に引用した部分の後に「問、家人奴婢六年以上、同良人給不。答、与良人同、皆六年以上給之。但今行事、賤十二年以上給之」と付加していることから判明する。(続紀・天平7年11月2日・新日本古典文学大系)

くぼた

下田(クボタ) (記・火遠理命・次田真幸)?田(紀・火火出見尊・新編)

くまかし

熊白檮(クマカシ) 神聖な樫の木。(古事記・景行天皇・次田真幸)   大きな樫。樫の常緑の葉を髪に挿すのは、その生命力につながるための共感呪術(古事記・景行天皇・新編)→はひろくまかし

くまののおしほみのみこと

熊野忍蹈命(クマノノオシホミノミコト) 「忍蹈」は「忍穂霊」か。(紀・天照大神・新編)

くまののくすひのみこと

熊野?樟日命(クマノノクスヒノミコト) クマノは隈野で、奥まった野。クスヒは「奇霊くすひ」。?樟→くす クマは「神饌・奠」とも記され、「米」を意味する。それによるとクマノは「奠稲くましね」が奉献される聖域との観念にもとづく地名で、それを核にした神名か。この神を祖とする氏族は記紀ともに記されていない。(紀・イザナキ・新編)

くめのあたひ

久米直(クメノアタヒ) 久目部を率いて大友氏に従属し、宮廷の軍事に従った伴造トモノミヤッコ。(記・邇邇芸命・次田真幸)→(記・神武天皇・次田真幸)あまつくめのみこと

くらひもの

食物(クラヒモンノ) (記・天照大神・新編)

くりそめ

皁(クリソメ)  家人・奴婢が着る橡(ツルバミ)で染めた紺黒色の服。(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)

くれなゐ

紅(クレナイ)   (続紀・宝亀元年3月28日・新日本古典文学大系)

くれなゐのひもをつけたるあをずりのきぬ

紅の紐を著けたる青摺の衣(クレナヰノヒモワツケタルアヲズリノキヌ)  官人としての正装。(記・仁徳天皇・新編)(記・雄略天皇・新編)

くれのきぬぬひ

呉衣縫(クレノキヌヌヒ)呉は中国南部の国名。新しい技術の導入(紀・応神天皇・三浦佑之) (紀・応神天皇・新編)→かやのきぬぬひ

くれはとり

呉織(クレハトリ) 呉は中国南部の国名。新しい技術の導入(紀・応神天皇・新編) (紀・雄略天皇・新編)

古代に中国から渡来した縫工女(きぬぬいめ)。「はとり」は機織(はたおり)の意。『日本書紀』によれば応神(おうじん)天皇37年に、呉(ご)(中国、江南地方)王が縫工女兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織、穴織(あなはとり)を献じたという。雄略(ゆうりゃく)天皇14年にも呉から漢織、呉織と衣縫(きぬぬい)の兄媛、弟媛が献じられた。兄媛は大三輪(おおみわ)神に奉り、弟媛は漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とし、漢織と呉織は飛鳥(あすか)衣織部と伊勢(いせ)衣織部の祖先であるとみえる。漢織・呉織は、ともに呉からきた綾織(あやおり)の技術者をさしている。7月7日の星祭を七夕(たなばた)とよび、織女星を祀(まつ)ることによって女性の手芸が上達するという行事と信仰が古くからある。七夕は棚機(たなばた)で呉の進んだ織機をさし、七夕祭は漢織・呉織の渡来と関係があろう。
[執筆者:志田諄一]→あなはとり

くり

栗(クリ) (記・雄略天皇・三浦佑之)(紀・応神天皇・新編)(紀・持統天皇7年春3月17日・新編) →みつくり

くろきぬ

黒絹(クロキヌ)   (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)

くろきぬ

皁衣(クロキヌ) 橡(ツルバミ)で染めた紺黒色の服。(紀・祟峻天皇即位前紀・新編)

くろきみけし

黒き御衣(クロキミケシ)(記・大国主神・新編)

くろくし

玄櫛(クロクシ) 黒色の櫛黒竹(クロチク)で作って櫛か。(紀・火火出見尊・新編)

くろみかずら

 黒鬘(クロミカヅラ)蔓草の一種。イザナキはそのツルを束ねて冠として頭にかむっていた。これは、クロミカズラの冠の呪力得終えようとする行為。蔓草を投げたから、エビカズラ(山ぶどう)が生えてきたのである。(記・天地開闢・三浦佑之) クロミは黒ム(黒みがかるの意)の連用形。カヅラは蔓草。蔓延(マンエン)することから、「生命の木」として髪飾りにした。これを投げ捨てるのは逃亡説話の類型。それから葡萄が生えるのは一種の感染呪術。(紀・イザナキ・新編)

くろむぎ

喬麦(クロムギ)  (続紀・養老6年7月19日・新日本文学大系)

くわ

桑  稚産霊(ワクムスヒ)の頭の上に生える。(記・イザナキ・次田真幸)(紀・イザナキ・新編)(記・仁徳天皇・新編)(紀・雄略天皇・新編)

くわ

鍬(クワ)  (続紀・養老7年2月14日・大系)

くわ

钁(クワ)  (紀・天武天皇10年正月11日・新編)

くわゑんし

花苑司(カエンシ) (続紀・神護景雲元年3月20日・新日本古典文学大系)

くわたう

禾稲(カトウ)  (続紀・養老6年8月14日・大系)

くわんたう

官稲(カントウ)  (続紀・天平6年春正月15日・体系)

ぐんたう

郡稲(グントウ)  雑色官稲としての郡稲は、こののち天平六年の官稲混合によって正税に統合されるまで、置かれていたことが確認される。郡稲収支の実情を示す資料としては、天平に年度の隠岐国郡稲帳、天平六年以前の播磨国郡稲帳が残されている。

これらの資料によれば、群稲は出挙稲として運用され、元日設宴食料、正月御斉会供養料、新任国司食料、伝使食料、国司部内巡行食料、土毛交易価料、備酒・塩料・織錦綾羅料糸価料など、国衙経常費と中央諸官への貢納物購入費とに支出された。 ただし、この郡稲の起源については諸説があり・・・・・(続紀・和銅5年冬10月29日・新日本文学大系)

けいぼう

頃畝(ケイボウ)  (続紀・養老2年夏4月11日・大系)

けちら

纈羅(ケツラ) 羅は、うすはた、うすもの。纈羅は、絞り染の羅。(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)

げでん

下田(ゲデン) (続紀・延暦10年5月28日・新日本古典文学大系)

げやくれう

外薬寮(ゲヤクレウ) 薬に関する宮司は大宝令制では中務省被官の内薬司と宮内省被官の典薬寮とがある。外薬寮は典薬寮の前身か。令制典薬寮は四等官の他、医師・医博士・医生・針師・針博士・針生などが所属する。浄御原令施行期の文武三年正月の『続紀』記事に「内薬官」の語がみえるところから、天武朝では、「外薬官」といい、書紀編者が「外薬量」に改めたのであろう。(紀・天武天皇4年春正月・新編)

げんかいでん

見開田(ゲンカイデン)  (続紀・神護景雲2年9月11日・新日本古典文学大系)

けんざう

懸像(ケンゾウ) 懸像は日月、「懸象」とも。ここは天候が不順なこと。(続日本紀・霊亀元年6月12日・新日本文学大系)

しの

蚕(コ) (記・天照大神・次田真幸)(記・天照大神・新編)(続日本紀・和銅7年2月13日・新日本文学大系)(続紀・神護景雲2年3月1日・新日本古典文学大系)

蕢(コ) もっこ(紀・仁徳天皇・新編)

ごおう

牛黄(ゴオウ) 薬物の一種で、病牛の胆中に生じる一種の結石。(続日本紀・文武天皇元年正月8日・新日本文学大系)(続日本紀・文武天皇元年11月29日・新日本文学大系)

ごか

五稼(ゴカ)  五穀。(続紀・神亀4年春2月23日・大系)

こかぶ

木株(コカブ) (紀・邇邇芸命・新編)

こかひ

養蚕(コカイ) 文献では魏志倭人伝に「蚕桑」の記述があり、養蚕の徴証がみえるが、考古学的遺物から言えば弥生時代の中期前半まで遡る。八世紀では、一化性蚕と二化性蚕があったと言う。続紀には天平宝字元年八月甲午条に「虎の文」と称する虎蚕の品種がみえる。これは一化性蚕と言う。ところが、本条のように十月に「養蚕損傷」とみえる事態は、他に宝亀六年十一月丁酉条に大宰府言として「日向・薩摩両国風雨、桑麻損尽」がある。これらが一化性蚕でないことは明白であるが、二化性蚕としても時期が遅い。むしろ、多化性の蚕が飼育されていたことを示唆するという(布目順郎『養蚕の起源と古代絹』)。

(続紀・天平18年冬10月5日・新日本古典文学大系)

こきみどり

深緑(コキミドリ)  (紀・持統天皇4年4月14日・新編)

こきはなだ

深縹(コキハナダ)  薄い藍色(紀・持統天皇4年4月14日・新編)

こく

穀  (続紀・霊亀元年10月7日・大系)(続紀・養老6年閏4月25日・大系)(続紀・神亀3年6月6日・大系)(続紀・神亀5

年2月23日・大系)(続紀・神亀5年5月16日・大系)(続紀・天平7年5月23日・大系)(続紀・天平7年11月17日・大系)(続紀・天平8年7月14日・大系)(続紀・天平16年10月12日・新日本古典文学大系)(続紀・天応元年2月30日・新日本古典文学大系)

こくは

木鍬(コクハ) 鍬先が木製のもの(記・仁徳天皇・次田真幸)

こくはく

穀帛(コクハク) 穀物ときぬ(続紀・宝亀11年3月16日・新日本古典文学大系)

こけ

苔(コケ)  (記・スサノヲ・三浦佑之)

ごこく

五穀(ゴコク)   (紀・斉明天皇5年7月・新編)(続紀・天平13年3月23日・新日本古典文学大系)(続紀・天平勝宝春正月4日・体系)(続紀・神護景雲元年2月20日・新日本古典文学大系)

こしき

甑(コシキ)  米などを蒸す道具、土器製のほか木製も有った。(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

こしきのしみきぬ

五色綵(コシキノシミキヌ)  (紀・持統天皇3年春正月9日・新編)

こだね

樹種(コダネ) 五十猛神天降りし時に、多に樹種をもちて下りき。然れども、韓地に植えず、尽く爾持ち帰り、遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふことなし。 (紀・天照大神・新編)

ことかつくにかつながさ

事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ) 国神。事に勝(スグ)れた国に勝れた長い稲の意か。(紀・邇邇芸命・新編)

こなた

水田(こなた) 熟(こな)れた田。よく開墾された田。神田として献上した。(紀・仲哀天皇・新編)(紀・持統天皇4年10月22日・新編)(紀・持統天皇6年12月14日・新編)(紀・持統天皇8年3月11日・新編)(紀・持統天皇10年夏4月27日・新編)(紀・持統天皇10年夏5月8日・新編)

このね

木の根(コノネ)  (記・雄略天皇・新編)

このは

木の葉(コノハ) (記・神武天皇・次田真幸)

このはなのあまひ

木の花のあまひ(コノハナノアマヒ) 木の花が咲いて散るように、はかないの意であろう。(記・邇邇芸命・次田真幸)(紀・邇邇芸命・新編)

このはなのさくやひめ

木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ) 木の花の咲き匂う意の名。神阿多都比売のまたの名としたのは、隼人の女神カムアタツヒメにサクヤヒメの伝説を結びつけるためである。(記・邇邇芸命・次田真幸)  「木花」は特に桜の花を指す。「佐久夜」はサク(咲)に、状態化の接尾辞ヤの付いた形。桜の花が咲くように美しい女神。(記・ニニギノミコト・新編)   木の花が咲く姫の意。この花は穀物の豊凶を占う桜の花。(紀・邇邇芸命・新編)→かむあたつひめ →かしつひめ

このはなちるひめ

木花知流比売(コノハナチルヒメ) 同じく大山津見仮美女ムスメと伝える木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)とともに、桜の花にちなんだ神。(記・天照大神・次田真幸)   名義は、桜の花が散ること。豊かな収穫の予祝を込めた名。(記・須佐之男命・新編)

このま

木の間(コノマ) (記・神武天皇・次田真幸)

このもと

畝尾の木の本(ウネヲノコノモト) 「畝尾」は丘の高い所。「木の本」は地名。(記・イザナキ・次田真幸) 樹の本(コノモト)→(紀・武烈天皇・岩波大系) 樹下(紀・天武天皇10年8月・新編)→き →きのすえ

こむしつ

金漆(コムシツ) こしいあぶら。ウコギ科の樹木の実から取った黄色で光沢の有る樹脂液。塗料として用いた。(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)

こむしやう

金青(コンショウ)  青色の顔料。紺青とも。黄血塩に硫化第一鉄を化合させて作る。和名抄に「本草稽疑云、金青者、空青之最上也」。(続日本紀・文武2年9月25日・新日本古典文学大系)

こめ

米  (紀・京極天皇2・新編)(続紀・天平5年閏3月21日・体系)(続紀・延暦2年正月4日・新日本文学大系)(続紀・延暦2年7月25日・新日本文学大系)

米焼く

籾米を焼き籾殻を除いて焼米にしたもの。(紀・京極天皇2・新編)

こも

海蓴(コモ) 海藻であるが、何をさすか不明。(記・葦原中国平定・次田真幸)  海藻の名。ホンダワラのことか。アオサを指すとする説もあるが、アオサは古くアハサと呼ばれた。(記・ニニギノミコト・新編)

こんでん

墾田(コンデン) (続紀・天平2年3月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平15年6月27日・新日本古典文学大系)(続紀・天平勝宝閏5月11日・新日本古典文学体系)(続紀・神護景雲元年3月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年4月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年11月日・新日本古典文学大系)

さいしき

菜色(サイシキ) 礼記、王制に『雖有凶旱水溢、民無菜色」、鄭玄注に「菜色、食菜之色、民無食菜之飢色」」

さいはく

綵帛(サイハク)  綵帛は彩色した絹。訓はアヤギヌ、シミ(染み)ノキヌ。蝦夷や粛慎に与えた例が斉明紀六年三月条にみえる。(続紀・神亀元年夏4月14日・大系)(続紀・神亀5年夏4月16日・大系)(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦4年3月9日・新日本文学大系)

さえ

栄枝(サカエ)  繁茂した枝さかき

坂樹(サカキ)紀・五百箇真坂樹イホツマサカキ)イホツは枝葉が多数でよく茂った意。マは美称。サカキ(境木)は境界の木で、神の拠る聖域を示す木。根コジは根つきのまま掘り取ること。(新編、紀)  五百津真賢木(イホツマサカキ)枝葉のよく繁っている賢木。「賢木」は心霊の拠りしろとなる常緑樹。(記・次田真幸)  賢木(サカキ)(紀・景行天皇・新編)
(紀・仲哀天皇)

さかき

坂樹(サカキ)紀・五百箇真坂樹イホツマサカキ)イホツは枝葉が多数でよく茂った意。マは美称。サカキ(境木)は境界の木で、神の拠る聖域を示す木。根コジは根つきのまま掘り取ること。(新編、紀)  五百津真賢木(イホツマサカキ)枝葉のよく繁っている賢木。「賢木」は心霊の拠りしろとなる常緑樹。(記・次田真幸)  賢木(サカキ)(紀・景行天皇・新編)
(紀・仲哀天皇)

さきあしぎぬ

狭絁(サキアシギヌ)  (続紀・養老3年5月15日・大系)

さきかひひめ

刮貝比売(サキカヒヒメ) 「刮」に「虫」を加えて造字したものとする説に従う。「刮」はキサグと読む字で、こそげ取るの意。キサは赤貝のことであるが、大穴牟遅神の復活の際、「石」に張り付いた体をキサグことを役割とする。(記・大国主命・新編)→うむかひひめ

さきくさ

三枝(サキクサ)  現在のなんと言う植物にあたるか、未詳。サキクサは、「幸草」の意か。「三枝」の文字は、茎の先が三本に分かれていることを示す。ミツマタとする説が有力だが、ミツマタは草ではない。(記・顕宗天皇・新編)  みつまた・じんちょうげ科(万葉の花・松田修)
福草部(サキクサベ)サキクサは幸いの草、の意で、特定の植物名ではない。ただし「三枝」の用字や、「さきくさの」が「三つ・中ナク」にかかる枕詞であることからも、枝が三又の植物をさすか。(紀・顕宗天皇・新編)

さきたけ

打竹(サキタケ) 「拆竹サキタケ」の意で、割った竹はよくたわむので「とををとをを」の枕詞としたもの。(記・葦原中国平定・次田真幸)

さくら

桜(サクラ)   (紀・允恭天皇・新編)

さくらのはな

桜の花(サクラノハナ)  (紀・履中天皇・新編)  桜の華(サアクラノハナ)(紀・允恭天皇・新編)

ささ

小竹(ササ) (記・允恭天皇・三浦輔湯域)→しの(記・天照大神・新編)

ささば

小竹葉(記・天照大神・次田真之)  笹葉(ササバ)(記・允恭天皇・新編)

さじふつのかみ

佐士布都紙(サジフツノカミ) サジの語義は未詳。フツは「布都御魂」のフツに同じく、光ること、神霊の降臨することの意。(記・神武天皇・次田真幸)

さしぶ

烏草樹(サシブ) ルルジ科の常緑低木でシャシャンボの古名。(記・仁徳天皇・次田真幸)  サシブは烏草樹のこと。いまシャシャボ・サセボなどと呼ぶツツジ科の常緑低木のことだといわれている。(紀・仁徳天皇・新編)

さずき

仮庪(サズキ) 仮に作った棚、食物の棚。桟敷(記・天照大神・新編) 神への供え物を載せる棚。(記・天照大神・三浦佑之)(紀・雄略天皇・新編)

さなかづら

さな葛(サナカヅラ) モクレン科の蔓性低木。茎の粘液は髪油の材料とした。さな葛の根を舂き、その汁の滑を取りて、その船の中の簀椅に塗り、踏まば仆るべく設けて・・(紀・応神天皇・次田真幸)

さなだ

狭長田(サナダ)サ(神稲)ナ(連体助詞)ダ(田)と解する説があるが、サ(神稲)にはすぐ体言が続く(「早稲サナヘ」など)から、「サ田)となるはず。また「真田サナダ」は本当の(美称)田の意。従って「狭長田」は文字どおり、狭く細長い田と解し、神田の特徴に基づいた表現(神田は山の最初に水を取って治ハられる山田であるから、狭くて細長い)とみて、サナガタと訓みたい。
「真田」で、本当の田の意。立派な田の美称。(紀・邇邇芸命・新編)

さなだ

狭名田(サナダ) 「真田」(サナダ)、本当の田の意。立派な田の美称。(紀・邇邇芸命・新編)

ざふこく

雑穀(ゾウコク)  (続紀・霊亀元年10月7日・大系) ここでは麦や粟も含むのであろう。(続紀・養老6年閏4月25日・大系)

ざふしきのくわんたう

雑食の官稲(ゾウシキノカントウ)  雑稲(雑色官稲・雑官稲)には、群稲をはじめ各種のものがあり、出挙してその利稲を特定の目的に用いた。本条の勅はその雑稲を、駅起稲を除いて正税に混合すべきことを命じたもので、出雲国計会帳では、天平六年二月八日付けで、伯耆国から本条の勅の旨を記した太政官符(官稲混合状)が出雲国に送られている。この年、諸道に検税使の派遣されたことが、「天平六年七道検税算計法」(延暦交替式)の存在により察知されるが、それは、官稲混合の実施状況や、正倉管理の状況を把握するために行われたのであろう。(福井俊彦『交替式の研究』)。

本条の勅で除外された駅起稲も、天平十一年六月には正税に混合され(続紀天平十一年六月戌寅条)、また本条には記載のない兵家稲も、同年九月十四日の兵部省符により正税に混合された(天平十一年度伊豆国正税帳、)。駅起稲は駅家に貯蓄され、出挙してその駅家の設備や駅馬の購入に当てられたものと考えられ、兵家稲は兵部省の管理に属し、武器の購入・修理等の費用に当てたものと考えられる。これらの稲の正税への混合が遅れたのは、その管理形態や管轄の相違などによるものであろう。なお出雲国計会帳で、天平六年三月三日、「官稲混合状」の太政官符とともに隠岐国から出雲国に送られている「白書壱通<神税等稲不合状>」は神税等について正税への混合の例外とすることを通知した、補足の文書(官印を押捺していない)ではないかと思われる。

本条におけるいわゆる官稲混合が実施されたさまは天平六年度の越前国郡稲帳と官稲混合後の記載とを比較すれば、どのような費目が本来郡稲からの支出であり、それがいかに正税に組み込まれたかが察知される。当時、諸国では年料交易雑物など中央への貢納物のために正税から多額の支出を行っており、また国衙機構の整備や中央との連絡強化の費用を支えるためにも、正税出挙の充実をはかる必要があったと考えられる。本条の施策は、従来個々の目的のために出挙されていた官稲を正税に一元化することによりその運用を弾力化して財政の需要にこたえ、また責任の所在を明確にして不正の防止をはかることを目的としたものであろう。それはまた、従来郡司のもとで行われてきた、古い形の財政運用を、国司を中心とする新しい地方支配体制の中で、より合理的な運用に転化させたものとも見ることが出来る。(続紀・天平6年正月17日・新日本古典文学大系)

ざふたう

雑稲(ゾウトウ) 特定の用途を賄うために設定された出挙稲。郡稲・公用稲:・官奴婢食料稲・駅起稲が確認され、利を用途にあてた。(続紀・養老3年6月16日・大系)

さひもちのかみ

鋤持神(サヒモチノカミ) 鮫のこと。神として恐れられた。サヒは鋤または剣で、鮫の歯をサヒに見立てた。(紀・神武天皇・新編)

さゐ

佐韋(さゐ) 山百合(記・神武天皇・次田真幸)  山百合の元の名→さゐかわ →やまゆりくさ

さゐがわ

狭井河・佐韋河(サヰガハ)その河の辺に山ゆり草多サワにありき。その山ゆり草の名を取りて、佐韋河と号(ナヅ)けき。山ゆり草の本の名は佐韋と云ひき。(記・神武天皇・次田真幸)→さゐ →山ゆり草

さよみのぬの

貲布(サヨミノヌノ)  細糸で織ったやや上質の布。(続紀・神護景雲2年9月11日・新日本古典文学大系)

さを

槁機(サヲ) 「槁」は「?」の古字で、船を進める道具としてのサヲ(竿)を指す。「機」は、芋を確認するための添え字。(記・神武天皇・新編)

さをねつひこ

槁根津日子(サヲネツヒコ) 船頭役を務める神。(記・神武天皇・新編)

しき

師木(シキ)「師木」は地名、奈良県磯城郡に当る。兄師木(エシキ)、弟師木(オトシキ)礒城地方の土豪の兄弟の名。(記・神武天皇・次田真幸)

しきでん

職田(シキデン)  (続紀・天平4年2月15日・体系)

しきまき

重播種子(シキマキ) 一度播いた上に重ねて種を播く意。『延喜式』「大祓詞」に天津(アマツカミ)に対して犯した罪として「頻蒔(シキマキ)がある。人の冒す農業妨害の罪。(紀・天照大神・新編)

じしやく

慈石(ジシャク)  鉱産物。本草集注に仙薬。(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

しそう

芝草(シソウ) 瑞草の一つで、服すれば不老延年の仙薬。「王者慈仁ならば即ち芝草生ふ」「形は珊瑚に似、枝葉連結し、或いは丹或いは紫、或いは黒、或いは金色、或いは四時に従い色を変ふ。一云、一年に三度華咲く。是を食さば眉寿たらしむ。」(紀・皇極天皇3・新編)(紀・天武天皇8年冬10月・新編)→むらさきのたけ

したき

下樹(シタキ) 幹の下の木(記・応神天皇・次田真幸)

したでるひめ

下照姫(シタデルヒメ) 「下照」は物の輝きによって下界まで明るくなる意。本体は女性の雷神。天稚彦と下照姫との結婚は、穀神と雷神との結合によって稲がよく実ることを意味する。またこの説話では、天上界の世子が下界に来てその地の支配者(大国主神)の娘と結婚するが、これは聖婚を意味し、その地を服従せしめることを意味する。(紀・葦原中国平定・新編)

したび

下樋(シタビ)  (記・允恭天皇・新編)

しでん

賜田(シデン)  別勅によって賜る田。 (続紀・天平元年11月7日・大系)

しつまき

倭文纏(シツマキ)  シツ(倭文)は国産の美しい模様の織物。大陸産の綾や錦の絢爛さは無いが、倭文纏も、帝王にふさわしい立派な胡床(足のついた高く大きく設けられた座席)(紀・雄略天皇・新編)

しつはた

倭文服(シツハタ)  倭文織=倭文服(シツハタ)(紀・武烈天皇・岩波大系)

しの

篠(シノ) 篠は小竹なり。此には斯奴シノと云ふ。清湯山主三名狭漏彦八島篠(スガノユヤマヌシミナサモルヒコヤシマシノ)(紀・天照大神・新編)   小竹(シノ)(古事記・景行天皇・次田真幸)
(古事記・景行天皇・新編)

しば

荊(シバ) (紀・欽明天皇・岩波大系)

しば

枝葉(シバ) 雑木の小枝。(紀・皇極天皇・新編)

しばかき

柴垣 (記・清寧天皇・新編)

しばくさ

(柴草) (続日本紀・景雲3年3月13日・新日本文学大系)

しひ

椎子(シヒ) (紀・欽明天皇5・岩波大系)

しひさを

椎槁(シヒサヲ) 椎は堅い木なので棹に用いた。(記・神武天皇・新編)

しひねつひこ

椎根津彦(シヒネツヒコ) (記・神武天皇・新編)

しひひし

椎菱(シヒヒシ) 椎の実や菱の実のように白くて、形がそろっている(記・応神天皇・次田真幸)

しほ

塩(シオ) (続紀・延暦2年正月4日・新日本文学大系)(続紀・延暦7年正月28日・新日本文学大系)

しうしう

秋収(シュウッシュウ)  (続日本紀・和銅元年2月11日・新日本古典文学大系) 秋の収穫後に借りた官物を造りなおさせる。しかしこの閏四月下旬から開墾しはじめるとすると、今秋の収穫は無理。(続紀・養老6年閏4月25日・大系)

じょい

女医(ジョイ) 女医は女性であって医疾令16逸文(要略九十五至要雑事)に、

女医、取官戸・婢、年十五以上二十五以下、性識彗了者三十人、別所安置。教以安胎・産難、及創・腫・傷・折・針・灸之法、皆案文口授。毎月医博士試、年終内薬司試、限七年成。

とあるように、官戸の女子や婢から若くて頭の良い者三十人を取り、内薬司の側に別院を作って住まわせ、産科を始め、内科・外科の一応の医療をそれぞれ専門の医師が医学書を読ませることなく口述で教育し、毎月医博士が試験し年度末には内薬司が試験して、七年以内に修了させることになっていたが、もっぱら女医の養成に責任を持つ医博士は置かれていなかった。それが勅が出てから一年後、内薬司に置いたのだが、三代格の寛平八年十月五日に内薬司を典薬寮に併合したときの官符によれば定員は一、また職原抄によれば官位相当は正七位下であった。(続紀・養老6年11月7日・新日本古典文学大系)

じょうでん

上田(ジョウデン) (続紀・延暦10年5月28日・新日本古典文学大系)

しやうふ

商布(ショウフ) 自家用・交易用の布。 (続紀・宝亀元年3月28日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀8年6月5日・新日本古典文学大系)

しゆし

種子(シュシ)  (続紀・養老7年2月14日・大系)(続紀・神護景雲元年2月20日・新日本古典文学大系)

しょうそう

正倉(ショウソウ)  正倉は国司の管理下にある稲・穀を納める倉。クラには倉・庫・蔵の文字を用いるが、それぞれ意味が異なっていた。倉は稲穀を収めるクラ、庫は兵器・文書等を収めるクラ、蔵は調庸・諸国貢献者等を収めるクラとして区別され、クラを総称する場合には倉・倉庫と記された。一般に官物を納入するクラは、倉庫令1の規定によると、高く乾燥したところに造営し、また防火のために付近に池渠を掘ることとしている。これらの正倉については、天平年間の諸国正税帳に記載がある。記載によると、正倉は各郡ごとにおかれており、不動穀倉、動用穀倉、穎倉、糒倉、郡稲倉など収納された穀・稲の種類、穀・稲の用途の別などによって区別されていた。また板倉・土倉・丸木倉・構木倉など、その建物の構造の差異によって名称が付けられていた場合もある。これらの正倉に穀を納入するときはバラ積みとし、穀の占める体積によってその量が計算できるようになっていたが、それには積み上げた穀の重みで体積が減量することを考慮する必要があった。その計算方法は公に定められており、延暦交換式にみえる天平六年七道検使算計法や、宝亀七年畿内并七道検税使算計法はその例である。穎稲は稲束のまま、糒(ホシイヒ)は俵につつんで収納された。正倉は一般的には高床で(土倉は未詳)、校倉ないし板倉であったと考えられる。高床でない平地式建物を倉として利用する場合もあったが、これを倉に対して、屋と表記して区別している。

また福岡県小郡遺跡などをはじめてとして、全国各地の郡家あとでは、多数の倉庫跡が見つかっているが、それらは大小二つの規模に分類される。この大小二種類の倉庫は、正税帳等でも区別されている。大型のものは桁行が七間以上あるもので、小形のものは三間ないし四間である。前者は郡家跡に特徴的なものであるが、後者の小規模なものは古墳時代にも見られ、また八世紀の一般集落跡でも発見されている。(続日本紀・和銅5年秋7月17日・新日本古典文学大系)

しやうふ

商布(ショウフ) 調庸以外の自家用の布。和名抄に「和名、多爾「とある。交易に商布を用いさせ、常布の使用を禁じた制。(続紀・和銅7年2月2日・新日本文学大系)(続紀・神護景雲元年3月2日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年3月26日・新日本古典文学大系)→じやうふ

じやうふ

常布(ジョウフ) (続紀・和銅7年2月2日・新日本文学大系)(続紀・天平2年正月16日・新日本古典文学大系)→しやうふ

しらかし

白橿(シラカシ)  山地に自生するブナ科の常緑高木。材が白いので白カシ。(紀・景行天皇17年3月。新編)

しらにきて

白和幣(シラニキテ) 楮の皮の繊維で織った白い布帛。(記・天照大神・次田真幸) 白丹寸手・「にきて」は、布(後には紙)を、木の枝などにかけて神にささげたもの。ニキhくぁ神を安める意のほめ言葉、テは接尾語。白いのは楮製、青いのは麻製。(紀・天照大神・新編)→にきて

しらはた

素旆(シラハタ) 降伏のしるし。「旆」は黒地にさまざまな色の絹の縁飾りをつけ、その末端を燕の尾のように裂いた旗で、大将の立てるもの。ここではそれを白くしたもので、大将の降伏を表す。(紀・仲哀天皇・新編)

しらん

芝蘭(シラン)  芝草と蘭草。共に芳香のある草で、善人君子あるいは佳良な子弟の喩。ここは鎌足の子孫のこと。(続紀・天平宝字元年閏8月17日・新日本古典文学体系)

しりくめなは

尻くめ縄(シリクメナハ) 注連縄のこと。『書紀』神代上「端出之縄」の訓注にシリクメナハとあるのによれば、藁の端を出したままにした縄を端に出したままにした縄をいったもの。クメは出す意の下二段他動詞クムの連用形。(記・天照大神・新編)

しりやう

資粮(シリョウ)  (続紀・和銅6年3月19日・新日本文学大系)

しろきなまり

白金葛(シロキナマリ)  すず。和名抄には錫に「兼名苑云、一名白金葛<盧蓋反、和名之路奈麻利>」。(続紀・文武天皇2年9月28日・大系)

しろきわた

白綿(シロキワタ)  (続紀・養老元年11月10日・大系)(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀10年5月26日・新日本古典文学大系)

しろつばき

白海石榴(シロツバキ)  (紀・天武天皇13年3月・新編)→つばき

しろたへ

白栲(シロタヘ)  タヘ(栲)は、楮の類から採った繊維で、色が白い。(記・雄略天皇・新編)

しろぬの

白布(シロヌノ)  (紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

しまだのおみ

島田臣(シマダノオミ) 尾張国海部郡島田郷にちなむ氏族名。多朝臣と同祖。(記・神武天皇・次田真幸)

しみのきぬ

綵絹(シミノキヌ) 『新撰字鏡』に「綵、染繒也、雑也、五色の惣名也」。「染」はしみ込ませて色をつけたもの。「綵」は文アヤ・色どりの衣。(紀・神功皇后・新編)(紀・斉明天皇5年3月・新編)(紀・斉明天皇6年3月・新編) 彩絹彩色した絹(紀・持統天皇2年8月2日・新編)(紀・持統天皇3年3月20日・新編)

しみのもの

彩色(シミノモノ)  種々の顔料 (紀・持統天皇2年2月2日・新編)

しめころも

染め衣(シメコロモ)染め草の汁で染めた衣。(記・大国主神・新編)

しもと

弱木(シモト) シモトは細長く伸びた木の若枝。(紀・雄略天皇・新編) シモトは潅木。(紀・雄略天皇・岩波大系)

じようでん

乗田(ジョウデン)  口分田等に班給した剰余の田。勘出した田が足らず全輸の正丁すべてにゆきわたらない時には、勘出田を乗田として賃租させるの意か。(続紀・天平宝字4年11月6日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年11月日・新日本古典文学大系)

しんしゆ

真朱(シンシュ) 赤色の顔料。和名抄にはみえない。万葉集3841に「真朱マホゾ」。(続紀・文武天皇2年9月28日・大系)

しんしゅほんさう

新修本草(シンシュホンソウ) 梁の陶隠居(弘景)は、斉の永元二年(500)までの間に、当時伝存した神農本草(四巻)を中心に魏晋以来の名医別録の記事を配列して神農本草経(三巻。上序、中巻玉石草木、下巻虫獣果菜米食))を作り、さらに上巻の序はそのままに中・下巻に自注を加え、全七巻の神農本草経を作ったが、本草集注(本条[延暦六年五月戌戊条]の「陶隠居集注本草「)がこれにあたる。(岸俊夫「木簡と紙」『宮都と木簡』、和田萃「薬猟と『本草集注』」『日本古来の儀礼と祭祀・信仰』中)。旧唐書経籍志下に、「本草集注七巻<陶弘景撰<」、新唐書芸文志三に、「陶弘景集注神農本草七巻」とある。唐の顕慶四年(659)、高宋の命を受けて本草集注を修訂した蘇敬による新修本草が完成した。旧唐書経籍志下に、「新修本草二十一巻<蘇敬撰>」、新唐書芸文志三に、「蘇敬新脩本草二十一巻」とある。本文二十巻・目録一巻からなる。本草集注の日本への伝来については、七世紀初頭か六世紀代までに遡る可能性も指摘され、百済を経由して伝わったものと見られる。(和田前掲書)。藤原宮出土木簡にも、「(表)本草集注上巻(裏)黄芩二両芷白二両」(『藤原宮』七四号)とするものがあり、天武朝以後、本草集注が本草の基本書として用いられていたものとみられる。医疾令3逸文義解には、医生の必修とすべき本草書として、蘇敬の「新修本草二十巻」をあげているが、本条が記すように延暦六年以前は本草集注が本草の教科書として用いられていたらしい。(岸前掲書)。本条以後は、「凡医生、皆読蘇敬新修本草「(式部省式上)とするように、新修本草が本草の教科書とされることとなった。本草集注は日本国見在書目録にはすでに記載がなく、中国でも宋代には散逸していた。(続紀・延暦6年冬5月15日・新日本文学大系)

しんじゆつ

賑恤(シンジュツ)令で賑恤(賑給)について定めているのは、戸令45の「凡遭水旱災蝗、不熟之処、少粮応須賑給者、国郡検実、預申太政官奏聞」という条文であるが、これが適用されるのは凶作等による地域的な賑給で、大赦などによって全国的な賑給を行う場合には、戸令32が準用された。それは次のような条文である。「凡鰥孤独窮老不能自存者、令近親収養。若无近親、付坊里安賉。如在路病患、不能自勝者、当界郡司、収付村里安養。仍加医療、并勘問所由、具注貫属。患損之日、移送前所。」もちろんこの条文自体は賑給についてさだめたものではなく、困窮者の救済についての規定であるが、大赦などで行われる賑恤の対象はこの条文の初句の者であるのが慣例となっている。続紀本文の赦詔のこの記述も、この条文を背景として書かれたものである。以下に、(一)それぞれの語の意味と、(二)鰥寡孤独貧窮老疾不能自存」の文の解釈について、令集解の諸注釈および天平期の諸国正税帳や天平十一年出雲国大税賑給歴名帳(以下賑給歴名帳と略称)などにみられる実例を斟酌しながら、解説を加えておく。

(一)語の意味 令集解の諸注釈は、礼記、王制に依拠しながら次のように説明する。老にして妻の無い者を鰥という。戸レイによれば年六十一以上を老とするから、鰥とは年六十一以上で妻の無い者を言う。

老にして夫の無い者を寡という。礼記、王制の疏はこの場合の老を年五十以上としているから、寡とは年五十以上の夫の無い者を言う。なお令釈は、鰥と寡についての、父母及び子があれば、鰥・寡としては扱われないとする「或説」をいんようするが、この説を否定している。

小にして父の無い者を孤という。戸令6によれば年十六以下を小とするから、孤とは年十六以下で父の無い者を言う。ここでも令釈は戸令24によれば男は年十五で婚が許されて人の父となることが出来るのだから、孤は年十四以下とすべきであるという「或説」を否定している。なお、孤に当たるものを大宝令施行期の諸資料は概ね恂子と記している。恂子は「無兄弟曰恂子」(周礼)秋官注)の意であるが、大宝令であるが孤は恂子であったかのうせいもある。もっとも戸令32集解古記は問答文中に「問、鰥寡孤独貧窮不能自存、免課役以不。答、・・・」というように孤を用いているので、断定は出来ない。恂子は、(恂子独田」として後世も使用されている。

老にして子の無い者を独という。詩経の疏は年六十以上を独とするが、「此間法用」すなわち日本の戸令では年六十一を以て老丁とするからこれによる、と古記はいう。令釈・義解も同じ。すなわち独とは年六十一以上で子の無い者を言う。令釈はここでも、妻および父母があれば独として扱わないと解する「或説」を否定している。

貧窮は、令釈は「貧无資財者」とし、義解は「困於財貨」とする。

老については、古記が年六十以上七十九以下とするのに対し、義解は年六十以上とする。年六十以上は、戸令6によれば耆である。

疾は、古記は「廃疾病以下、并頓病之類」とし、義解は「廃疾」とする。なお諸注釈は老から年八十以上を除き、疾から篤疾を除くと解する点で一致しているが、その理由はこれらは戸令11によって侍が給されるからであるという。

これらのうち鰥・寡・孤・独の実例を賑給歴名帳を見ると、孤はみな年十六以下で諸注釈のいうところと一致するが、鰥・寡・独では年齢の上で諸注釈と一致しないものがある。まず諸注釈が年六十一以上とする鰥に、年六十の者二名、年五十八の者一名がある。つぎに年五十以上とする寡には、年四十八の者二名、年四十七の者一名、年四十の者一名、年三十九の者一名がある。また年六十一以上とされる独の記載は一例のみ存するが、それは「戸主物部牛麻呂口語部佐流売<年五十>とあって、年五十の女性である。なお続紀宝亀四年三月壬辰条の「賑給左右京飢人」という記事を契機として民部省に下された太政官符には、左京職が申告した賑給対象者の内訳が記されているが、そこでは、鰥は年六十以上の男、寡は年五十以上の女、孤は年十六以下の男女となっている。鰥が年六十以上であるのは天平宝字二年七月に老丁を年六十以上としたことによるものであろうが、それならば天平宝字元年四月に中男を年十八以上としたことをうけて子も年十七以下としてもよさそうなものであるのに、そうはなっていない。しかしここでも独は賑給歴名帳と同じく年五十以上の男・女である。

なお疾については、上記のように諸注釈は、篤疾には侍が給されるので戸令32は適用されないと解しているが、賑給の対象にはこれが含まれていなる例もある(天平十年度淡路国正税帳)。同様に老も年八十以上には侍が給されるので戸礼2の適用から除外されるとするが、大赦・曲赦にともなう賑給では、しばしば「高年」が支給対象とされる。その場合の高年は一般に年八十以上であるが、年七十以上のこともあり、天平八年度摂津国正税帳では天平八年七月辛卯条の詔にもとづいて年七十以上に賑給穀を給している。

(二)「鰥寡孤独貧窮老疾不能自存」の解釈この文がいくつのものをいうものであるかについて、明法諸家のなかに、七事説・六事説・四事説の三説がある。

七事説は、令釈が「不能自存、謂う、鰥寡以下老疾以上、不能自存(自存スルコト能ワザルトイウノハ、鰥寡以下老疾以上ノ自存スルコト能ワザルモノノ意デアル)」といい、跡記が「貧窮一、老一、疾一。不能自存者、謂上七色人、凡皆惣云。貧窮而不能自存而己(貧窮ガ一、老ガ一、疾ガ一デ、自存スルコト能ワザルコトヲイウノハ上ノ<鰥以下ノ>七種類ニスベテニツイテ云ウノデアル、<タトエバ>貧窮ニシテ自存スルコト能ワザル<トイウ>ノミデアル)」というのがこれで、鰥で自存不能、寡で自存不能、孤で自存不能、独で自存不能、貧窮で自存不能、老で自存不能、疾で自存不能の、すべて七事となる。

六事説は、朱説が「問、鰥寡孤独貧窮老疾不能自存、未知、惣幾事。若鰥寡孤独之人貧窮不能自存、又老疾之人貧窮不能自存、総六事興何(鰥カラ不能自存メデスベテイクツノコトヲイウノカ知ラナイ、モシハ鰥寡孤独ノ人ノ貧窮デ不能自存ト、マタ老疾ノ人ノ不能自存ノ、スベテ六ツノコトガドウカ)」というもので、これは疑問文として提起されたものだが、これによれば、鰥で貧窮で自存不能、寡で自存不能、孤で貧窮で自存不能、独で自存不能、老で自存不能、疾で自訴雲不能の、すべて六事となる。もっとも朱説はこのあとに続く文で、令釈の七事説に賛意を示している。

四事説は、古説が「貧窮老疾、謂就上四人。不在別人(貧窮老疾ハ上ノ鰥寡孤独ノ四者ニツイテイウモノデ、別ノ者ヲイッテイルノデハナイ)」といい、朱説の引く新令釈が「貧窮老疾不能自存、並説鰥寡孤独四者応収之由者(貧窮老疾不能自存ノ文ハイズレモ鰥寡孤独ノ四者ニ収メルベキ由を説イタ)」といい、跡記紙背の「或云」が「読新令之日、鰥婦孤独之貧窮者(天平宝字元年ニ行ワレタ新令講書デ明法博士山田白金ハ)鰥寡孤独ノ貧窮ト読ンダタイウ)」というのがこれである。これによれば、鰥で貧窮老疾で自存不能、孤で貧窮老疾で自存不能、独で貧窮老疾で自存不能、孤で貧窮老疾で自存不能、独で貧窮老疾で自存不能の、すべて四事となる。

このような解釈が行われていたなかで、その実際の運用を正税帳などにみた場合、注目されるのは天平十年度周防国正税帳の記載と天平十一年の出雲国の賑給歴名帳である。まず周防国正税帳の天平十年正月十三日恩勅(阿部内親王の立太子を契機とする大赦にともなう賑給、続紀では壬牛条)による賑給の記載は鰥・寡・恂子・独・病者・窮乏のそれぞれについて、賑給穀の量に六斗・五斗・四斗・三斗・二斗・一斗のこまかい差等を設けている。稲葉佳代に寄れば、これは、鰥で疾で窮乏の者に六斗、鰥で疾または窮乏の者に五斗・鰥のみに四斗、寡で疾で窮乏の者に五斗、寡で疾または窮乏の者に四斗、寡のみに三斗、恂子・独で窮乏の者に四斗、恂子・独で疾または窮乏の者に三斗、恂子・独のみに二斗、病者で老で窮乏の者に三斗、窮乏で老の物に二斗、窮乏の物に一斗、の等級によるものであることが、計算によって知られという(未発表論文)。これは古記などの四事説に基本的に依拠した差等であるといえよう。

出雲国賑給歴名帳では、賑の対象として、高年・鰥・寡・恂子・独のほかに、不能自存がこれらとは別に記されている。上記のように、明法家の解釈では七事説・六事説・四事説を問わず、不能自存は独立のものではなかった。もっとも天平十年度駿河国正税帳の賑給の記載には「不能自存八百三十三人」と記されていて、あたかも不能自存が独自の賑給対象であったかの如くにみられるが、これも稲葉によれば、周防国正税帳に言う「窮乏」をまとめて不能自存としたものであるという。その意味では賑給歴名帳に不能自存が独自の賑給対象となっているのは異例のようであるが、このことはつぎのように解することが可能である。すなわち、賑給歴名帳によって行われた賑給は、天平十一年三月癸丑条の祥瑞によるものと推定される。ところがそのときの詔は賑給の対象について、「宜賑給孝子順孫高年鰥寡恂子独及不能自存者」ち記している。つまりこのときの賑給は孝子と順孫と高年と鰥と寡と恂子と独と不能自存を対象として行われたものであった。賑給令歴名帳はこの詔文に忠実に従っているわけである。

諸注釈の述べるところおよび実例は以上の如くであるが、続紀本条にたちかえってみると、ここでは戸令32の記載順とは異なり「老病鰥独恂不能自存」となっている。上述のように八世紀前半には四事説が有力であったと推定されるから、それにしたがって読めば、老・病の鰥、老・病の寡、老病の恂子、老・病の独のそれぞれの不能自存者ということになる。しかしあえて老病をはじめに置いたことからすると、老病と鰥・寡・恂子・独との不能自存者と読むことも不可能ではない。訓読文では後者の読みに依ったが、疑問として残しておく。(続日本紀・景雲2年8月11日・新日本文学大系)(続紀・養老2年12月7日・大系)

しんさう

薪草(シンソウ) (続紀・宝亀11年3月16日・新日本古典文学大系)

しんでん

神田(しんでん) 律令国家が特定の神社の経費に充てるために設定した田。狭義の寺田と対応する。班田収受の対象から外され(田令21)、不輸租田とされた。(続紀・天平勝宝7年3月28日・新日本古典文学体系)

すいたく

水沢(スイタク)  水稲耕作(続紀・霊亀元年10月7日・大系)

すいでん

水田(スイデン)  (続紀・天平2年6月27日・新日本古典文学大系)(続紀・天平13年3月24日・新日本古典文学大系)

すいりくのた

水陸の田(スイリクノタ) (続紀・延暦8年6月9日・新日本古典文学大系)

すうぜう

蒭蕘(スウゼウ) 草刈と木伐。芻人(草刈)と樵人(木伐)。(紀・孝徳天皇大化改新2・2月・新編)

すがたたみ

菅畳(スガタタミ) 菅を編んだ敷物(記・神武天皇・次田真幸)(紀・景行天皇・次田真幸)   海神が火遠理命を迎えた時にも、アシカの皮の敷物八重・絹の敷物八重を敷きその上に坐らせたとある。ここでは海神の妻としての扱いを意味するか。(古事記・景行天皇・新編) →きぬたたみ

すがのゆやまぬしみなさもるひこやしましの

清湯山主名狭漏彦八島篠(スガノユヤマヌシナサモルヒコヤシモシノ) 「清」は地名。湯山(大原郡大東町の海潮ウシオおんせん)の首長。その御名ミナ(三名)の「狭漏彦」は「稲サ盛モル彦」か未詳。(紀・天照大神・新編)

すがのゆやまぬしみなさもるひこやしまの

清湯山主名狭漏彦八島野(スガノユヤマヌシナサモルヒコヤシモノ)  湯山の首長。その御名ミナ(三名)の稲サ盛モル彦の八島の主人の意か。(紀・天照大神・新編)

すがのゆひなさかかるひこやしまでのみこと

清繋名坂軽彦八島手命(すがのゆひなさかかるひこやしまでのみこと)  「繋」は「湯霊ユヒ」か。あるいは「繋名」(かけな)と訓めば、清という名をかける、もつ、の意となろう。その御名の「坂軽サカカル」は稲赤サアカル」か、サ(接頭語)カル(身の軽い)か、「八島手」は「八島道ヂ」の意か。未詳。(紀・天照大神・新編)

すき

鍬(スキ) (紀・持統天皇3年春正月9日・新編)鍬(紀・持統天皇6年4月21日・新編)(紀・持統天皇8年3月11日・新編)(紀・持統天皇10年夏4月27日・新編)

すぎ

椙 (記・天照大神・次田真幸)  杉・杉と?樟と、此の両樹は、以ちて浮宝(ウクタカラ=船)にすべし。(紀・天照大神・新編)(記・天照大神・新編)

すくなびこなのかみ

少名毘古那神(スクナビコナノ神)は小人神であった。カムムスヒノ神の手の間から漏れた神、と伝えられていることによっても、小人神と考えられたことがわかる。『伯耆風土記』や書紀には、スクナビコナノ神が粟を蒔き、粟が実った時粟茎にはじかれて常世国に渡った、という説話を伝えている。海のかなたから寄り来たり、海のかなたの常世国に去る神であることは、海彼の異郷ニライカナイから豊穣をもたらすとされる、沖縄の穀霊信仰と相通じるものがある。この神の正体を明らかにしたのが、蝦蟇や案山子であったというのも、スクナビコナノ神が、生産や農業に関係の深い神であることを示唆している。案山子も、古くは田の神の依り代として立てられたもので、田の守り神であった。スクナビコナノ神の協力を得て国つくりをした、というオホナムヂノ神の国作りは、農耕や土地開墾に関するものであったと考えてよいであろう。オホナムヂ・スクナビコナ二神の農耕生活に関する興味深い説話は、『播磨風土記』にも記されている。(記・大国主神・次田真幸)

すげ

菅(スゲ) (記・神武天皇・三浦佑之)(記・景行天皇・三浦佑之)(記・仁徳天皇・三浦佑之)

すさ

朱沙(スサ)  赤色の顔料。朱砂とも。水銀と硫黄の化合した赤色の土。和名抄に「本草云、朱砂最上者、謂之光明砂」。天平神護二年三月条にもみえる。(続紀・文武天皇2年9月28日・大系)

すすき

薄(ススキ)(紀・天照大神・新編) 一本薄(ヒトモトススキ) (記・大国主神・次田真幸)(紀・大国主命・三浦佑之)→いほつのすすき →のすすき

すそ

裾(スソ)  (続紀・和銅5年12月7日・新日本文学大系)

すそ

襴(スソ) (続紀・和銅5年12月7日・新日本文学大系)

すそつきのきのころも

襴黄衣(スソツキノキノコロモ) (続紀・和銅5年12月7日・新日本文学大系)

すばし

木巣橋(スバシ) 「黒き木巣橋」は皮の付いた丸木を、簾のようにのように並べて作った橋。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)    黒い皮を付けたままの丸木を、簀の子の様に組んで作った橋。「樔」字は「巣」字と同義で、「簀ス」の借訓。ここで「簀」字でなく、「樔」字を用いたのは、この橋が竹製でなく、木製であるためか。(古事記・垂仁天皇・新編)

すばし

簀椅(スバシ) 竹などで作った簀子。(紀・応神天皇・次田真幸)

すはう

蘇芳(スホウ) 蘇芳は蘇方・朱芳とも書き、インドシナ・マレー半島インドに産するマメ科の落葉小高木で、その心材を煎じた汁を赤色及び紫色の染料として用いる。輸入品のため高価であった。(続紀・和銅5年10月17日・新日本文学大系)

せいしょう

青松(セイショウ) (紀・雄略天皇・新編)

ぜいたう

税稲(ゼイトウ)  諸国の正倉に蓄積されていた正税稲(大税)(続紀・神亀元年3月25日・大系)

せいばんしやく

青樊石(セイバンシャク)  (続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

せり

芹(セリ)  (紀・神武天皇10年12月・新編)

すみせん

須弥山(スミセン) 仏教では世界の中心に聳える最も高い山を須弥山という。其の模造を飛鳥の地に置いた。(紀・推古天皇20年・新編)  斉明3年7月15日・5年3月17日・6年5月にも出ている。明治時代に明日香村石神の地から出土した須弥山石と呼ばれる石造品は、このどれかに当たるだろう。現在、飛鳥資料館蔵)

すみなは

墨縄(スミナハ)  木材に建築のとき必要な黒線を記すための道具。(紀・雄略天皇・新編)  建築用の木材に直線をしるしつける道具。ウツとも言う。(紀・雄略天皇・岩波大系)

せいばんじやく

青樊石(セイバンジャク)  鉱産物。本草集注に仙薬。(続日本紀・和銅6年5月16日・新日本古典文学大系)

しの

そうもく

草木(ソウモク)(紀・孝徳天皇白雉元年2月・新編)

そこつわたつみのかみ

底綿津見神(ソコツワタツミノカミ) ワタツミは海を主宰する神。海神は三神一組であるから、ワタツミノ神を底・中・上に分けたのである。(記・イザナキ・次田真幸)

そしもり

曾尸茂梨(ソシモリ) 古代朝鮮語ではソは金soの意、ホモ・フルは城などの意。金城は新羅の王城で慶州の地。紀・天照大神・新編)

そそちはら

そそ茅原(ソソチハラ)  ソソは茅がやのそよそよと鳴る音。「倭は・・・」で、国讃めの言葉。 (紀・顕宗天皇・新編)

そで

褾(ソデ)  (続紀・和銅5年12月7日・新日本文学大系)

そとう

租稲(ソトウ)  「租稲」は田租、稲穂を束ねて納めるのが原則。「束」はその単位。「把」はその十分の一。「束」には二種があり、大を成斤の束、小を不成斤の束。ここの「二束二把」は不成斤の束。一段の収稲は不成斤で七十二束、成斤で五十束が基準であるから、「二束二把」は収穫の約三パーセント。(紀・孝徳天皇大化の改新・新編)

その

園(ソノ)   (紀・孝徳天皇大化の改新白雉元年2月・新編)

そほど

そほど  案山子の古名(記・大国主神・次田真幸) 田に立つカカシ。ソホドはソホは、濡れそぼつなどのソボと同じ。(記・大国主命・三浦佑之)

そめき

染木(ソメキ) 染め草の意。(記・大国主神・次田真幸)  染め草の汁で染めた衣(記・大国主神・新編)

田  田・天安田(アマノヤスダ)・天平田(アマノヒラタ)・天邑併田(アマノムラアワセダ)・良田(ヨキタ)・天?田(アマノクヒダ)・天川依田(アマノカワヨリタ)・天口鋭田(アマノクチトダ)・熱田 (紀・天照大神・新編)(紀・仁徳天皇・新編)(紀・孝徳天皇大化の改新2・8月・新編)(紀・持統天皇3月15日・新編)(続日本紀・大宝元年正月14日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬10月14日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅2年9月26日・新日本古典文学大系)(続紀・霊亀2年夏4月8日・大系)(続紀・養老5年6月10日・大系)(続紀・養老6年2月27日・大系)(続紀・神亀元年夏4月3日・大系)(続紀・神亀2年正月22日・大系)(続紀・天平元年2月21日・大系)(続紀・天平2年3月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平4年8月22日・体系)(続紀・天平勝宝7年3月28日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字4年11月6日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字5年6月8日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年5月4日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年3

12月4日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年10月24日・新日本古典文学大系) (続紀・神護景雲3年7月10日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年10月16日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀4年11月20日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀11年3月16日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀11年3月22日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦10年5月28日・新日本古典文学大系)(続紀・文武2年5月16日・続日本紀・東洋文庫)

だいこう

代耕(ダイコウ) (続日本紀・景雲3年3月13日・新日本文学大系)

たうこく

稲穀(トウコク)  (続紀・天平神護2年2月20日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護2年6月3日・新日本古典文学大系)

たうやく

湯薬(トウヤク)  集解古記は、前掲の僧尼令2の大宝令文の「湯薬」に「謂、万種丸薬散薬湯薬皆是」と注する。(続紀・

養老元年夏4月23日・大系)(続紀・養老2年12月7日・大系)(続紀・天平勝宝7年10月21日・新日本古典文学体系)

たかかさ

竹笠(タカカサ) 平城宮木簡に「土左交易籠六斤」(『平城木簡概報』四ー二〇頁)が見えるので、西南諸国でも竹製品の交易が行われていたと思われる。(続紀・神護景雲元年10月17日・新日本古典文学大系)

たかき

高樹(タカキ) この天皇の御世に、兔寸河の西に一本の高い木が生えていた。その木に朝日がさすと、木の影が淡路島に達し、夕日がさすと、その影は河内国の高安山を越えるほどであった。そして、この木を切って船を造ったところ、たいそう早く走る船であった。当時、その船を名付けて「枯野」といった。そこでこの船で、朝夕淡路島の清水を汲んで運んで、天皇の御飲料水を奉った。この船が破損したので、その船材で塩を焼き、その焼け残った材木を用いて琴を作ったところ、その琴の音は七つの村里に響き渡った。そこで当時の人が歌っていうには、

枯野の船材を焼いて塩を作り、その焼け残りの木で琴を作り掻き鳴らすと、その琴の音は、由良の門の海底の岩に、波に揺 れながら生えている海藻のように、さやかに鳴り響くことよ。

古代では、楠・歴(クヌギ)・楝木(オウチ)などの大木が、神木として神聖視されたことがわかる。(紀・仁徳天皇・次田真幸)

たかぎのかみ

髙木神(タカギノカミ) 樹木を依り代とする神の意。 (記・葦原中国平定)(記・葦原中国平定・次田真幸)

たかくらじ

高倉下(タカクラジ)高い倉を管理する人、の意の人名。(記・神武天皇・次田真幸) 原文に「高倉下」とあり、高倉は祭祀の場であるから、タカクラジはシャーマンである。夢を見るのも彼がシャーマンであった証し。(記・神武天皇・三浦佑之)

たかしま

竹島(タカシマ) 所在不詳  (紀・邇邇芸命・新編)

たかた

高田(タカタ)  (記・ホホデミノミコト・新編)

たかちほ

高千穂(タカチホ) 「高千穂」は本来、高く積み上げた稲穂のことで、神霊の降下するところと考えられた。神話では、高千穂峰は特定の山とされており、伝説地としては、宮崎県西臼杵郡高千穂町と、宮崎・鹿児島両県の境の高千穂の峰とが名高い。「くじふる」は「霊異クシぶる」の意であろうという。(記・火遠理命・次田真幸) 宮崎県の高千穂とも鹿児島県の霧島ともいわれるが、現実の地名と考える必要はなく、九州の、日に向かうすばらしい土地にある、神の降臨するにふさわしい山であればよい。(記・邇邇芸命。三浦佑之)(紀・邇邇芸命・新編)

たかちほのみや

高千穂宮(タカチホノミヤ) 天孫降臨の伝説地(高千穂峰)にあったとされる宮。(記・火遠理命・次田真幸)(記・神武天皇)

たかとも

竹鞆(タカトモ) 竹製の鞆 (記・天照大神・新編)

たかな

(タカナ)菘菜

たかな

菘菜(タカナ)  「菘」は野菜の種類をあらわす。「菜」はその葉・茎などを食用にすることを表す。「菘」だけでタカナを表すが、「菜」を添えて文意を明確にする。「菘菜」でタカナと読む。(紀・仁徳天皇・新編)

たかはら

竹林(タカハラ) 竹刀が竹林となるのは感染呪術の一種。ここでは「竹屋」の地名説話。(紀・邇邇芸命・新編)(紀・景行天皇・新編)

たかみむすひのかみ

高御産巣日神(タカミムスヒノカミ) 高御産巣日神と神産巣日神は万物の生産・生成を掌る神で、タカミムスヒは高天原系(皇室系)、カムムスヒは出雲系の神である。(記・天地開闢・次田真幸)(記・イザナキ・次田真幸)(記・天照大神次田真幸)
タカミ(高御)、カム(神)はほめ言葉。ムスヒのムスは「生す」意で、ヒは霊力をあらわす接尾辞。ムスヒはものを生み出す力をもつ神の意で、後には「結び」と解されてゆく。(記・天地開闢・三浦佑之)(記・葦原中国平定・)(紀・葦原中国平定・)(紀・邇邇芸命・新編)

たかむな

筍(タケノコ) 筍を紀は筍と書く。 記は筝と書く。湯津爪櫛をイザナキが投げたが竹製であったから筍が生えた。筍を抜き貪り食べる動作に餓鬼の力と食いざまがある。(記・イザナキ・次田真幸)(紀・イザナキ・新編) →たけのこ

たかみな

笋(タカミナ) タカ(竹)+ミナ(蜷=巻貝)で竹の子のこと。後に音便化してタカンナと言う。竹で作った櫛がもとの自然に戻ったのである。(記・伊耶那岐神・新編)→たかむな →たけのこ

たかへし

耕し(タカヘシ) 耕作(紀・仁徳天皇・新編)

たきぎ

薪(タキギ) (続日本紀・文武天皇元年5月8日・新日本文学大系) →みかまき

たきりひめ

田霧姫(タキリヒメ)(紀・イザナキ・新編)

たぐさ

手草(タグサ) 歌舞するとき手に持つ物。記・天照大神(次田真幸)

たくづの

栲綱(タクヅノ) 楮の樹皮の繊維で作った白い綱。「白き」の枕詞。(記・大国主神・次田真幸) 「タクヅノ」はタクズナの訛りで、コウゾの繊維で作った綱を言う。白く細くしなやかな腕の比喩。(記・大国主命・三浦佑之)  「白」にかかる枕詞。タクはコウゾ(楮)の類をいい、ツノはツナ(綱)の母音交換型。その色の白さからいう。(記・大国主神・新編)

たくなは

栲縄(タクナハ) 楮の皮の繊維で作った縄。(記・葦原中国平定・次田真幸)  楮の樹皮で作った縄。(紀・葦原中国平定・新編)

たくはたちぢひめ

栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ) 「栲タク」は楮の古名、この樹皮を晒して繊維をとるが、それを機(ハタ)にかけて織った布がハタ。「千千」は布(ハタ)の数が多い意。なお、朝鮮語で楮の皮をtakという。記は「万幡豊秋津師費売ヨロヅハタトヨアキヅシヒメ命」。(紀・葦原中国平定・新編)→よろづはたとよあきづしひめ

たくぶすま

栲衾(タクブスマ) 楮の皮の繊維で織った白い掛け蒲団。(記・大国主神・次田真幸)  白いので、白山や新羅の枕詞。(紀・仲哀天皇・新編)

たけ

竹(タケ) 坂手池(さかてのいけ)を作りて、すなわち竹をその堤に植ゑたまひき。(古事記・景行天皇・次田真幸) (紀・景行天皇57年9月・新編)(記・清寧天皇・新編)(紀・継体天皇・岩波大系)(紀・崇峻天皇前・岩波大系)(紀・推古天皇21・岩波大系)(紀・孝徳天皇白雉4年7月・新編)

たけ

菌(タケ)  「菌」はキノコの意。(紀・応神天皇・新編)茎の長さ一尺、其の蓋二囲なり(紀・天武天皇8年・新編)

たけのこ

笋(タケノコ)(記・天地開闢・三浦佑之)→たかむな

たけのこ

竹篭(タケノコ) (紀・火火出見尊・新編)

たけのね

竹の根(タケノネ)  (記・雄略天皇・新編)

たけのは

竹の葉 (記・応神天皇・次田真幸)

たけふつのかみ

建布都神(タケフツノカミ)  タケフツ・トヨフツのタケ・トヨは称辞。フツは擬音語で、剣で切る時の音。二神ともに切れ味鋭い刀剣の表象。(記・イザナギ・新編)→とよふつのかみ

たこりひめ

田心姫(タコリヒメ) タは接頭語。コリは霧の意で、狭霧から生まれたことによる命名。(紀・イザナキ・新編)

たしみだけ

た繁竹(タシミダケ)  タは接頭辞。シミは繁茂する様を表す。(記・雄略天皇・新編)(記。雄略天皇・次田真幸)

たすき

手襁(タスキ)  膳夫が着用する。(紀・天武天皇11年3月28日・新編)

たそ

田租(タソ) 田にかかる税、大宝・養老の令では一段につき稲二束二把(続・宇治谷孟・文武天皇元年・8月17日)

たちかづら

立縵(タチカヅラ) 立飾りの冠の意か。(紀・允恭天皇・新編)  →おしきのたまかづら  →いわきのかづら →かづら

たちそば

「実の無けく」の枕詞。立っているソバの木の意で、ソバはニシキギの古名とされる。ニシキギは、淡い黄緑色の四弁の小さな花が咲き、実も小さい。(記・神武天皇・次田真幸)  いわゆるソバ(蕎麦)ではなく、木の名。ただし。いずれの木をさすかは明瞭でない。実のないことをいう比喩。(記・神武天皇・三浦佑之)
立ち柧?(タチソバ)、「立ち」は立ち木の意。「??」は尖った角のある実がなる植物。どの植物をさすか諸説があるが、三角錐状の堅果を生ずるブナとする説がよいか。(記・神武天皇・新編)
「立」は植わっている。このソバはソバグリ、三角錐状の実に少量の果肉がある(紀・神武天皇・新編)

たちばな

橘 木の名。(記・イザナキ・次田真幸) 古事記ー筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原 日本書紀ー筑紫の日向の小戸の橘の檍原(アハキハラ) (紀・イザナキ・新編)  ミカン科の常緑樹で、今日のコウジまたはコミカンにあたるという。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)   タチバナは、古く柑橘類の総称として用いられた語。これが現在の何にあたるかは、未詳。現在タチバナ(ニッポンタチバナ)と呼ばれているものの果実は、酸味が強く食べられない。(古事記・垂仁天皇・新編)イザナキー記紀初出  古代、市のあった所には樹木が植えてあり、木陰で涼をとり、その果実によって飢えをしのいだ。ここは橘の木。(紀・雄略天皇・岩波大系)(紀・皇極天皇3秋6月・新編)(紀・神武天皇10年正月・新編) 「橘は菓子の長上にして、人の好む所なり。枝は霜雪を凌ぎて繁茂り、葉は寒暑を経てしぼまず、珠玉と共に光を競ひ、金・銀に交じりていよいようるわし。」(続紀・天平8年11月11日・大系)→たちばなのをど →たちばなのあはきはら

たちばなのをど

橘の小戸(タチバナノヲド) 小門(ヲド)は小さい港の意。(記・イザナキ・新編) 黄泉国から地上に出た場所が日向の橘の小門であったことになる。この橘は、地名らしいが、橘は元来「常世郷トコヨノクニ」から渡来の不老長生の植物とされたので、その地がそういった理想郷であることを連想させる。(紀・イザナキ・新編)(紀・火火出見尊・新編)(紀・仲哀天皇・新編)→たちばな

たちばなのあはきはら

橘の檍原(タチバナノアハキハラ)  九州宮崎県(ヒムカは、朝日のさす東向き、の意か)の小戸(小さな河口、水門)の橘(地名か)の檍原。いまの大淀川の河口付近に比定する説もある。日向の地は日向国(宮崎県)には限らないとして、福赤県に求める説もある。(紀・イザナキ・新編)→たちばな

たぢひのはな

多遅の花(タヂヒノハナ) (紀・反正天皇・新編) →いたどり

たつくり

耕田(タツクリ)  (紀・孝徳天皇大化元年・新編)  営田(タツクリ)(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

たつごも

立薦(タツゴモ) 薦むしろをめぐらし風を防ぐようにしたもの。(記・履中天皇・新編)  屏風のように立ちめぐらせて風を防ぐぬ用いる薦。(紀・履中天皇・次田真幸)

たつくり

佃リ(タツクリ) 田を耕す。(紀・仲哀天皇・新編)

たつくるいとなみ

田営(タツクルイトナミ) (続紀・養老2年夏4月11日・大系)

たつた

竜田(タツタ) 奈良県生駒郡斑鳩町竜田(紀・神武天皇・新編)

たでつ

蓼津(タデツ) (記・神武天皇・三浦佑之)

たどころ

田荘(タドコロ)  豪族が屋・倉などを置いて経営する田地。朝廷所有の「屯倉」に対応し、多くは豪族の本拠地以外の諸地域にあったと考えられる。(紀・孝徳天皇大化二年春正月・新編)   田地(タドコロ)(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

たなつもの

穀(タナツモノ)  (続紀・養老5年6月10日・大系)(続紀・天平3年8月25日・大系)

たなつもののたね

水田種子(タナツモノノタネ) タナ(種)ツモノ(物)で、稲種。それで「陸田種子」と記した。(紀・イザナキ・新編)

たなすゑ

手端(タナスヱ)  タナスヱは手の末で、手の爪、アナスヱは足の末で、足の爪。手と足の爪を切って祓具としたのである。祓具の思想は、肉体の一部をとられると自己の健康や生命がその相手の意のままに支配されると言う信仰に基づく。(紀・天照大神・新編)

たなすえのてひと

手末の才伎(タナスヱノテヒト) 技術者(紀・雄略天皇。新編)

たね

種(タネ)(記・天照大神・新編) (紀・天照大神・新編)

たねしね

種稲(タネシネ)  (続紀・神護景雲元年2月20日・新日本古典文学大系)

たのあ

田の畔(タノア) (記・イザナキ・次田真幸)

たのいね

田の稲(タノイネ)(紀・邇邇芸命・新編)

たはた

田園(タハタ)  (続紀・宝亀4年11月20日・新日本古典文学大系)

たふさき

犢鼻(タフサキ) ふんどし(紀・雄略天皇・新編)

たふれたるき

たふれたる樹(タフレタルキ)  倒れた木(紀・景行天皇18年7月。新編)

たへ

細布(ハエ)  上総国に産する上質の布。(続日本紀・和銅7年2月2日・新日本文学大系)(続紀・宝亀7年4月15日・新日本古典文学大系)

たまかづら

玉縵(タマカヅラ) 木の枝の形をした玉飾りのある冠を言う。(紀・安康天皇・新編)(記・安康天皇・新編)(紀・雄略天皇・新編)

ためつもの

味物(タメツモノ) おいしい食べ物 記・天照大神(次田真幸)

たりき

椽(タリキ) (記・大国主神・次田真幸)

たりほ

垂穎(タリホ) 稲の穂のことで、稲の穂が稔って多数垂れ下がること。  其の秋の垂穎、八握に莫莫然ひて甚だ快し。(その秋の垂れた稲穂は、握り拳八つほどの大きさに撓むほど繁茂して、たいへん爽快である。(紀・イザナキ・新編)(紀・天智天皇3年冬12月・新編)

だんように

段楊爾(ダンヨウニ)  五経博士・段楊爾 五経博士の貢上は百済の領土拡大の代償の意味があり、帰化でなく、貢上・交代制である点で、文化輸入の過程の上で飛躍的な事件である。この類の記事は、百済本記によったものであろう。(紀・継体天皇・岩波大系)

ちからしろのこめ

庸米(チカラシオノコメ)  「庸」は力役である歳役の代わりに貢納する物品、チカラシロは古訓。「庸米」は米で納め、「庸布」は布で納める。本条では五十戸の納める庸米が直接仕丁の糧となるが、令制では国庫に収納される庸のうちから仕丁の糧その他の費用が支出された。采女も同じ。(紀・孝徳天皇大化改新2正月・新編)

ちからしろのぬの

庸布(チカラシロノヌノ)  (紀・天武天皇14年11月2日・新編)

ちぎ

千木(チギ)→ひぎ→かつを

ちちうしのへ

乳牛戸(チチウシノヘ)  乳牛を飼育し、牛乳や乳製品(蘇・酪)を朝廷に貢上する乳戸か。宮内省被官の典薬寮に属し、職員令44集解古記・令釈に引く別記には、「乳戸五十戸。経年一番、役十丁。・・為品部免調雑徭」とある。本条が乳戸そのものの創設か、あるいは山背国に始めて設置したことを意味するのかは未詳。この後天平宝字三年九月の品部停廃により公戸に編入されたか。なお養老三年六月条には、典薬寮乳長上のことが見える。(続紀・和銅6年5月25日・新日本古典文学大系)

ちのしる

乳の汁(チノシル) 母のおっぱいは、子にとって生命力の根源と考えられていた。また、「乳」は母のシンボルとして、子との絆をもっとも強く意識させるものである。赤い血液も白い母乳も、ともに、「チ」という語で表すのは興味深い。おもに、赤いチは父との、白いチは母とのつながりを象徴するものである。そぢて、言うまでもなく、いつの時代も白いチの力は強い。(紀・大国主命・三浦佑之)

ちば

千葉(チバ) 葉の多く茂る葛(かずら)の意で、「葛野」にかけた枕詞。(記・応神天皇・次田真幸) 葉が茂るという意で「葛」にかかる。満ち足りていることを言うほめ言葉として働く。(紀・応神天皇・三浦佑之)

ちはたたかはた

千繒高繒(チハタタカハタ) 繒は帛の総称。高繒はうず高く積み上げた帛。(紀・仲哀天皇・新編)

ちはら

茅原(チハラ)  (紀・顕宗天皇・岩波大系)

ちひろなは

千尋縄(チヒロナハ) 延縄漁法のこと。(記・ニニギノミコト・新編)

ちまき

茅纏(チマキ) 邪気を払う茅萱を巻いた矛。(紀・天照大神・新編)

ぢむ

沈水(ヂム) 香木の一種。沈香ともいう。椿や欅に類し、外皮朽ちても木心・枝節残り、水に入れれば沈む。天竺・単于・交趾等に産する。(紀・推古天皇3・岩波大系)

ちょうのそはりつもの

調の副物(チョウノソハリツモノ)  調の付加税。右同条にも規定あり、紫・紅などの染料をはじめとする各種手工業品、胡麻油・鰹魚煎汁・塩などの各種食料品・調味料など多数の品目がある。(紀・孝徳天皇大化改新2正月・新編)

ぢょうろくのぬひもののぞう

丈六の繍像(ヂョウロクノヌヒモノノゾウ) 立てば一丈六尺になる刺繍した釈迦仏の像。舒明六年・推古十三年・高徳・大化元年に造る

ちよふ

紵布(チョフ)  朝の一種である紵を材料とする布。(続紀・神護景雲元年10月17日・新日本古典文学大系)

つかくさ

束草(ツカクサ) 束ねた草。これを背負って他人の家へ入ることを忌むのは、笠蓑と同じ考え方。(紀・天照大神・新編)

つきがえ

槻が枝(ツキガエ)  (記・雄略天皇・新編)

つきさかきいつのみたまあまざかるむかつひめのみこと

撞賢木巖之御魂疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマザカルムカツヒメノミコト) 「撞賢木」は突き立てた榊の衣。神が降臨するゆえ、その榊は神のものとなり、それが「巖イツ(霊威のある)御霊」であるとする。(紀・仲哀天皇・新編)

つきのき

槻の木(ツキノキ) ツキはニレ科の落葉樹。ケヤキの古名(変種とも)で、弓の材料として有名。(記・雄略天皇・三浦佑之)(記・允恭天皇・三浦佑之)(記・雄略天皇・三浦佑之)  法興寺(飛鳥寺)の西に槻の木があった。天武紀元年6月、6年2月、9年7月。孝徳天皇前紀、持統天皇2年12月これらは皆同じ木(紀・京極天皇3・新編)(紀・孝徳天皇前・新編)(紀・斉明天皇2・新編)(紀・天武天皇9年秋7月1日・新編)(紀・持統天皇2年12月12日・新編)

つきのきぬ

調絹(ツキノキヌ) 貢の絹(紀・仁徳天皇・新編)

つきのわた

調綿(ツキノワタ) (天平宝字4年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年2月2日・新日本古典文学大系)

つきめ

舂女(ツキメ) 米をつく女。雀の餌を拾う動作からいう。記は「碓女ウスメ」(紀・葦原中国平定・新編)→うすめ

つきよね

舂米(ツキヨネ) (続紀・神護景雲2年3月1日・新日本古典文学大系)

つくだのあ

営田の畔(ツクダノア) (記・イザナキ・次田真幸)   営田はここでは神田。「あ」は畔、「大嘗」はその収穫を食するところ。 (記・天照大神・新編)

つくゆみ

槻弓(ツクユミ)  槻の木の弓(記・允恭天皇・新編)

つづら

黒葛(ツヅラ)  「つづら」ツヅラフジ科の蔓性植物。(古事記・景行天皇・次田真幸)   蔓性植物で、連ラ連ラの縮約形ツヅラにみるように、、紐状で強靭なかずら(蔓草)(紀・崇神天皇60年7月。新編)   ツヅラは、ここでは蔓性植物の総称。そのツルを鞘に巻きつけて飾りとした。偽の大刀だが、立派な飾りまでつけたのである。その飾りにまんまと騙されてまあ、という嘲りとして働く。(古事記・景行天皇・新編)

つなかづら

縄葛(ツナカヅラ)  綱とした葛。昔の建築は釘を使わず、建材を綱で結び固める。家長の寿命の堅固なことの象徴。(紀・顕宗天皇。新編)

つばきのき

海石榴樹(ツバキノキ) 『和名抄』に「椿」の和名を「豆波木ツバキ」とし、『楊氏漢語抄』を引いて「海石榴」の和名も同じとする。漢語「椿」はツバキとは別。(紀・景行天皇12年10月。新編)(記・雄略天皇・三浦佑之)(紀・天武天皇5年夏5月4日・新編)(紀・天武天皇13年3月・新編)

つばきのはな

海石榴の華(ツバキノハナ)  (紀・天武天皇5年夏5月4日・新編)

つばきあぶら

海石榴油(ツバキアブラ) (続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)

でうど

調度(ジョウド) 開墾用具。調として納める鍬なども含む。(続紀・養老6年閏4月25日・大系)

でうのぬの

調布(チョウノヌノ) (続紀・宝亀8年正月21日・新日本古典文学大系)

でんう

田囿(デンウ) 田や園地。(続日本紀・和銅7年6月22日・新日本文学大系)

でんそ

田租(デンソ)  (続紀・天平元年8月5日・大系)

でんちう

田疇(デンチュウ)  (続紀・和銅5年5月16日・新日本文学大系)(続日本紀・霊亀元年5月・新日本文学大系)(続紀・神亀4年春2月23日・大系)

でんや

田野(デンヤ)  (続紀・和銅6年10月8日・新日本文学大系)

でんぽ

田畝(デンポ)  (紀・天智天皇元年冬12月・新編)(続紀・霊亀2年5月20日・大系)

でんをん

田園(デンオン)  (続紀・霊亀2年5月20日・大系)

とうかう

東皋(トウコウ)  東方の耕地。春時の耕作のこと。(続日本紀・霊亀元年6月12日・新日本文学大系)

とうさく

東作(トウサク)  春の農事。(続紀・神亀4年春2月23日・大系)

ときじくのかくのこのみ

時じくの香の木の実(トクジクノカクノコノミ) 時を定めず常によい香を放つ木の実の意で、橘の実をいう。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)   トキジクはトキジシ(時がない、永遠不滅の、の意)という形容詞を名詞化した言葉、カクは輝くの意である。いつまでも輝きわたる木の実の意で、タチバナの実(柑橘類)をいう。おそらく、この実を食べると、永遠の命が与えられると考えていた。中国の神仙思想の影響があるだろう。(古事記・垂仁天皇・三浦佑之)    非時香果、「非時」は時を定めず、いつも、の意。カクは「輝カク」の意。橘の実はいつも輝いてるのでいう。「香菓」は嗅覚上からの表記であり、カクノミは視覚上の名。(古事記・垂仁天皇・新編)(記・応神天皇・三浦佑之)

とこまつ

青松(トコマツ)  (紀・雄略天皇・岩波大系)

ところづら

野老蔓(トコロヅラ)  トコロイモの蔓。トコロはやまのいも科の蔓草。 (古事記・景行天皇・次田真幸)(古事記・景行天皇・新編)

とつかしね

十握稲の穂(トツカシネノホ) (紀・顕宗天皇・新編)

とどく

荼毒(トドク) 「荼」は苦菜、「毒」は害毒で、極めて烈しい苦痛のこと。親を失った苦しみにたとえる。(続紀・天応元年12月23日・新日本文学大系)(続紀・延暦元年7月29日・新日本文学大系)

とゆけのかみ

登由気神(トユケノカミ)原文に「登由宇気神トユウケノカミ」とある。「豊宇気毘売神トヨウケビメノカミ」に同じ。(記・邇邇芸命・次田真幸)→とようけびめのかみ

とよあきづしま

豊記は豊雲野神(国之常立神の次に現れた神)) 紀は豊秋津島(紀・イザナキ・新編)

とよあしはらのちいほあきのみづほのくに

豊葦原千五百秋瑞穂の地(トヨアシハラノチイホアキノミヅホノクニ)日本国の美称。葦は邪気を払い、葦原は稲も生育するから、「秋」は稲の収穫の秋と「一年」の意の秋の両意を兼ねる。「瑞穂」はみずみずしい稲穂。「地」は国土くに。豊かな葦の繁る原で大量に多年稲穂が収穫できる国、の意。(紀・イザナキ・新編)(紀・天照大神・新編)  地上世界をいうほめ言葉。葦原の中つ国はオホナムヂの支配する国をさす語で、「豊葦原・・・・・・・・水穂の国」は、天つ神が支配することを前提にして用いられる。(記・葦原中国平定・三浦佑之)
(紀・神武天皇)

とよあしはらのなかつくに

豊葦原中国(トヨアシハラノナカツクニ) (紀・天照大神・新編) →とよあしはらのちいほあきのみづほのくに

とようけひめのかみ

豊宇気毘売神-ウケは食物の意で、食物をつかさどる女神。—-(記・イザナキ・次田真幸) 豊かな穀物の女神の意で、伊勢神宮の外宮の祭神である。外宮は、アマテラスを祀る内宮に対して、食べ物などを捧げて仕える役割を持つ。(記・天地開闢・三浦佑之)(記・イザナギ・新編)→

とよふつのかみ

豊布都神(トヨフツノカミ) タケフツの神の別名。→たけふつのかみ

とよみけぬのみこと

豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)(記・火遠理命 →わかみけぬのみこと →かむやまといはれひこのみこと

とりのいわくすふねのかみ

鳥之石樟船神 神が天がけるとき乗る樟の船を神格化したもの。(記・イザナキ・次田真幸)(記・天照大神・次田真幸)  鳥のように速く行く堅い楠の船、の意。ここから後の神々の多くは、生産的要素を神名に帯びる。文化的な人文神としてみる説もあるが、一般的に人間の世界の問題としてみるべきでない。神の世界が伊耶那岐神・伊耶那美神の生殖によってこうした生産的な神々をはらみ、それが天皇の保つ世界の生産性のもととなっているというのである。(記・イザナギ・新編)   鳥盤?樟船(トリノイワクスブネ)鳥は次行に「流れの順マニマに」とあるのによると、水鳥をさす。前には「天盤?樟船に載せて風の順に放棄て」とある、これは空中を風が運んでゆく観想である。同じ盤?樟船でも、「天」と「鳥」と冠する語の差と、「風の順に」と「流れの順に」との差に注意する必要がある。(紀・イザナキ・新編)→あめのとりふねのかみ

菜(ナ) (紀・皇極天皇3秋7月・新編)

なうさう

農桑(ノウソウ)  (続紀・養老7年2月14日・大系)→のうそう

ながた

長田(ナガタ) 細長い田(紀・イザナキ・新編)

なかつわたつみのかみ

中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ) (記・イザナキ・新編)

ながほのみや

長穂宮(ナガホノミヤ) 蒲葵の葉で屋根を葺いた宮で、仮宮であろう。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)

なぎ

水葱(ミズナギ)  みずあおい。若菜・若芽を食用にする。(紀・神武天皇10年12月・新編)

なし

梨(ナシ) (紀・持統天皇7年春3月17日・新編)(続日本紀・文武天皇4年3月10日・新日本文学大系)

なづ

藻(ナヅ)  (記・仁徳天皇・三浦佑之)

なづきのた

なづきの田(ナヅキノタ) 付近の田、まわりの田の意であろう。(古事記・景行天皇・次田真幸)

なみのほ

波の穂(ナミノホ) (記・葦原中国平定・次田真幸)(記・火遠理命・次田真幸)

なつくさ

夏草(ナツクサ)  (記・允恭天皇・新編)

なつむし

夏蚕(ナツムシ) ムシは蚕。夏蚕(ナツゴ)は二度繭を作る。(紀・仁徳天皇・新編)

なのりそも

奈能利曾毛(ナノリソモ) 海藻ホンダワラの異名。(紀・允恭天皇・新編)→はまも

なへ

苗(ナエ)  (続日本紀・慶雲4年夏5月21日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅2年5月20日・新日本古典文学大系)(続日本紀・霊亀元年5月25日・新日本文学大系)

なます

鮮(ナマス) 新鮮な肉を割いて生食する料理。「膾」。宍膾(ナマス) (紀・雄略天皇・新編)

なみきるひれ

浪切るひれ 浪を鎮める呪力を持った領巾。(紀・応神天皇・次田真幸)→かぜふるひれ・かぜきるひれ

なみふるひれ

浪振るひれ 波を起こす呪力をもった領巾。(紀・応神天皇・次田真幸)

まむほ

南畝(ナムホ)  南方の畑。夏日の収穫のこと。(続日本紀・霊亀元年6月12日・新日本文学大系)

なりどころ

田荘(ナリドコロ)  →たどころ

なりはひ

農(ナリハヒ)   農(ナリハヒ)は天下の大本なり。民(オホミタカラ)の恃(タノ)みて生く所なり(紀・崇神天皇62年7月。新編)   農種(ナリハヒ)・作田(ナリハヒ)・耕種(ナリハヒ)(紀・欽明天皇・岩波大系)(紀・推古天皇12・岩波大系)  農作(ナリハヒ)(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)(続日本紀・景雲3年3月13日・新日本文学大系)

なりはひのつき

農月(ナリハヒノツキ)  農事は三月が起耕の月、ま種が四月末まで。農月にして民を使ふべからざれども、新宮を造るによりて、まことにやむことをえづ。(紀・孝徳天皇大化の改新2・3月・新編)

にしき

錦(ニシキ)  (紀・推古天皇・岩波大系)  (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編) (紀・天智天皇6年11月・新編)(紀・持統天皇3年3月20日・新編)(続日本紀・大宝3年冬10月25日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年11月16日・新日本文学大系)(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)

にしきあや

錦綾(ニシキアヤ) (続紀・和銅4年6月14日・新日本文学体系)

にしきのきぬ

錦の衣(ニシキノキヌ)  (紀・履中天皇・新編)(紀・欽明天皇・岩波大系)

にしきのきぬのはかま

錦袍袴(ニシキノキヌノハカマ) 錦の袍(上衣)と袴。袍は長袖のある上着(紀・持統天皇10年3月12日・新編)

にしきのはかま

錦の袴(ニシキノハカマ)  (紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)

にしきのひも

錦の紐(ニシキノヒモ)  金糸・銀糸・色糸を使って織った絹織物の紐。雄略紀七年に、百済から渡来した新漢(イマキノアヤ)の手人(テヒト)の中に「錦部(ニシコリベ)定安那錦(ヂョウアンナコム)」の名が見える。(紀・允恭天皇・新編)

にずりのそで

丹摺の袖(ニズリノソデ)  赤土を擦り付けて染めた衣の袖。(紀・雄略天皇・新編) →あかいきぬ

にひなへ

新嘗(ニヒナヘ) 新穀を食べること。新しく取れたニヘ(神に捧げる御饌)の代表としての稲を天照大神が食べるので、いわゆる「神嘗カムニヘの祭り」に相当する。ニヒニヘの音転。従来のニヒノアヘ(饗)説は新穀の意は無く、またニヒナメ(嘗)説もナメのアクセントが合わないし、ニハ(庭)ノアヘ説も、庭がニヒとはならない。(紀・天照大神(新編)(紀・葦原中国平定・)

にきて

和幣(ニキテ)  白和幣は楮の皮の繊維で織った白い布帛。青和幣は青味をおびた麻の布帛。記・天照大神(次田真幸)  ニキテは柔らかの材料の意。「幣」は神への捧げ物。青和幣は麻、白和幣は木綿(ユウ)(栲タクの樹皮を晒してつくる真っ白な繊維)が材料。(紀・天照大神。新編)  和幣は、糸を束ねた神への捧げ物で、白和幣コウゾの繊維、青和幣はアサの繊維を用いて作る。(記・天照大神・三浦佑之) →あをにきて →しらにきて

にへ

贄(ニヘ)  もとは神や首長に奉げられた神聖な食物。おもに鳥獣・魚介・果実など山野・河海よりの獲物よりなる。天皇の支配強化と共に、服属のしるしとなり、供御として貢納され、租税の一種とみなされた。令には規定はないが、令制下にも存続し、『延喜式』に詳細な規定がある。(紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)

によいのはかせ

女医の博士(ニョイノハカセ)  女医を養成する医博士(男性)。養老五年十月一日勅で設置が指示され、このとき実員を置く。中務省内薬司に定員一、相当位は医博士を同じく正七位下。女医は女性であって医疾霊6逸文)要略九十五至要雑事)に、

女医、取官戸・婢、年十五以上二十五以下、性識慧了者三十人、別所安置。教以安胎・産難、及創・腫・傷。折・針・灸之法、皆案文口授。毎月医博士試、限七年成。とあるように、官戸の女子や婢から若くて頭のよい者三十人を取り、内薬司の側に別院を作って住まわせ、産科を始め、内科・外科の一応の治療をそれぞれ専門の医師が医学書を読ませること無く口述で教育し、毎月医博士が試験し年度末には内薬司が試験して、七年以内に終了させることになっていたが、もっぱら女医の育成に責任を持つ医博士は置かれていなかった。それを勅が出てから一年後、内薬司に置いたのだが、三代格の寛平八年十月五日に内薬司を典薬寮に併合した時の官符によれば定員は一、また職原抄によれば官位相当は正七位下であった。(続紀・養老6年11月7日・大系)

にら

韮(ニラ) (記・景行天皇・三浦佑之)

ぬえくさ

ぬえ草 なよなよとした草のような、の意で「女メ」の枕詞。(記・大国主神・次田真幸)   ヌエはナエ(萎え)の母音交換型。「萎え草の」は、なよなよとした草のようなの意で、「女」にかかる比喩的枕詞。(記・大国主神・新編)

ぬかたべ

額田部(ヌカタベ) 「額田」は地名で、大和国平群郡と河内国河内郡に「額田郷」があった。(記・イザナキ・次田真幸)(紀・天照大神・新編)

ぬなた

渟波田(ヌナタ) 沼(ヌ)ナ田で、水の多い田。(紀・邇邇芸命・新編)

ぬなは

蒪(ヌナハ) ヌナハ(「沼縄」で蒪菜ジュンサイ。(紀・応神天皇・新編) 蓴(ムナハ)は、池や沼に生長する多年生の水草で、若葉を食用とする。水中に伸びた茎を手繰って蓴菜を採る人のこと。(記・応神天皇・次田真幸)  ジュンサイ(蒪菜)の古名。水草で、食用にする。原文、「ぬなはくり」は、採集する時の、手繰り寄せるさまで、その動作が女性を手に入れることの比喩となる。(紀・応神天皇・三浦佑之)

ぬの

布(ヌノ)  (紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)(紀・孝徳天皇大化の改新2・3月・新編) (紀・孝徳天皇大化の改新3・3月・新編)(紀・斉明天皇6年3月・新編)(紀・天武天皇14年冬10月8日・新編)(紀・天武天皇14年11月2日・新編)(紀・天武天皇14年12月4日・新編)(紀・天武天皇14年12月16日・新編)(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)(紀・天武天皇朱鳥元年春正月16日・新編)(紀・持統天皇称制前紀12月26日・新編)(紀・持統天皇2年2月2日・新編)(紀・持統天皇3年春正月9日・新編) (紀・持統天皇4年3月20日・新編)(紀・持統天皇4年4月7日・新編)(紀・持統天皇4年7月14日・新編)(紀・持統天皇4年10月22日・新編)(紀・持統天皇5年春正月14日・新編)(紀・持統天皇5年春5月21日・新編)(紀・持統天皇6年5月4日・新編)(紀・持統天皇7年春正月月13日・新編)(紀・持統天皇7年春3月16日・新編)(紀・持統天皇8年3月11日・新編)(紀・持統天皇8年12月10日・新編)(紀・持統天皇10年夏4月27日・新編)(紀・持統天皇10年秋7月7日・新編)(続日本紀・文武天皇元年正月8日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝元年正月14日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝元年正月14日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝元年8月7日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝3年閏4月・新日本文学大系)(続日本紀・大宝3年5月9日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬5月10日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬6月11日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲2年9月26日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年正月17日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年正月13日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年2月16日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年5月15日・新日本文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏4月29日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏5月15日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏冬10月24日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅元年11月7日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅3年7月7日・新日本文学体系)(続紀・和銅4年7月5日・新日本文学大系)(続紀・和銅5年7月17日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅6年6月19日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅7年春正月25日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅7年2月3日・新日本文学大系)(続紀・霊亀元年9月2日・大系)(続紀・養老元年11月10日・大系)(続紀・養老元年11月7日・大系)(続紀・養老2年2月19日・大系)(続紀・養老5年正月27日・大系)(続紀・養老5年6月22日・大系)(続紀・養老7年10月23日・大系)(続紀・神亀元年夏4月3日・大系)(続紀・神亀元年夏4月14日・大系)(続紀・神亀元年秋7月13日・大系)(続紀・神亀3年9月27日・大系)(続紀・神亀4年冬10月5日・大系)(続紀・神亀5年3月3日・大系)(続紀・神亀5年5月16日・大系)(続紀・神亀5年冬10月20日・大系)(続紀・天平元年冬春正月21日・大系)(続紀・天平元年8月5日・大系)(続紀・天平元年9月3日・大系)(続紀・天平2年正月16日・新日本古典文学大系)(続紀・天平2年3月3日・新日本古典文学大系) (続紀・天平6年3月15日・体系)(続紀・天平9年12月27日・体系)(続紀・天平14年8月5日・新日本古典文学大系)(続紀・天平16年8月5日・新日本古典文学大系)(続紀・天平勝宝閏5月11日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝6年冬10月14日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字2年27月18日・新日本古典文学体系)(天平宝字2年11月26日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年9月30日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年10月14日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年6月13日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年6月20日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年5月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年10月9日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年3月18日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年10月11日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦2年正月4日・新日本文学大系)(続紀・延暦2年7月25日・新日本文学大系)

ぬのきぬ

衣袍(ヌノキヌ) 布製の着物、粗い織り方の粗末な庶民の着物。(紀・仁徳天皇・新編)

ぬののきぬばかま

布の衣褌(ヌノノキヌバカマ) 「布」は絹に対し、麻や木綿などの植物の繊維で織った織物。「衣褌」は上着とズボン。(紀・応神天皇・次田真幸) 

ぬばたま

檜扇の実で、色が黒いので、「黒」「夜」などの枕詞。(記・大国主神・次田真幸)(紀・大国主命・三浦佑之)

ぬひもの

繍(ヌヒモノ)  (紀・推古天皇13・岩波大系)(紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)

ぬひもののぞう

繍像(ヌヒモノノゾウ) (紀・大化元年・新編)

ぬりで

白膠木(ヌリデ)  「沼天」「勝軍木」 霊木。この木の乳を修法の壇に塗り、仏像の心木に用いると見える。民俗にこの木を刀にこしらえて戸口に置けば邪気を払うという。仏典にもこれが霊木であるとみえる。厩戸皇子がこれで、四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓いを立ててのたまわく、「今もし我をして敵に勝たしめたまはば、必ず守護世四王のみために寺塔をたてむ。」とのたまふ。(紀・祟峻天皇前・岩波大系)

ねのくに

根の国(ネノクニ) 地底の国。地上と異郷で、罪穢れを放逐する場所として古代人が考えていた国。スサノオノミコトは罪穢れを一身に背負った疫病神の身であったから、放逐され、根国へ行かねばならなかった。

(紀・イザナキ・新編)(紀・天照大神・新編)根の堅洲の国(紀・大国主命・三浦佑之)

ねりきぬ

帛(ネリキヌ) 柔らかくした上等の絹布。(紀・敏達天皇元・岩波大系)

ねんこく

年穀(ネンコク)  (続日本紀・景雲元年12月10日・新日本古典文学大系)(続日本紀・景雲2年夏4月3日・新日本古典文学大系)(続紀・養老7年2月14日・大系)

のうぐゑつ

農月(ノウゲツ)  (続紀・神護景雲2年3月1日・新日本古典文学大系)

のうげふ

農業(ノウギョウ)  (続日本紀・霊亀元年5月・新日本文学大系)

のうそう

農桑(ノウソウ)  収穫の時。(紀・景行天皇40年7月。新編)(紀・天智天皇元年冬12月・新編)(続紀・和銅5年5月16日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅7年6月23日・新日本文学大系)(続日本紀・霊亀元年5月・新日本文学大系)(続紀・霊亀2年4月20日・大系)(続紀・養老5年3月7日・大系)(続紀・養老6年閏4月25日・大系)(続紀・神護景雲元年3月24日・新日本古典文学大系) (続紀・神護景雲3年2月17日・新日本古典文学大系)

のうほ

農畝(ノウホ) 農業のこと(続紀・宝亀11年3月16日・新日本古典文学大系)

のすすき

野薦(ノススキ) →いほつのすすき →すすき

のつち

野槌(ノツチ) 草野姫の別名(紀・イザナキ・新編)(紀・天照大神・新編)→かやのひめ

のびる

野蒜(ノビル) 山野に自生するユリ科の多年草。葉や鱗片を食用とした。(記・応神天皇・次田真幸) ユリ科の多年草で、その根を食用にする。ここには、春の若菜摘みに出掛ける華やかさが感じられる。(紀・応神天皇・三浦佑之)

葉 天地開闢後現れたのが 国常立尊(クニノトコタチノミコト)その次が豊国主尊(トヨクニヌシノミコト)。豊国主尊の別名の一つが葉木国野尊。

天地開闢後の三柱の神 紀初出

はかま

褌(ハカマ)  肌着に最も近い下着で、股の分かれたズボン様の短いもの。(紀・履中天皇・新編)(紀・雄略天皇・新編)(紀・持統天皇4年4月14日・新編)

はかま

袴(ハカマ)   (紀・天武天皇朱鳥元年春正月18日・新編)

ばくくわ

麦禾(バクカ) 禾は粟の成熟して穂の垂れたところの象形といわれるが、広義には穀物をさす。ここでは麦禾で麦・粟などの雑穀をさすか。(続紀・霊亀元年10月7日・大系)

はくせきえい

白石英(ハクセキエイ)  水晶。本草集注に耐寒熱・軽身長年の効能があるとする。(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

はくのきぬ

帛(ハクノキヌ) (続日本紀・大宝3年閏4月・新日本文学大系)(続紀・神亀4年春正月月9日・大系)

はくせい

佰姓の佃り食むことをゆるす  人民が水田を作り食料を増やすことを許した。(続紀・霊亀2年2月2日・宇治谷孟)

はくら

白羅(ハクラ) (天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)

はこくに

葉木国(ハコクニ) (紀・天地開闢・新編)

はし

箸(ハシ) 記・天照大神(次田真幸)(記・仲哀天皇・次田真幸)

はじかみ

椒(ハジカミ) サンショウの古名。実を薬用や香辛料とする。(記・神武天皇・次田真幸)  ショウガのこともいうが、ここはサンショウのこと。(記・神武天皇・三浦佑之)  山椒の激しい辛さが何時までも忘れられないと兄を討たれたことを言っています。それくらいすごい辛さだったのでしょうか。久米部の者たちが垣のほとりに植えた山椒の実は辛くて、口がひりひりする。われわれは、敵から受けた痛手を忘れまい。敵を撃ち取ってしまうぞ。現在はいろいろ刺激のある物がありますが、当時は山椒がもっとも刺激が強かったのでしょうね。その山椒を垣のほとりに植えていたのですね。

はしら

柱(ハシラ)  (紀・仁徳天皇・新編)(紀・顕宗天皇。新編)

はた

機(ハタ) 機織の座席(紀・天照大神・新編)(記・仁徳天皇・新編)

はたけ

圃(ハタケ) (紀・仁徳天皇・新編)

はたけつもののたね

陸田種子(はたけつもののたね) 畑でとれるものの種子(紀・イザナキ・新編)

はたどの

機殿(ハタドノ) (紀・天照大神・新編)

はちす

蓮(はちす)  (紀・雄略天皇・新編)(記・雄略天皇・次田真幸)(紀・舒明天皇7・新編)  剣池の蓮の中に、一茎に二萼(フタツノハナブサ)あるものあり(紀・皇極天皇夏6月6日・新編) 楊梅宮の南の池に蓮生ふ。一茎に二花あり。(続紀・宝亀8年6月18日・新日本古典文学大系)

はちすはのうたげ

蓮葉の宴(ハチスハノウタゲ) 蓮の葉を鑑賞する宴。類聚国史、天皇遊宴、延暦十二年十一月癸丑条に「翫蓮葉宴飲、奏楽賜禄」とある。この日、ユリウス暦九月二十五日。秋になり気候が穏やかになった段階で催されている。由来未詳。蓮の葉が鑑賞に堪えることによるか。舒明紀七年七月是月条に瑞蓮が剣池に生じたこと、和銅六年十一月丙子条に大倭国が嘉蓮を献じたこと、宝亀八年六月戊戌条に楊梅宮南池の蓮一茎に二花生じたことが見える。但し、蓮は治部省式には祥瑞として見えない。万葉に蓮葉を詠んだ歌があり、平安時代の歌人もしばしば歌題としている。(続紀・宝亀6年8月12日・新日本古典文学大系)

はな

土俗,此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以ちて祭る。その土地の人々は、此の神の霊魂を祭るのに、花の時期には花を供えて祭るのである。-イザナキ–紀

はなかづら

華縵(ハナカヅラ)  普通は髪飾りを言うが(万葉集・4153)、ここは殯宮の荘厳用の華鬘のようなものをいうのであろう。(紀・持統天皇3月20日・新編)(紀・持統天皇2年3月21日・新編)

はなたちばな

花橘(ハナタチバナ) 花の咲いた橘。春に咲く橘はカラタチ(枸橘)で、樹高二メートルの低木。(紀・応神天皇・新編)

はなだのぬの

紺布(はなだのぬの) 論語『君子は紺緅を以って飾らず』。 説文「帛深青ニシテ赤色ヲ揚グル也。」(紀・天智天皇6年閏11月・新編)

はなのとき

花の時(ハナノトキ)紀の国の熊野の有馬村の人々は、このカグツチノカミの霊魂を祭るのに、花の時期には花を供えて祭るのである。また鼓・幡旗をまって、歌舞を演じて祭っている。(紀・イザナキ・新編)

はなはちす

花蓮(ハナハチス)  花の咲いている蓮のことで、「身の盛り人」を引き出す。 (記・雄略天皇・新編)

はねず

朱華(ハネズ)  紅色。万葉集では「唐棣」をハネズを訓むが、中国ではニワウメ。色名としても「唐棣色ハネズイロ」と表現する。朱華を蓮の花とする例もある。(紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)

ははき

ハハキはホウキ(箒)のこと。斎場を掃き清める役目。サギの頭の毛からホウキを連想したか。(記・葦原中国平定・三浦佑之)

ははか

ははか朱桜(かにわざくら)の古名。この木の皮で鹿の肩骨を灼いて占った。記・天照大神(次田真幸) カニワザクラのこと。(記・天照大神・三浦佑之) 「ははか」はカニハ桜。その皮を燃やして鹿の肩の骨を焼き、裂け目の入り具合によって占う。(記・天照大神・新編)

ははか

ハハカ (天の香具山のははか)朱桜(カニワザクラ)の古名。この木の皮で鹿の肩骨を灼(ヤ)いて占った。(記・次田真幸)  「ははか」はカニワ桜。その皮を燃やして鹿の肩の骨を焼き、裂け目の入り具合によって占う。 (記・天照大神・新編)

はばきも

脛裳(ハバキモ) 脚絆(紀・天武天皇11年3月28日・新編)(紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

はびろくまかし

葉広熊白樫(ハビロクマカシ) 葉の広がり茂っている樫の木。「熊」は「神」に通じる接頭語で、神聖なの意をそえたものであろう。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)    「葉広」は、樫の葉が広がり茂ることをいう賞詞。「熊」は、大きいの意。(古事記・垂仁天皇・新編)(記・雄略天皇・新編)(記・雄略天皇・次田真幸)→くまかし

はびろゆつまつばき

葉広斉つ真椿(ハビロユツモツバキ)  葉の広い神聖な椿(記・雄略天皇・新編)  →ゆつまつばき

はへき

桷(ハヘキ) 屋根板を支えるために、家の棟から軒へ幾本もわたす長い木材。ハヘ(延)木の意。タリ(ル)キ(垂木)とも。(紀・仁徳天皇・新編)   椽橑(ハヘキ)ハヘキ(延木)はタルキとも言い、棟から軒先へ斜めに置く多くの木で、その間隔が整然と並ぶ。それで「斉ととのほり」の象徴。(紀・顕宗天皇。新編)

はまも

浜藻(ハマモ)  (紀・允恭天皇・新編)→なのりそも

はやあきつひこのかみ

速秋つ日子神(ハヤアキツヒコノカミ) ハヤ(勢いの強い)+アキ(口の開いた)+ツ(港)の意。(記・イザナギ・新編)

はやし

林(ハヤシ)  (続日本紀・慶雲3年3月13日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年6月5日・新日本古典文学大系)

はやし

山林(ハヤシ) (紀・神武天皇・新編)

はり

榛(ハリ) ハンノキのこと。カバノキ科の落葉高木。(記・雄略天皇・新編)→はりのきのえだ

はりすり

蓁摺(ハリスリ)  榛(ハンノキ)の皮または実をもって染めたもの。(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)

はりのきのえだ

榛の木の枝(ハリノキノエダ)(記・雄略天皇・新編)→はり

はりた

墾田(ハリタ)  (続紀・神護景雲2年9月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年6月5日・新日本古典文学大系)

はるくさ

春草(ハルクサ) (紀・欽明天皇14・岩波大系)

ばんか

晩禾(バンカ)  禾は穀物の象形文字。日本では主に稲。晩禾は晩稲。名義抄に「晩稲<オクテ>」。天平宝字元年八月甲午詔は「晩稲]の旱害で天下の租の半を免じているから、その頃までにはかなり普及していたらしい。———-続紀

檜 (記・天照大神・次田真幸) 檜は立派な宮殿の用材になる。檜は、以ちて瑞宮の材にすべし。(紀・天照大神・新編)(記・天照大神・新編)(記・雄略天皇・新編)(紀・継体天皇・岩波大系)

梭(ヒ) 横糸を縦糸に通すために用いる舟形の機織の具。(紀・天照大神・新編)

機織機で、張られた縦糸に横糸を通す道具。尖った船のような形をしていて、糸が巻き付けてある。(記・天照大神・三浦佑之) 機を織るとき、経糸の間に緯糸(ヌキイト)を通すのに使う船形の道具。次田真幸・記

緋(ヒ)  (紀・持統天皇4年4月14日・新編)

ひえ

稗(ヒエ)  (紀・天照大神・新編)(続紀・和銅6年正月4日・新日本文学大系)

ひいらぎ

比々羅木(ヒヒラギ)  ヒイラギの木で作った矛とか、ヒイラギの葉が痛いので鋭い武器の比喩になっているとか説明されるが、間違いである。これはヒイラギの葉の形をした矛である。石上神宮に納められている神宝「七支刀」のように、ヒイラギの葉に似たトゲが出ている矛で、それが呪的な力を発揮すると考えられた。そのために、遠征者の力のシンボルとして与えられるのである。古代では、遠征者に、「節刀」と呼ばれる太刀が天皇から与えられたが、これは其の原型である。(記景行天皇・三浦佑之)

ひかげ

蘿(ヒカゲ) 「ヒカゲ」は常緑の羊歯植物に属するヒカゲノカズラをいう。記・天照大神(次田真幸) ヒカゲノカズラ科の常緑羊歯植物。茎は地を這ってのびる。(記・天照大神・三浦佑之) ヒカゲノカズラのこと。俗にキツネノタスキともいわれ、襷とすることができる。(記・天照大神・新編) ヒカゲノカヅラ、サガリゴケなど、長い紐状の蔓草。榊(坂樹)も生命の木で、神霊の依代となる植物である。(紀・天照大神・新編)(記・天照大神・新編)

ひぎ

氷椽・氷木(ヒギ) 「ひぎ」は「千木チギ」ともいう。屋根の両端の木が交差して、屋根より上に突き出た部分を言う。チギを高く立てての意。(記・大国主神・次田真幸)(記・葦原中国平定・次田真幸)(記・邇邇芸命・次田真幸)→ちぎ→かつを

ひきた

下田(ヒキタ)(記・ホホデミノミコト・新編)

ひきりうす・ひきりきね

燧臼・燧杵(ヒキリウス・ヒキリキネ) 檜の板にくぼみを作り、そこに先の尖った檜の棒(燧杵)をあてがい、強くもんで火を出す発火具。(記・葦原中国平定・次田真幸) 木を擦り合わせる古い発火法に用いる道具。出雲の熊野大社(島根県松江市八雲町)には、古式にのっとった火燧りのの神事が現在に伝えられている。神への供え物は、新たな火で調理されなければならない。(記・葦原中国平定・三浦佑之)

ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと

日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこナギサタケウカヤフキアヘズノミコト)(記・火遠理命)  彦波瀲武?鵜草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト)(紀・火火出見尊・新編) →うかやふきあへずのみこと→・あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと

ひこほほでみのみこと

日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト) 「日子」は男性の美称。「穂穂」は稲穂の意。「手見」は未詳。(記・邇邇芸命・次田真幸) 「彦」は立派な男子。説話の上からは、火また火が盛んに出る神霊の意であるが、一方では、穂また穂が盛んに出る神霊の意。この神名は、神武天皇の別名として「神日本磐余彦火火出尊カムヤマトイハレヒコホホデミノミコト」と後出する。記は、「天津日高日子穂穂出命」。火検法で天神の子と分かったので、「天津日高アマツヒコ」を冠したもの。(紀・邇邇芸命・新編)

ひさご

瓠(ヒサゴ)  (記・仲哀天皇・次田真幸) 匏(ヒサゴ)(紀・仁徳天皇・新編)

ひさごばな

ヒサゴバナ 十四、五歳の少年の髪型を言う。額のところで束ねた髪を、ヒサゴ(ヒョウタン)の花のような形にしたものたという。(古事記・景行天皇・三浦佑之)

ひしがら

菱茎(ヒシガラ) ヒシ科の一年生水草。茎は水面に伸び、実は菱型で棘がある。菱の茎。(紀・応神天皇・新編)

ひとくさ

人草(ヒトクサ(記・イザナキ・次田真幸))→蒼人草

ひとつけ

一つ木(ヒトツケ) 一柱の意で一神のこと。(記・イザナキ・次田真幸)

ひとつまつ

一つ松(ヒトツマツ) 一本松(紀・景行天皇・次田真幸)

ひともとすげ

一本菅(ヒトモトスゲ) 八田の野に生えている一本の菅。 (紀・仁徳天皇・次田真幸)

ひとよだけ

一節竹(ヒトヨダケ) 一節の長さの竹(記・応神天皇・次田真幸) 節が一つだけの竹ということになるが、そういう竹は実際竹を前後に切って一節だけにしてそれを用いる意か。(記・応神天皇・新編)

にはありえない。

ひひらぎのそのはなまずみのかみ

比ゝ羅木之其花麻豆美神(ヒヒラギノソナハナマズミノカミ)(記・大国主神・次田真幸)

ひめや

茹矢・氷目矢(ヒメヤ) 大木を割るとき、割れ目に打ち込む楔のこと。(記・大国主神・次田真幸)

ひれ

比礼(ヒレ) 蛇ヘミの比礼・蜂の比礼 領巾ヒレは、古代の女性が首に掛け、胸に長く垂れた薄い布。蛇や蜂などの害を払う呪力を持つと考えられた。(記・大国主神・次田真幸) 領巾(ヒレ)長いスカーフ状の布で、シャーマンの呪具。仏教絵画や彫刻の飛天像などにもみられる。(紀・大国主命・三浦佑之)

ひえ

稗 保食神の眼の中に稗生えり。(紀・イザナキ・新編)

ひなてるぬかたびちをいこちにのかみ

日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちをいこちにのかみ)(記・次田真幸)

ひぎ

椽(ヒギ) 「ひぎ」は「千木チギ」ともいう。屋根の両端の木が交差して、棟より上に突き出た部分を言う。氷椽たかしりては千木を高く立てての意。(記・大国主神・次田真幸) 神社などの屋根の上に高く伸びた棒。髪を迎えるための依り代か。(紀・大国主命・三浦佑之)(記・邇邇芸命・次田真幸)→ちぎ

ひこいつせのみこと

彦五瀬命(ヒコイツセノミコト) →いつせのみこと

ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと

彦波瀲武?茲鳥草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト) 「男性の、渚で生まれた猛々しい、鵜の羽を屋根を葺く萱草としたが、まだ屋根を葺き終わらぬうちに生まれた尊。」の意。沖縄では鵜の羽を安産のお守りにするという。しかし、これらは、一種の民間伝承にもとづく語源か。「産屋ウブガヤ」の意かとする説はともかくとして、ウ(大きな)・ガヤ(萱)の意と解することもできよう。その本来の意味が忘れられて、鳥の「ウ?茲鳥」と解されたものか。(紀・邇邇芸命・新編)→うかやふきあへずのみこと

ひとつけ

一つ木(ヒトツケ) 一人という意。ここでは神のことだが、「子」を数える数詞を「木」で表現するのは、もともと人は植物のように生まれたと考えられていたからであろう。なを、神や貴人を数える数詞は、一般的に「はしら(柱)」だが、これも「木(植物)」とかかわるとみてよい。(記・天地開闢・三浦佑之)  一つ木(記・イザナギ・新編)

ひとつまつ

一つ松(ヒトツマツ)  一本松に呼びかける。日本武尊自らになぞらえ、ミヤズヒメを偲ぶ人を発想する。(紀・景行天皇40年・新編)(古事記・景行天皇・次田真幸)   松を人に見立てる。「佩け」は、はかせる意。人間だったらその大刀をはかせ、着物を着せようというのは、松が大刀を失わずにいたことをほめたとする説があるが、疑問。尾張に向かう地の松ということに意味があるはず。自分の大刀をはかせ着物を着せたら、自分に代わって美夜受比売のところに行かせられように、ということか。(古事記・景行天皇・新編)

ひとへきぬ

単衫(ヒトヘキヌ) 単衣の袖無しの下着。(紀・斉明天皇6年3月・新編)

ひともとすげ

一本菅(ヒトモトスゲ) 一本だけ生えている菅。普通は一つの根から何本か生える。(記・仁徳天皇・新編)

ひともとすすき

一本薄(ヒトモトススキ)(記・大国主神・新編)

ひのはなだのあしきぬ

緋紺絁(ヒノハナダノアシキヌ) (紀・持統天皇10年3月12日・新編)

ひはがち

廃渠槽(ヒハガチ) ハファツはハグ(剥)の再活用で、裂奪する、毀す意。このヒハガチは天つ罪の一つで、苗代田に水引くときの農事妨害の罪である。(紀・天照大神・新編)

ひひらぎ

ひひらぎの八尋矛 柊はモクセイ科の常緑樹で、悪例邪気を祓う呪力があると考えられた。「矛」も神霊の宿る呪物と考えられた。(古事記・景行天皇・次田真幸)

ひひらぎにそのはなまずものかみ

比ゝ羅木之其花麻豆美神 比ゝ羅木は柊の意であるが、以下の部分は未詳。(記・大国主神・新編)

ひむし

蛾(ヒムシ) ヒムシは蛾で、とくに蚕の蛾を言う。(紀・仁徳天皇・新編)

ひむろ

氷室(ヒムロ) 冬季氷を取って夏まで蓄えておく穴倉。諸国にあった。長屋王邸出土木簡によれば、長屋王は都祁に氷室二箇所を有し、深さ各一丈五百束ずつの草で室を覆ったとある。(紀・仁徳天皇・新編)

びやくばんしやく

白樊石(ビャクバンシャク)  鉱産物。本草集注に仙薬(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

ひらおび

褶(ひらおび)  礼服の一つで男は袴の上、女は唐裳の上に着けた。(紀・推古天皇13年閏7月日・新編)・(紀・天武天皇11年3月28日・新編)

ひらで

葉盤(ヒラデ) 柏の葉を幾枚か竹の串で要所を重ね綴じ、平たい皿のように作った器で、食物を盛るもの。祭祀用の器であるから、これを用いるのは神としての待遇で、ひいては天皇を天神の子として尊敬していることを示している。なを記では神功皇后が新羅征討に際し、「箸と比羅伝(ヒラデ)とを多に作り」海神に献じたとある。(紀・神武天皇・新編) 柏の葉を数枚あわせて作った皿。(記・仲哀天皇・次田真幸)

ひる

蒜(ヒル) ユリ科の多年草の野蒜のこと。鱗茎を食用とし薬用とした。ニンニクに似た強い臭気があるので、邪気を祓う呪力があるとされた。(古事記・景行天皇・次田真幸)
食用・薬用。ニラ・ニンニクなどの類で、その異臭は邪気を払うと信じられた。おわゆるカガシ(異臭を嗅がせることにより邪気を払う)の呪法であろう(紀・景行天皇40年・新編)  ヒルは野蒜のことで、ユリ科の多年草。匂いや味などに刺激のある植物は魔よけの力があると考えられていた。前に出た久米部の戦闘歌謡にもニラやサンショウが歌われていたし(神武天皇)、ドラキュラがニンニクによわいのもそのためである。(古事記・景行天皇・三浦佑之)(紀・応神天皇・新編)(続紀・天平宝字8年10月11日・新日本古典文学大系)

ひれ

領布(ヒレ) 領布は女子が頚から肩に掛け垂らした細長い薄布。装飾用ないし呪力を持つ布としての信仰から用いる。天武紀十一年三月条に「肩巾、ここには比例ヒレと云ふ」の訓注が有る。(紀・欽明天皇23・新編)(紀・天武天皇11年3月28日・新編)  采女が肩に掛ける薄く長い布。(紀・天武天皇11年3月28日・新編)

ひろめ

昆布(ヒロメ)  アイヌ語Kombuの当字とも言われる。褐藻類コンブ属マコンブに比定される。民部省式下の諸国交易雑物、宮内省式の諸国例貢御贄に、陸奥国のみから貢する規定が見える。和名はヒロメ,一名をエビスメという(和名抄)。エミシ(エビス)の貢する海藻(メ)の意か。(続紀・霊亀元年10月29日・大系)

びんらうのあふぎ

檳榔樹扇(ビンロウノオウギ) ヤシ科の高木。九州以南に産する。その葉で作ったうちわ状のものか。(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)

ふかえびそめ

深葡萄(フカエビソメ) 葡萄(エビ)色に染めた服。養老衣服令に「紫色の最も浅黄色なり」(紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)

ふかきはなだ

紺(フカキハナダ)   (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編))(紀・斉明天皇2・新編)

ふかみどり

深緑(フカミドリ)  (紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)

ふかむらさき

深紫(フカムラサキ)  (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)(紀・天武天皇14年秋7月26日・新編)

ふけむ

豊倹(フケン) 豊凶(続紀・霊亀2年4月20日・宇治谷孟)

ふじかづら

ふじ葛(フジカヅラ) 藤の蔓(記・応神天皇・次田真幸) 本来フジは初夏の花だが、ここでは春の象徴として描かれる。春を象徴するサクラは平安時代以降に花の代表になると考えられているが、コノハナサクヤブメはサクラを象徴する女神であった。ここもサクラの花を咲かせてもよいはずだが、衣服にしたと語るために、サクラではまずかったのだ。古代では、フジのツルの繊維を衣(藤い)にすることが行われていたので、フジの花が選ばれたのでる。(紀・応神天皇・三浦佑之)

ふじのはな

藤の花 春山之霞壮夫(ハルヤマノカスニヲトコ)、兄の秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタヒヲトコ)の云ひしごとく、具にその母に白せば、すなはちその母、ふじ葛を取りて、一宿の間に、衣・褌・また襪(シタクツ)・沓を織り縫ひ、また弓矢を作りて、その衣・褌等を服せ、その弓矢を取らしめて、その嬢子の家に遣はせば、その衣服また弓矢悉に藤の花になりぬ。ここにその春山之霞壮夫、その弓矢を嬢子の厠に繋けき。ここに伊豆志袁登売(イヅシヲトメ)その花を異しと思ひて、もち来る時に、その嬢子の後ろに立ちて、その屋に入る即ち婚ひしつ。(記・応神天皇・次田真幸)

ふすま

衾(フスマ) (紀・持統天皇7年春正月月13日・新編)(続日本紀・大宝3年冬10月25日・新日本文学大系)

ふぜい

負税(フゼイ) 出挙で借りた稲の返済すべき分(続・宇治谷孟・文武天皇元年閏12月7日)

ふぢつら

ふぢ葛(フヂツラ) (記・応神天皇・新編)→ふじかづら

ふたまたすぎ

二俣椙(ふたまたすぎ) 二股に分かれた杉。尾張の相津にある二俣椙を二俣小舟に作りて、(古事記・垂仁天皇・次田真幸)

二股に分かれている杉。Y字形の木には神が寄り付くという俗信と関係するか。(古事記・垂仁天皇・新編)

ふつのみたま

布都御魂(フツノミタマ) タケミカヅチノカミが神武天皇に与えた霊剣。高倉下が奉る。(記・神武天皇)

ふなきのあたひ

船木直(フナキノアタヒ) 未詳(記・神武天皇・次田真幸)

ふとむぎこむぎ

大小麦(フトムギコムギ)  (続紀・養老6年7月19日・新日本文学大系)

ふのつののかみ

布怒豆怒神(フノツノノカミ) この神から刺国若比売サシクニワカヒメまで、五神の名は名義不詳。(記・天照大神・次田真幸)  未詳(記・須佐之男命・新編)

ふゆき

ふゆ木  冬になり落葉した幹。(記・応神天皇・次田真幸)

べうか

苗稼(ビョウカ)  (続紀・養老6年7月19日・新日本文学大系)

穂(記・大国主神・次田真幸)

ほうねむ

豊年(ホウネン) 「祥瑞の美も、豊年に加ふることなし」(続紀・和銅5年9月3日・新日本文学大系)

ほおずき

→赤酸醤(アカカガチ)

ほこやほこ

矛八矛(ホコヤホコ) 葉を落とした橘の枝の意であろうか。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)    この「矛」は、橘の枝から葉を取り去って、実だけが付いているものをいう。「矛橘ホコタチバナ」の略。(古事記・垂仁天皇・新編)→かげやかげ

ほしいひ

糒(ホシイイ) 米を蒸して乾燥させた食料。和名抄に「糒、野王案糒、<平秘反、与備同、和名保之飯比>乾飯也」とある。倉庫令逸文に「凡倉貯積者、・・・・糒支廿年」とあり、備蓄用のもの。(続紀・天平宝字4年8月14日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀11年5つき14日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦7年3月2日・新日本文学大系)

ほしがき

干し柿  (記・垂仁天皇・三浦佑之)

ほそき

曼椒(ホソキ)  「和名抄」に「蔓椒、本草云、蔓椒、伊多知波之加美(イタチハジカミ)、一云、保曽岐(ホソキ)山椒のこと(紀・皇極天皇3秋7月・新編)

ほぞぢ

熟瓜(ホゾヂ) よく熟して、ほそ(ヘタ)から落ちるようになったまくわ瓜。(古事記・景行天皇・次田真幸)    熟してへたの落ちた瓜。ホゾチは、ホソ(臍)+オチ(落)が縮約し、連濁した形。それをスパスパ切るように、熊曾建の体を斬ってしまう。イメージは具体的で鮮明である。それだけによく倭建命の強烈な荒々しさが表されている。(古事記・景行天皇・新編)

ほづみのおみ

穂積臣(ホヅミノオミ) 物部連・?臣と共に宇麻志麻遅命(ウマシマヂノミコト)の子孫。(記・神武天皇・次田真幸)  大和国山辺郡穂積邑を本拠とする氏族。(記・神武天皇。新編)、(記・成務天皇)

ほでりのみこと

火照命(ホデリノミコト)火が照り輝く意で、「火」と記してあるが、元来ホは稲穂の意である。「火須勢理」「火遠の「火ホ」も同様。(記・邇邇芸命・次田真幸)

ほのあかりのみこと

火明命(ホノアカリノミコト) 説話上からは火が明るく燃える意。一方、穂が明るく色づく意。この第三子は、一書第二では第二子、一書第三では第一子、記では「火照ホデリ命」の名で第一子。このほか神名や出生順など異伝が多いが、火明命を第三市とするのは、本段正文のみ。(紀・邇邇芸命・新編)

ほのすそりのみこと

火闌降命(ホノスソリノミコト) 「闌」の字は物事の真中、及びその前後をも意味するため「闌降」の字を用いたか。景行紀古訓ウスラグ。神名のソスリは火が燃えすすんでゆく意で、また稲穂の実が熟してゆく意とも。(紀・邇邇芸命・新編) →ほすせりのみこと

ほむちわけのみこ

本牟智和気御子(ホムチワケノミコ) ホは穂(ホ)・火(ホ)の意。ムチは尊貴の意。ワケ(別)は姓の一種。(古事記・垂仁天皇・次田真幸)

ほをりのみこと

火遠理命(オヲリノミコト) ホは稲穂、ヲリは折れたわむ意。(記・邇邇芸命・次田真幸)

ほんでん

本田(ホンデン)  (続紀・天平元年11月7日・大系)

まき

柀(マキ)イチイ科の常緑高木。槙。『爾雅』釈木の郭璞注に「以て船と棺の材となすべし。柱を作り手これを埋むるに腐らず」。槙は現世の人民の墓所の棺にする材料とするのが良い。(紀・天照大神・新編) 「柀」は杉ないし榧(カヤ)の意。葉は魚の形に似る。(紀・神武天皇・新編)(記・仲哀天皇)

まきさく

真木栄く(マキサク) 立派な木が栄えるの意で、「檜」の枕詞。サク(栄)は、サカユ(栄)と同源。(記・雄略天皇・新編)(紀・継体天皇・岩波大系)

まきのは

柀葉(マキノハ) 「柀」は杉ないし榧の意。イチイ科の常緑高木槙(マキ)の意とするための訓注である。葉は魚の形に似る。(紀・神武天皇・新編)

まきのはひ

真木の灰(マキノハヒ) 航海安全のための呪術的な行為を教えているのだろうが、詳細は不明。真木は、ヒノキやスギなど立派な柱になる木をほめる表現として用いられるが、ヒサゴ(ヒョウタン)は水に浮かぶため、水神などにかかわる儀礼に用いられることが多い。(記・仲哀天皇・三浦佑之)(記・仲哀天皇・新編) 檜や杉などの木を焼いた灰。(記・仲哀天皇・次田真幸)

まきおほして

播殖(マキオホ)して 種を蒔き生えさせて(紀・天照大神・新編)

まくずはら

真葛原(マクズハラ)  (紀・神武天皇10年12月・新編)

まくたのくにのみやつこ

馬来田国造(マクタノクニノミヤツコ) 「馬来田』は上総国望陀郡(カズサノクニマウタノグン)(千葉県君津郡)の地。(記・イザナキ・次田真幸)

まさかき

真賢木(マサカキ) 神霊のより代となる常緑樹。(記・イザナキ・次田真幸)  榊のこと。マはほめ言葉。(記・天照大神・三浦佑之) 真坂樹・真坂木(紀・天照大神・新編)

まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツハヤヒアメノオシホミミノミコト) 「正勝吾勝」は、まさしく吾勝ちぬの意。「勝速日」は、速やかに勝つ神霊の意。「忍穂」は多くの稲穂の意。日本書紀では、生まれる子が男子であれば、心の潔白な証拠としている。この神は皇室の祖神として、天孫降臨の段にも現れる。(記・イザナキ・次田真幸)
原文に正勝吾勝勝(表記は「ゝ」)速日之忍穂耳とあり、「勝」という漢字が三回も使われていることに注目したい。アマテラスを継ぐ存在となるのだが、この神がアマテラスの子かスサノヲの子かという点は、以後の展開にとって重要な意味を持っている。(記・天照大神・三浦佑之)

まさかつあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと

正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカツアカチカチハヤヒアマノオシホミミノミコト)  この神名の核は「忍穂」(立派の稲穂。オシは力でおさえる、ホは秀でたもの)で、それに「まさしく私は勝った。勝利の敏速な霊的な、天上界の」という称辞(誓約に勝ったこと)と接尾辞「耳」(霊ゝみみ)がついた神名。正哉吾勝勝速日天忍骨尊・一書(紀・イザナキ・新編)(記・葦原中国平定)

まさき

真拆(マサキ) 「まさきのかずら」のことで、常緑の蔓性植物の一種。(記・イザナキ・次田真幸) マサキノカズラ・テイカカズラの古名という。蔓草。丸く束ねて「かずら」として頭にかぶるのが、巫女の装いの一つ。(記・天照大神・三浦佑之)  蔓草の名。サンカクズルのこととされる。(記・天照大神・新編)

まさきかづら

真柝葛(マサキカヅラ)  (紀・継体天皇・岩波大系)

まつかへ

松柏(マツカヘ) 松と柏。柏はヒノキ科の総称。松も柏も常緑樹。(紀・天照大神・新編)

まつばき

真椿(マツバキ) 「葉広ゆつ椿」は、葉の広い神聖な椿。(記・仁徳天皇・次田真幸)

まつばら

松原(マツバラ)  (紀・神功皇后・新編) マツハラ(紀・仁徳天皇・新編)(紀・天武天皇7年冬10月・新編)

まとこおふふすま

真床追衾(マトコオフフシマ)  マ(真)トコ(床)オフ(覆)フスマ(衾)の意。(真床覆衾)「追」は覆の借訓。フスマは夜具。「伏す裳モ」の意か。これは皇孫に着せられるもので、新生児の象徴。皇孫降臨神話は皇位に即ツくものが真床覆衾にくるまった降臨すると述べられているが、これは穀霊として復活誕生することを意味する。(紀・邇邇芸命・新編)

まなしかつま

无間勝間(マナシカツマ) 「无間」は目を蜜に編んだ意。「勝間」は竹の籠で、元来は心霊の依り代であるが、ここでは海神宮に行くための、神の乗る船とされている。(記・火遠理命・次田真幸)  原文には「无間勝間の小船」とあり、カツマ(カタマとも)は竹篭の意だが、ここは、目のない(マナシ=目無し)竹籠であり、海中にもぐることのできる潜水艦のような船をイメージしているのだろう。海底にあるワタツミの宮に行くための船である。昔話「浦島太郎」のように亀の背に乗って海底の竜宮城へ行ったら溺れてしまうはずだ。(記・火遠理命・三浦佑之)  「無間勝間」は、編んだ竹と竹の間が固く締まって、隙間が無い籠をいう。それを船として用いたのであり、船の形に作ったのではない。これを、潮路に乗せるのであり、漕いで行くわけではない。『書紀』にはこれを海に沈めるとあり、『記』とは異なっている点、注意される。(記・ホホデミノミコト・新編)→まなしかたま→おほまあらこ

まなしかたま

無目籠(マナシカタマ) 隙間の無い籠(紀・邇邇芸命・新編)→まなしかつま→おほまあらこ

まへも

襅(メヘモ) 前裳か。前掛けの意か。

なむたのむらじ

茨田連(マムタノムラジ) 河内国茨田郡にちなむ氏族名。(記・神武天皇・次田真幸)

まめ

大豆(マメ)  大宜津比売神の尻に生る。(記・天照大神・新編)  保食神の陰(ホト)に生える。(紀・記)天照大神(紀・イザナキ・新編)

まめふ

豆田(マメフ)  (紀・邇邇芸命・新編)

まゆみ

檀(マユミ) 梓弓檀(アズサユミマユミ) アズサユミは檀を言うために添えた語。(紀・仁徳天皇・新編)

まよ

繭 保食神の眉の上に生る(紀・イザナキ・新編)

まんえふ

万葉(マンエフ)  万世 (紀・顕宗天皇・新編)

みあへ

御饗(ミアヘ) ごちそう、饗応。これは婚儀である。(記・火遠理命・次田真幸) 神や貴人に差し上げるご馳走。(記・葦原中国平定・三浦佑之) 天皇に献る御膳(ミケ)。「大御饗」を献(タテマツ)るのは服属儀礼である。(記・神武天皇・次田真幸)

みおすひがね

御襲料(ミオスヒガネ) ミオスヒガネのミは、織縑女人らの隼別皇子に対する敬語。オスヒは頭から背にかけて身にまとう外衣。ガネは「~の材料」の意の接尾語。(紀・仁徳天皇・新編)

みかげ

御蔭(ミカゲ) カゲは頭上に戴くものをいう。ここは殯宮の荘厳用の「華縵ハナカヅラ」であるので、ミカゲ(冠カゲ)という。カヅラとカゲの関係は『万葉集』149の「玉かづら影カゲに見えつつ」の表現がある。『播磨風土記』餝磨郡安相里の条の「御冠ミカゲ」と「陰カゲ山」の説話にも見られる。(紀・持統天皇3月15日・新編)

みかづら

御縵(ミカヅラ) クロミカヅラと一語で読む説もあるが、「御」は伊耶那岐神に対する敬意だから、その黒色はクロキミカスラと読む。その黒色はエブカヅラの色への連想によるか。(記・伊耶那岐神・新編)

みかふつのかみ

甕布都紙(ミカフツノカミ) ミカは「御巖ミイカ」の意の接頭語。(記・神武天皇・次田真幸)

みかまぎ

薪(ミカマギ)  宮中所用の薪を百官が正月十五日に奉る行事があった。(紀・天武天皇4年正月・5年正月・新編)(紀・持統天皇7年春正月15日・新編)(続日本紀・文武天皇元年5月8日・新日本文学大系)→たきぎ

みかれひ

御粮(ミカレヒ) 「かれひ)は乾飯(カレイイ)で、旅行などに携帯する干した飯をいう。(記・安康天皇・次田真幸)

みくさにかはるあやしきむし

三色に変る奇しき虫(ミクサニカハルアヤシキムシ) 一度は匐ふ虫と為り、一度は殻(カイコ)と為り、一度は飛ぶ鳥となる、蚕のこと。(記・仁徳天皇・新編)

みくらたなのかみ

御倉板挙之神(ミクラタナノカミ) 御蔵の棚に安置する神の意。(記・イザナキ・次田真幸)

みけし

御衣(ミケシ) 黒き御衣・青き御衣(記・イザナキ・次田真幸)

みけし

明衣(ミケシ)  喪衣、喪服。ミケシは御衣の意。(紀・推古天皇20・岩波大系)

みけひと

御食人(ミケヒト) 死者の食事を調理する役目。(記・大国主命・三浦佑之)

みじかききぬ

短絹(ミジカキキヌ) (続紀・養老3年5月15日・大系)

みそ

御服(ミソ)  (紀・持統天皇元年8月26日・新編)

みその

後苑(ミソノ) 奥御殿の宮殿。 顕宗天皇2年春3月に、後苑で曲水(マガリミズ)の宴きこしめす。 (紀・顕宗天皇・新編)御苑(紀・持統天皇5年春3月5日・新編)

みそはかま

衣袴(ミソハカ)マ) 衣と袴(紀・天武天皇14年10月17日・新編)

みそみおび

衣帯(ミソミオビ)  (紀顕宗天皇・岩波大系)

みずかね

水銀(ミズカネ) 和名抄に「美豆加彌」と訓む。民部省式下に交易雑物として伊勢国に水銀四百斤、典薬寮式の諸国進年料雑薬に伊勢国水銀十八斤を記す。本草集注によると神仙・不老の薬。(続日本紀・和銅6年5月16日・新日本古典文学大系)  (続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

みずた

水田(ミズタ) (続紀・天平元年11月7日・新日本古典文学大系)

みつぐり

三栗(ミツグリ) 「中」にかかる枕詞。栗のいがの中には実が三つ入っていて、真ん中の実がもっとも大きいゆえ。(紀・応神天皇。新編)

みつながしわ

御綱柏(ミツナガシワ)  かくれみの (記・仁徳天皇・三浦佑之)

みづまきのかみ

弥豆麻岐神(ミヅマキノカミ) 灌漑をつかさどる神(記・大国主神・次田真幸)

みけびと

御食人(ミケビト) 死者に供える御饌(ミケ)を作る者。(記・葦原中国平定・次田真幸) 死者の食事を調理する役目。(記・葦原中国平定・三浦佑之)  死者のための調理人。カワセミは魚をよく捕ることからいうか。(記・葦原中国平定・新編)

みけぬのみこと

御毛沼命(ミケヌノミコト) ミケは「御食ミケ」の意。ヌは語義未詳。→若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)=豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト) 別名は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレヒコノミコト)(記・火遠理命・次田真幸)

みその

後苑(ミソノ)  奥御殿の庭園。曲水の宴も行える。 (紀・顕宗天皇・新編)

みた

御田(ミタ) 田(ミタ)(紀・イザナキ・新編) (紀・天照大神・新編) 田(ミタ)(紀・葦原中国平定・新編)

三度も姿を変えるあやしい虫

絹糸をはく蚕のこと。最近の考古学の発見によれば、日本列島で生産された弥生時代の絹織物の断片が発掘さている。ただし、その絹が天蚕(テンサン)(自然のままに糸をかけた蚕)によって得られたものか、養蚕によって生産されたものかは不明。この伝承で、カイコを養っているヌリノミは、前に、「韓渡りの人」(原文「韓人」)とあったように、渡来系の人物である。おそらく、本格的に養蚕が行われるようになったのは、こうした朝鮮半島や中国からの技術者集団の渡来によるのであろう。尚、ここにある三種のうち、飛ぶ鳥とは、もちろん蛾のことである。(紀・応神天皇・三浦佑之)→ひむし  →なつむし

みづいひ

飲食(ミヅイヒ)  飲食物(紀・允恭天皇・新編)

みつぐり

三栗(ミツグリ) 「中」にかかる枕詞。栗のイガの中には実が三つ入っていて、真中の実がもっとも大きいゆえ。(紀・応神天皇・新編)

みつなかしは

御綱葉(ミツナカシハ) 「三角ミツノ柏」で、葉先が尖り三つに分かれたウコギ科の常緑小高木の隠蓑(カクレミノ)の葉を云う。(紀・仁徳天皇・新編)(記・仁徳天皇・次田真幸)    古代の酒は、形状としては(オカユ)のような状態で、液状ではなかったのでカシワの葉に盛ったのである。とくに、祭祀における酒は古い西方で作られたものを用いることが多い。渡来の醸造法を伝えたススコリの伝承は、新しい発酵法によるスミザケ(清酒)であろう。(紀・仁徳天皇・三浦佑之)

みつはのめのかみ

弥都波能神 灌漑用水を掌る女神(記・イザナキ・次田真幸)(記・天照大神・次田真幸)

みつよりのつな

三絞の綱(ミツヨリノツナ)  日本と百済と任那の団結を、三つ縒りの綱にたとえる。(紀・孝徳天皇大化元年・新編)

みぞうみ

埋溝(ミゾウミ) 溝を埋めれば、排水は不能。人の犯す農事妨害の一つで、天津罪の一つ。(紀・天照大神・新編)  田に水を引く溝を埋める行為。(記・仲哀天皇。次田真幸)

みとしろ

神田(ミトシロ) ミ(御)トシ(年穀=稲)シロ(そのための場所=田)の約。神の御料の稲田で「神田」(紀・仲哀天皇・新編)

みどり

緑(みどり)   (紀・孝徳天皇大化の改新3・新編)

みなみのやくゑん

南薬園(ミナミノヤクエン)  要録六所引の長徳四年注文定に「薬園宮内田地十三町四段九十五歩<在大和国添下郡>」とある薬園宮はこれにあたるか。大和添下郡古蹟の項に「薬園宮<郡山薬園八幡宮即此>」とあり、薬園八幡宮(現、奈良県大和郡山市材木町)を遺址とする。(続紀・天平勝宝11月25日・新日本古典文学体系)—>薬園宮

みにへのあつもの

御膳の羹汁(ミニヘノアツモノ) お膳の吸い物。(紀・允恭天皇・新編)

みののさきあしきぬ

美濃狭絁(ミノノサキアシギヌ)  (続紀・養老3年5月15日・大系)

みのり

穀実(ミノリ) 「旧老相伝へて云はく、『子の年は穀実宜からず』(続紀・和銅5年9月3日・新日本文学大系)

みのり

稼穡(ミノリ)  (続紀・養老5年6月10日・大系)

みふすま

御被(ムフスマ)  (紀・天武天皇朱鳥元年夏4月13日・新編)

みほ

三穂(ミホ)島根半島東端の美保関。(紀・葦原中国平定・新編)

みほつひめ

三穂津姫(ミホツヒメ) ミは神秘的な、ホは稲穂の意。(紀・葦原中国平定・新編)

みまかぎ

薪(ミマカギ)  (紀・持統天皇3年春正月15日・新編)

みやはしら

宮柱(ミヤハシラ) 「宮柱ふとしり」=宮殿の太い柱を立てること。(記・大国主神・次田真幸)

むく

椋(ムク) 椋の木の実 ニレ科の落葉喬木。秋には黒い実がなる。(記・大国主神・次田真幸)

むしぶすま

むし衾 「むし」は苧カラムシの茎の繊維で織った布。「衾」は掛け布団。(記・大国主神・次田真幸)

むぎ

麦 大宜津比売神の神の陰(ホト)に生る。(記・天照大神・新編)  保食神の神の陰(ホト)に生る。(紀)新編 ( 記・天照大神・次田真幸)(紀・イザナキ・新編)(紀・仁賢天皇)

むぎたね

麦種(ムギタネ)  欽明天皇12年春3月に麦種を百済へおくる。 (紀・欽明天皇・岩波大系)

むぎのほ

麦の穂(ムギノホ) (続紀・和銅4年6月21日・新日本文学体系)

むくのこのみ

むくの木の実(ムクノコノミ) ここに出てくるムクの実は、実が黒く赤土と混ぜるとムカデに近い印象になるというのも確かだが、ムクとムカデとの類音関係も働いている。(記・大国主命・新編)

むばら

棘(ムバラ)  (続紀・養老5年10月16日・大系)

むねうつはり

棟梁(ムネウツハリ)棟ムネと梁ウツハリ。梁は棟を受ける木。繁栄・繁茂の意の正訓字。(紀・顕宗天皇・新編)

むらさき

紫(ムラサキ)   (紀・推古天皇16・岩波大系)

むらさきのたけ

紫の菌(ムラサキノタケ)  紫色のキノコ(菌)(紀・皇極天皇3・新編) →しそう

むらさきのはかま

紫の袴(ムラサキノハカマ)  (紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)

海布(メ) 海藻(記・ニニギノミコト・新編)

めでたいいね

嘉稲(メデテイイネ)  (記・雄略天皇・新編)(記。雄略天皇・次田真幸)

菨(モ) 水中に生ふる葉。円也、荇(アサザ)(紀・崇神天皇・新編)

もつくわんでん

没官田(モツカンデン)  犯罪等によって没収された田。(続紀・神護景雲元年11月日・新日本古典文学大系)

もくれんり

木連理(モクレンリ) 治部省式に下瑞、「仁木也。異本同枝、或岩枝傍出、上更還合」とする。(続日本紀・景雲元年6月15日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅6年11月17日・新日本文学大系)(続紀・天平4年8月22日・体系)(続日本紀・宝亀3年9月2日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀4年12月25日・新日本古典文学大系)(続紀・天応元年11月8日・新日本古典文学大系)

もみ

穀(モミ)  稲の穂から扱いだままで、未だ脱穀にて無い米。前年冬に田税をとってある。(紀・神武天皇9年2月・新編)(続日本紀・景雲元年冬10月14日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏4月29日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏5月21日・新日本古典文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏5月26日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅元年正月11日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅元年11月7日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅2年9月26日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅3年7月7日・新日本文学体系)(続紀・和銅4年5月15日・新日本文学体系)(続紀・和銅6年6月19日・新日本古典文学大系)(続日本紀・霊亀元年秋7月10日・新日本文学大系)(続紀・養老元年秋7月23日・大系)正税出挙は穀により収納すべきこととなっていた。扱き落した籾穀は穂のままの穎稲や籾すりした米よりも保蔵に適している。三代格寛平三年八月二日官符に「凡穎与穀資用不同、国家之貯穀是為要」とある。倉庫令7では穀の保存期間を旧年とする。出挙に出されるものは種子用に使われるので種類を弁別するため穎稲を便宜とするが、収納する際は穀とする。後に延暦十八年五月十八日官符では利稲は穀で収め本稲は穎で収めてもよいと指示している(延暦交替式)。但し天平期の正税帳にみえる公出挙では穎で収納されているので、この日の制は短期間のうちに廃されたか。に駅起稲を除く本稲は(続紀・養老3年6月16日・大系) (続紀・天平6年春正月・体系)(続紀・天平17年5月18日・体系)(続紀・天平勝宝4年春正月月3日・新日本古典文学体系)(天平宝字3年5月9日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年6月10日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年7月14日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護2年11月7日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年2月20日・新日本古典文学大系) (続紀・神護景雲3年8月9日・新日本古典文学大系)(続紀・天応元年正月1日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦6年3月1日・新日本文学大系)(続紀・延暦6年冬10月8日・新日本文学大系)(続紀・延暦7年正月15日・新日本文学大系)

だいこう

もも

桃(もも)  中国では古くから桃は邪気を払うと信じられてきた。(記・イザナギ・新編)(記・イザナギ・三浦佑之)

ももえつき

百枝槻(モモエツキ)  枝葉の茂り広がっている欅。(記・雄略天皇・次田真幸)

ももすもも

桃李(モモスモモ)  (紀・舒明天皇10・新編)

ももそめのぬの

桃染布(モモソメノヌノ)  紅花でトキ色に染めた布。令制では衛士・兵士等の服色。(紀・天智天皇六年閏11月・新編)

ももつたなもの

百穀(モモツタナモノ)  (紀・崇神天皇・新編)

もものみ

桃子(モモノミ)  (紀・イザナキ・新編)(紀・天武天皇7年冬10月・新編)

もも

桃李(モモ)  桃と李(紀・天武天皇9年春正月・新編)

やがはえ

八桑枝(ヤガハエ)  (紀・仁徳天皇・新編)

やくえんのみや

薬園宮(ヤクエンノミヤ)—–>みおなみやくえんのみや

やくきたう

駅起稲(ヤクキトウ)  (続紀・天平元年夏4月3日・大系)

やまたづ

造木(ヤマタヅ) 分注に「造木ミヤッコギ」のことだという。ニワトコのことで、葉が対生しているので「迎へ」の枕詞とした。(記・

允恭天皇・三浦佑之)

やまとのむそ

倭武助(ヤマトノムソ) 本条で外従五位下の後、天平十二年十一月の広嗣の乱と聖武行幸関係の行賞の際に外従五位上、十五年六月に典薬頭、同年十一月に従五位下、天平十七年四月十七日の典薬寮解(古二ー四○五頁)に「頭 従五位下兼行内薬侍医、 勲十等 和」とみえるのも、名を闕くが倭武助であろう。勲十等は十二年の行幸に随行したための授勲か。

この倭(和)氏は大倭忌寸などとは異なって大和国に移住した渡来系の氏であるが、光仁妃で桓武母となった和(高野)新笠(宝亀九年正月丙子条)のように百済系ではなく、姓氏左京諸蕃の漢の項に、自出を呉国主照淵の孫智聡とし、欽明朝に内外の典や薬書などをもたらし、孝徳朝に牛乳を献じて賜姓された和薬使主の系統と思われるが、武助が和薬使主という氏姓を称していない理由は未詳。(続紀・天平11年春正月・新日本古典文学大系)

やまのこのみ

山果(ヤマノコノミ)  (紀・応神天皇・新編)

やまゆりくさ

山ゆり草(ヤマユリクサ) イスケヨリミメを祭る率川(イザカワ)神社の三枝(サキクサ)祭りには、三枝の花(山ユリの花)で酒樽を飾って祭るという。(紀・神武天皇・次田真幸)→さゐ

ゐでん

位田(イデン) 品位を有する親王および五位以上の王臣に、品階・位階に応じて支給される田。(続紀・天平元年11月7日・大系)

ゆつかつら

湯津楓(ユツカツラ) 「湯津」は借字で、神聖なの意。「楓」は、『万葉』でもカツラに当てた例がある。ただし、「湯津香木」の例などから見ると、香りのある木らしく、モクセイ(常緑高木)の類である可能性も有る。湯津香木(ユツカツラ)(記・ホホデミノミコト・新編)  神の降臨する聖なる木である。いずみのほとりにある木には神が依りついてくる。(記・ニニギ・三浦佑之)

ゆつつまくし

湯津々間櫛(ユツツマクシ)  ユツは「神聖な」の意。ツマクシは東部の側面にさす櫛の意か。(記・ニニギ・新編)

ゆつまつばき

斎つ真椿(ユツマツバキ) ユツもマもツバキをたたえる言葉。その常緑の葉と赤い花とに強い呪的な力を感じ、それをそのまま「大君」に重ねる。(紀・仁徳天皇・新編)

ゆはた

纈(ユハタ) 絞り染め。ユヒハタの縮約。を

ゆのみ

柚子(ユノミ) (続紀・宝亀3年6月19日・新日本古典文学大系)

ゆふ

木綿(ユフ) 穀(カシ)などの木を蒸して剥ぎ、何度の水に晒してできる真っ白な繊維。そのユフを掛けたり結び付けたりすると、そのものが神聖になると考えられた。(記・天照大神・新編)麻や楮からとった白い繊維。それを枝葉に掛け垂らして神事に用いる。(紀・皇極天皇・新編)

ゆりのはな

百合の華(ユリノハナ) 大伴馬飼連、百合の華をたてまつれり。其の茎の長さ八尺、其の本異にして末連へり。(紀・皇極天皇3・新編

ようのぬの

庸布(ヨウノヌノ) (続紀・宝亀8年正月21日・新日本古典文学大系)

ようまい

庸米ヨウマイ)  庸として納める米。民部省が収納・貯備し、衛士・仕丁・采女の食料に充てる。正丁一人の輸納量は三斗。平常宮跡等の出土木簡によれば、五斗、五斗八升、六斗などを一俵として運送。五斗一俵は標準規格。五斗八升、六斗を一俵とするのは、衛士等の一人一ヶ月に対応したもの。(狩野久)(続紀・神亀5年夏4月15日・大系)

よきいね

嘉禾(ヨキイネ)  異畝同穎。数連の穂。一桴二米。(紀・天武天皇7年冬10月・新編)(紀・天武天皇8年冬10月・新編)(紀・天武天皇9年5日・新編)(紀・持統天皇6年8月21日・新編)(続日本紀・文武天皇元年9月3日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝2年冬10月11日・新日本文学大系)

よきうり

嘉瓜(ヨキウリ)  (続紀・和銅6年正月4日・新日本文学大系)

よきはちす

嘉蓮(ヨキハチス)  (続紀・和銅6年11月16日・新日本文学大系)

よこく

餘穀(ヨコク) 貯えの穀物(続紀・霊亀元年10月7日・宇治谷孟)

よさみのいけ

依網池(ヨサミノイケ) 垂神天皇の御世に作られた、灌漑用のため池。(紀・垂神天皇・新編)

よね

米(ヨネ)(続紀・和銅5年72月19日・新日本文学大系)(続紀・和銅6年3月19日・新日本文学大系)(続紀・神亀5年夏4月15日・大系)(続紀・天平勝宝春正月4日・体系)(続紀・天平勝宝8年6月8日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字6年10月14日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年6月13日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年5月20日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀9年11月20日・新日本古典文学大系)

よみのくに

黄泉の国(ヨミノクニ)  死者のいます世界。ヨミという語の語源は、ヤミ(闇)ともヨミ(夜+ミ=ミは霊格をあらわす接尾辞)とも言われ、用字は中国で死者の世界を言う「黄泉」を借用したもの。(記・イザナキ・三浦佑之)

よもぎ

蓬(ヨモギ)  (記・雄略天皇・三浦佑之) (続紀・神護景雲3年正月30日・新日本古典文学大系)

よもつへぐひ

黄泉戸喫(ヨモツヘグヒ) 黄泉の国で煮炊きしたものを食べること。 (記・イザナキ・新編 ) 黄泉の竈(ヘ)で煮炊きしたものを食うこと。これを食べると再び現世へ戻れないという古代信仰の一つ。(紀・イザナキ・新編)  ヘグヒのヘは、へっつい(竈)の「へ」でカマドのこと。黄泉の国のカマドで調理した食事を食べることを言う。よその世界のものを食べると、其の世界の住人になってしまうと考えるのである。(記・イザナキ・三浦佑之)

よるのをすのくに

夜之食国(ヨルノオスノクニ)  「食国」は、治める国。夜の世界のこと。(記・イザナキ・新編)

よろずはたとよあきつしひめのみこと

万幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツヒメノミコト) 多くの幡が豊かな秋風になびくさまを表象し、豊穣を示す名か。(記・ニニギノミコト・新編)

らう

粮(ロウ)  (続紀・霊亀元年12月・大系)(続紀・神護景雲2年3月1日・新日本古典文学大系)

らうかん

澇旱(ロウカン)  澇は水害。旱は干害。(続紀・霊亀元年10月7日・大系)

らうじき

粮食(ロウジキ) (続紀・和銅5年冬10月29日・新日本文学大系)(続紀・養老6年閏4月25日・大系)(続紀・天平宝字元年冬10月6日・新日本古典文学体系)

らうちく

粮畜(ロウチク)  (続紀・宝亀11年3月22日・新日本古典文学大系)

りきでんのひと

力田の人(リキデンノヒト)  力田、力田者とも。亀田貴之に寄れば、(1)篤農家で、(2)その帯びる位階は低く、無為のこともあり、(3)部姓ないし渡来系のものが多く、(4)多量の土地と動産を有し、その財力により貧農を救済することがあり、(5)国家によりしばしば褒賞されている、などの特徴があるという。(『「力田者」の一考察」『日本古代用水史の研究』)。国家的慶事のときに孝子順孫などと並んで褒賞されることが多い(天平13年三月己未条、神護景雲元年八月癸巳条)。唐では漢以来の伝統をうけ皇帝の即位や改元のときに力田の推挙・褒章が行っているので、これを模倣し、日本でも力田褒章が行われるようになったのであろう。官符等において殷富・富豪の輩などと称されている人たちに一致し、私出挙を契機に階層的上昇を図ってきている人たちと考えられる。(続紀・養老4年夏4月20日・大系)(続紀・天平勝宝春正月4日・体系)

りくでん

陸田(リクデン)  (続紀・天平元年11月7日・新日本古典文学大系)

らうでん

良田(リョウデン) 良田を上田とすると、一町の収穫は稲五百束、今日の米で約十石。百万町では約一千万石となり、当時の日本は推定人口五.六百万人の二年分の食糧となる。また、平安初期の和名抄でも、全国の田積は八六万2767町である。(続紀・養老6年閏4月25日・大系)

りくでん

陸田(リクデン) 陸田とは、水田に対する語で、おもに雑穀を栽培する田であるが、蔬菜を栽培する場合もあった。男夫一人二段、または戸ごとに一町―二十町給された陸田の大部分は、おそらく既墾田では無く未墾田であったと推定される。陸田の制は和銅―養老年間に、全国的に展開された開墾政策の一環をなすものと考えられる。また霊亀元年(もしくは和銅六年)の詔の後半が義倉の趣旨と通ずること、養老三年の詔が義倉を開いて賑恤していることから、陸田成立の背景には備荒政策として義倉の充実を図る意図があったと推定される。(続紀・霊亀元年10月7日・大系)(続紀・養老3年9月22日・大系)(続紀・天平2年6月27日・新日本古典文学大系)

やうめん

両面(リョウメン) 両面錦(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)

れいじゅのつえ

霊寿の杖  多治比嶋に輿と杖(エギの木で作った杖)を賜った。持統10(696)年10月条にも見える。(続紀・文武天皇4年春正月13日・東洋文庫)

ろくしやう

緑青(ロクショウ)  緑色の顔料。酸化銅。和名抄に「本草云、緑青一名碧青」。(続紀・文武天皇2年9月28日・大系)

わうばんしやく

黄樊石(オウバンシャク)  鉱産物。本草集注に仙薬(続紀・和銅6年5月11日・新日本古典文学大系)

わかあし

若葦(ワカアシ)  (紀・ニニギ・新編)

わかくさ

若草(ワカクサ)   若草の芽が二葉相対しているので、「つま」の枕詞になった。(紀・大国主命・次田真幸)(紀・斉明天皇4年5月・新編)

わかめ

わかめ  (記・大国主命・三浦佑之)

わかさなめのかみ

若沙那売神(ワカサナメノカミ)  サナメは「稲サの女メ」で、田植えをする早乙女の意であろうという。(紀・葦原中国平定・次田真幸)

わかとしのかみ

若年神(ワカトシノカミ)  大年神と同様、年穀をつかさどる神。(紀・葦原中国平定・次田真幸)

わくむすひのかみ

和久産巣日神(ワクムスヒノカミ) ワクは若々しいの意。ムスヒは生産の神を表す。農業の生産を掌る神。(紀・イザナギ・次田真幸)

わた

綿(ワタ) (紀・孝徳天皇大化の改新2正月・新編)  (紀・孝徳天皇大化の改新3・3月・新編)(紀・天智天皇7年11月・新編)(紀・天武天皇10年正月11日・新編)(紀・天武天皇14年冬10月8日・新編)(紀・天武天皇14年12月16日・新編)(紀・朱鳥元年年春正月日2日・新編)(紀・天武天皇朱鳥元年春正月16日・新編)(紀・持統天皇元正月15日・新編)(紀・持統天皇3年春正月9日・新編)(紀・持統天皇3年6月19日・新編)(紀・持統天皇4年7月14日・新編)(紀・持統天皇4年10月22日・新編)(紀・持統天皇5年春正月14日・新編)(紀・持統天皇6年5月4日・新編)(紀・持統天皇7年春正月月13日・新編)(紀・持統天皇7年春3月16日・新編)(紀・持統天皇8年12月10日・新編)(続日本紀・文武天皇元年正月8日・新日本文学大系)

(続日本紀・大宝元年正月14日・新日本文学大系)(続日本紀・大宝元年8月7日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲元年冬6月11日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲2年9月26日・新日本文学大系)(続日本紀・景雲3年正月13日・新日本文学大系)(続日本紀・慶雲4年夏5月15日・新日本古典文学大系)(続日本紀・和銅2年5月27日・新日本古典文学大系)(続紀・和銅4年7月5日・新日本文学大系)(続紀・和銅5年2月19日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅7年2月3日・新日本文学大系)(続日本紀・和銅7年夏4月22日・新日本文学大系)(続日本紀・霊亀元年正月17日・新日本文学大系)(続紀・霊亀元年9月2日・大系)(続紀・霊亀2年8月9日・大系)(続紀・養老5年6月22日・大系)(続紀・養老7年10月23日・大系)(続紀・神亀元年夏4月14日・大系)(続紀・神亀2年秋11月10日・大系)(続紀・神亀3年秋7月13日・大系)(続紀・神亀3年9月27日・大系)(続紀・神亀4年冬10月5日・大系)(続紀・神亀5年夏4月15日・大系)(続紀・神亀5年夏4月16日・大系)(続紀・神亀5年冬10月20日・大系)(続紀・天平元年冬春正月21日・大系)(続紀・天平元年8月5日・大系)(続紀・天平元年9月3日・大系)(続紀・天平2年正月16日・新日本古典文学大系)(続紀・天平4年8月22日・体系)(続紀・天平4年11月27日・体系)(続紀・天平9年12月27日・体系)(続紀・天平12年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平14年正月7日・新日本古典文学大系)(続紀・天平14年8月5日・新日本古典文学大系)(続紀・天平16年8月5日・新日本古典文学大系)(続紀・天平勝宝閏5月11日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝冬10月14日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝冬10月15日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝2年2月4日・新日本古典文学体系)(続紀・天平勝宝2年12月5日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字元年4月4日・新日本古典文学体系)(続紀・天平宝字2年27月18日・新日本古典文学体系)(天平宝字2年11月26日・新日本古典文学大系)(天平宝字3年正月18日・新日本古典文学大系)(天平宝字3年2月30日・新日本古典文学大系)(天平宝字3年11月4日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字4年8月26日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字5年8月2日・新日本古典文学大系)(続紀・天平宝字6年6月23日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年6月13日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年10月26日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年閏10月2日・新日本古典文学大系)(続紀・天平神護元年閏10月7日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年3月2日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年8月16日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年3月1日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年6月20日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年9月11日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲2年10月23日・新日本古典文学大系) (続紀・神護景雲3年3月27日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀元年3月4日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀元年3月28日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年5月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀元年10月9日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年3月18日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀2年11月25日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀3年10月11日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀6年5月27日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀8年5月23日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀9年11月20日・新日本古典文学大系)(続紀・宝亀10年9月27日・新日本古典文学大系)(続紀・延暦4年3月9日・新日本文学大系)

わたきぬ

綿袍(ワタキヌ) 綿入れ。(紀・皇極天皇2・新編)

わたくしのこく

私の穀(ワタクシノコク) 私の穀を寄進して外従五位下の位を戴いています(続紀・神亀元年2月22日・大系)

わたつくり

造綿者(ワタツクリ) 死者に着せる絹綿(衣服)を造るもの。(紀・ニニギノミコト・新編)

わづらひのうしのかみ

和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)  ワヅラヒ(災厄)+ノ+ウシ(主)  (紀・イザナキ・新編)

わにきし

和邇吉師(ワニキシ) 論語十巻、千字文一巻あわせて十一巻を持って来朝。(紀垂神天皇・新編)

ゐでん

位田(ヰデン)   (続紀・天平4年2月15日・体系)(続紀・天平宝字2年夏5月16日・新日本古典文学大系)(続紀・神護景雲元年12月4日・新日本古典文学大系) (続紀・宝亀9年夏4月8日・新日本古典文学大系)

ゑぎのき

霊寿木(ゑぎの木)で作った杖は、霊寿の杖(続紀・文武天皇4年正月13日・宇治谷孟)

ゑんき

園葵(エンキ)  (続日本紀・景雲3年3月13日・新日本文学大系)

ゑんち

園地(エンチ)  (続紀・神護景雲2年9月11日・新日本古典文学大系)

麻(ヲ)    (紀・天武天皇5年夏8月16日・新編)

をけら

白朮(ヲケラ) キク科の多年草。山野に自生。若芽は食用、根は健胃薬。ウケラとも言う。万葉集3376(紀・天武天皇14年冬10月8日・新編)(紀・天武天皇14年11月24日・新編)

をしもの

食物(ヲシモノ) (紀・スサノヲ・次田真幸)(紀・持統天皇3年春正月16日・新編)(紀・持統天皇5年春正月7日・新編)

をすくに

食国(オスクニ) 統治する国の意。(紀・イザナギ・次田真幸)(続紀・天平勝宝夏4月4日・体系)

をんぼつでん

隠没田(オンボツデン)  隠田は、私的に開墾し、官の図籍に登録されず、租を納めていない田。隠没田は、摘発されて官の所有に帰した隠田。隠田の摘発を目的とした検田が巡察使によって行われた。

(天平宝字3年12月4日・新日本古典文学大系)