木の葉さやぎぬ

木の葉さやぎぬ

令和3-3-15

平家物語があったお陰で、戦前の人達は、昔のことをよく覚えていました。源平時代の頃の人達は、皆よく勉強していました。源氏の人達も、耶律楚材のように「元」に仕えたのでは無く、「元」から逃れ中国を飛び出した無学祖元を師として仰ぎ、当時の世界最大の国「元」に勝った北条時宗はよく世界や中国を研究し、自分自身を高めました。

女性も真剣でした、頼朝に一矢を報いた静御前の

しずやしず しずの小田巻繰り返し 昔を今に なすよしもがな

は勿論ですが、木曽義仲に仕え、剛勇を持って知られた静御前も

まぼろしよ 夢よと変わる 世の中に など涙しも つきせざるらむ

と言う歌を作っています。義仲と別れる時に、これが最後と言って、敵陣に単騎突入し敵将の首を持ち帰りました。その後は女の助けで生き延びていると人に言われるのは嫌だという義仲の為、義仲と別れました。武勇伝ばかりが人に知られていますが、巴御前がこのような歌を作っています。

源平時代は勿論、昔の日本人は、人間が大きかったのでしょうね。

だからこそ平家物語が面白いのでしょうね。外国の女性たちは、日本の女性と違って、実に中身が無いのが多いです。

2/7/14

歴史と真実 

30/08/15

縄文が大きくダイナミックに動いています 嬉しい限りです

29・10・20

表に現れるものに気をとられることから離れて
本当の物 真実を見つめて生きて行きたいと思うようになりました

27・10・13

ホームページビルダー20に 今変わりました
これまでは休んでいましたから
少しづつ更新してゆきたいと思っています

26・11・23

万葉集の防人は縄文の人たちだったのでしょうか

24・8・11

縄文中期の部落は 先祖のお墓を中心に営まれていたようですが 日本人の心の在り方が少し判るような気がします

24・8・6

縄文の匂いを強く残している「古事記」
久々の更新です
hp使えるようになり嬉しいです

昨年の東北地方の大災害の時、生き残った一本松がありました。よく似た話が、古事記にあります。
日本武尊が、以前一本松の下で食事をなさったときに御刀をお忘れになりました。その太刀がそのまま残っていたのを喜び、松に対する感謝の歌をお歌いになりました。
「尾張に ただに向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀はけましを きぬ着せましを 一つ松 あせを」
一本松を人と思い、太刀を佩かせよう、いい着物を着せてやろうと言っています。「一松あせを」の「あせを」は古事記では吾が兄と書いて「あせを」と読ませています。「あせを」は囃子詞のようですが、日本武尊は、松を兄貴分といっています。日本武尊の一本松への強い愛が伝わってきます。
日本武尊の心が今までもずっと続いていると思うと心が熱くなります。

22・1・1

持統天皇 深沈にして大度まします。帝王のむすめなりといえども、礼を好み節倹にして、母儀の徳まします。

大津皇子 天武天皇の第三子。立ち居振る舞いは高く際立っており、言辞は優れて明晰である。天智天皇に愛された。成人されてからは、分別があって、学才に秀で、ことに文筆を好まれた。詩賦の興隆は、この大津に始まったのである。

21・11・19

天武天皇14年3月に 信濃の国に灰が降り 草木が皆枯れています

浅間山の爆発だったら 大きな爆発だったのでしょうね

21・11・19

美濃の国へ 白朮を煎じるために 遣わされ すぐに煎じて献上しています
美濃は薬草が沢山あったのでしょうか

21・11・19

このころ種子島は二毛作だったようですね
くちなし・蒲は珍しかったのでしょうか

21・11・18

謎の女 額田王 だんだん謎が深まります

 突然に日本書紀に登場し
 あたかも天皇のような歌を読んでいます

熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

 しかも天皇自らが多くの船団を従へ 朝鮮征伐に出発した所で
 この素晴らしい歌を読んでいます

これからの心配をマッタク感じさせない雄大な歌
 気力満々の歌

  額田王 益々解かりません

21・11・17

天武天皇朱鳥元年6月10日
天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田神宮に送り置く。
天武天皇にどうして草薙の剣が祟ったのでしょうか。即日、熱田神宮に持って行っています。
何か大きな理由があったのでしょうか。
この少し前には、草薙の剣が、新羅へ盗まれようとしましたが、失敗し、戻ってきています。

21・11・07

天武天皇5年の凶作では 「飢えて子を売らむとす」 と書いてあります
古代でも凶作では子を売った事があったのでしょうか
心が痛みます

21・11・07

天武天皇5年は旱魃で凶作だったようです。大いに神仏に祈っていますが、余り効果が無かったようです。この前後の年は全国的な規模ではないけど方々で日照りの害があったようです。

21・08・27

舒明天皇4年秋8月に 唐から日本へ派遣された唯一の正式な遣日使。
父は隋の元勲の一人。
妻は隋の文帝の娘。
尚書右丞・鴻臚卿を歴任
日本へ派遣された時 新洲刺史(正四品下)

唐は日本を重視していた
この後も中国から使節が来ていますが 正式な遣日使ではありません

21・06・17

カルの御子と妹の衣通郎女との仲がばれて、弟のアナホに皆が付いてしまった。カルはアナホに攻められるのを恐れて、大臣のオホマヘオマヘノスクネのところへ逃げ込んで、兵器を備え作ったのじゃった。この時に、キナシノカルが作った矢は、鏃が銅(アカガネ)で作られておった。それで、人々はその矢を軽箭(カルヤ)と呼ぶのじゃ。
また、弟のアナホも、兵器を作ったのじゃ。この御子の作った矢は、今も使うておるのと同じで鏃が鉄(クロガネ)で作られておった。それを、穴穂箭(アナホヤ)と呼ぶのじゃ。(古事記・三浦佑之)

允恭天皇がお亡くなりになった後の皇位継承争いです。同母の兄弟で本格的な戦争です。
同母の兄弟の間で殺し合いをします。
            好きになって禁忌を犯します
本当なら恐ろしい兄弟
兄弟の関係にある部族同士だったのでしょうか

古事記を書いた人が考えた所でしょうね

21・06・17

石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出るづる春に なりにけるかも

万葉集 巻8 1418

 志貴皇子のこの歌は 春になった喜びに満ち溢れています

志貴の皇子は天智天皇と 越道君伊羅都売との間にお生まれになりました
壬申の乱の後まで生き残った天智天皇の皇子さまは
 志貴の皇子と川島皇子です
       川島皇子にはお子様がいらっしゃいませんでしたから
 志貴皇子にとって天武天皇の系統の天皇が続く この時代は
  ちょっと隙を見せればすぐに消される
   恐ろしい時期だったと思います
    苦難のときを耐え切って
     皇子をお育てになりました
      その皇子さまが 白壁王です

 白壁王が宝亀元年第49代 光仁天皇になられます
  白壁王を推したのが 藤原永手です
    藤原永手は 種々薬帳に藤原仲麻呂に次に署名しています
        長い間 政治の中枢で
         光明皇后の死 仲麻呂の死 県犬養広刀自の死を見ます
         光明皇后に仕え
         阿部内親王(孝謙天皇・称徳天皇)に仕え
         永手は温厚な性格だったようです
       群臣会議で 右大臣の吉備真備を押さえて
       白壁王(62歳)を光仁天皇にします
       光仁天皇や多くの人に惜しまれ
        宝亀2年亡くなります
        死後に太政大臣の位を贈られます

石ばしる 垂水の上の さわらびの
      萌え出るづる春に なりにけるかも

  この歌をお読みになったのは 志貴皇子となっていますが
   針の筵に座ったような一生をお過ごしになった 志貴皇子より
   本当に光り輝く春の再生を祝う気持ちに成れたのは
    志貴皇子の皇子様で
     62歳で光仁天皇になられた白壁王だと思われます

21・06・17

白壁王は 志貴皇子の皇子として生まれ
 62歳で皇位についておいでです
   このとき井上内親王は54歳 そして皇后に
                ご結婚は30歳前後
   母親の県犬養広刀自の不幸を見てきた藤原永手が強く
   白壁王と井上内親王の結婚を望んだようです
   藤原永手が光明皇后とのバランスをとったように思えるのです
   なまじ 白壁王が皇位におつきになったばかりに
    母親の県犬養広刀自よく似た運命になってしまいます
   井上内親王は他戸親王をお生みになったばかりに
    母親の県犬養広刀自とよく似た運命をたどられます

 歴史の陰に隠れた

   母親の県犬養広刀自 娘の井上内親王 に

       限りない哀れを感じます

白壁王も62歳で天皇におなりになるまでは
 周囲に気を遣い ひっそりとお過ごしだったように思うのです

 もし 明るい気持ちになられたとすれば
  光仁天皇になられてからのような気がします

石ばしる 垂水の上の さわらびの もえいづる春に なりにけるかも

21・06・13

オホサザキ(仁徳天皇)の大君の御子、イザホワケ(履中天皇)は父仁徳天皇と同じく難波の宮においでで、父の大君の後を継いで日継ぎの位に就く祝い事の宴のとき、イザホワケの大君は祝いのお酒に心が舞い上がりすっかり酔ってしまって、そのまま寝てしもうた。そこを弟のスミエノナカツミコがイザホワケの命を奪おうとして、大殿に火をかけた。アチノアタヒは酔った大君を火の中から救い出した。こっそり馬に載せ難波から倭へとお連れした。途中たじひ野まで来たときにようやく大君は目が覚めた。西の方、難波の宮を望み見るとまだ赤々と燃えていた。そこから東へ逃げ、大阪山の上り口についたとき、ひとりの乙女が、武装した兵士が沢山居るから、遠回りだが、当麻へ抜けるタギマ路を越えてゆくと良いと言う。そこへ母を同じくするミズハワケが来る。すぐには会わず、スミナエノナカツミコを殺して来たら会うという。ミズハワケは難波へ下り、スミノエノナカツミコの側に仕えていた隼人のソバカリを騙して、スミノエノナカツミコが厠へ入っているとき戸の外から長い矛で刺し殺させた。褒美に大臣の位を授け、御伴の者を全て額ずかせた。ソバカリは喜んだ。大きな椀に並々と酒を注ぎ、御子がまず半分くらい飲んだ、契りの杯をソバカリに渡した。ソバカリは残りの酒を飲み干すため盃をぐっと傾けた。大きな盃がソバカリの顔を隠したとき、ミズホワケは莚の下に隠していた剣で、ソバカリの首を一太刀で切り後した。そして、履中天皇(イザホワケ)に会うため、明日に、ミズハワケは倭へ上っていった。それで、そこを名付けて近飛鳥といっている。倭に入ると、ミズハワケは「今日はここに留まり、穢れた身を禊した後に、明日、大君の座す神宮に参ろう」と言った。それで、そこを名付けて遠飛鳥と言う。(古事記・三浦佑之)

21・03・24

現代と違って 古代の日本は 気候が非常に温和だったのでしょうね

悪役の神様でさえ 100%の悪役ではありません
         時々悪さをする とか 悪い一面がある
         そして何所か憎めない優しさがあります

YES OR NO だけでなく 中間や別口にも価値を見つけたいですね
                特に現在は

21・03・11

みこと=命=御言

 神の御言が依り付いた神が 〇〇のミコトという神様なのですね

21・03・11

古代の人たちは 不吉の言葉は不吉を呼び
        目出度い言葉は目出度さを呼ぶと考えていたようですね

21・03・11

櫛は頭髪に挿す物。霊魂の象徴。運命を左右する力を持ち、邪気や悪霊を祓う力がある。
現代は髪の毛を梳く物としての意味が強くなっていますが、江戸時代までは櫛は大切にされていたようですね。

21・02・10

古代の人たちは 自然の猛威に強く打ちひしがれましたが

自然の暖かさ・恵みに感謝し 

自然の一員として 生き生きと逞しく生きていたように思います

非常に楽天的だった様です

21・02・10

古代の人々にとって、魂は肉体が滅んでもなお生きていた。しかも、魂は肉体を離れて飛んでゆくと考えられていた。
死とは単に「見えなくなること」「隠れること」にすぎない。
古代の人々は、この地上の世界の他に、山上はるかに明るい天上の世界があり、足下深くに暗い地下の世界があると信じていた。
大地は、あらゆる植物がそこに根を張り、そこから生い育ってくるところでも在ったから、この根の国は、また、すべての生命の根源たる母の国、地母の国ともみなされうる。とすれば、この根の国に帰った死者も、植物のように生まれ変わってくると期待されていたのかもしれない。古代では、大自然の循環の中で死と再生を繰り返す植物と同じように考えられていたからである。古代人にとって、死は再生のための通過儀礼に過ぎなかった。
他方また、豊穣多産を約束してくれる祖霊は海の彼方の楽土に住んでいると、南方系では信じられていた点を見るなら、この生命の根源たる根の国は、本来的には、自分たちがそこからやってきた海の彼方の遠き母国、本つ国として想定されていたのかもしれない。
地上と天上、中つ国と高天原には、この二つの世界を結ぶ梯子、天の浮橋が合ったという。
また、海上はるか遠くに理想郷、常世の国があると信じていた。そこは五穀豊穣を約束する穀霊・祖霊の故郷であり、常住不変の国であった。この国から年毎に穀霊・祖霊は来訪してくるものと考えられていたのである。
古代人は、海の彼方や海深くに理想の世界があると空想した。それは、永遠の生命力を象徴するものであった。

古代探求 「記・紀」の世界と日本人の心 小林道憲 NHKブックス

21・02・07

この世の全てのものに 命が宿り 神と捉えていた古代の人たちは

自然の恵みに感謝し
自然の脅威に恐れ戦き

計り知れない強力な力を感じ ひれ伏し 溶け込んでいたのでしょうか

神と人と自然の間には 境目が無かったのでしょうか

1・02・06

スサノヲは暴風雨の神様でしょうか

神話には雪はあまり出てきませんね

21・02・05

自然の中で
自然と一体になって 生きていた古代の人たちは
自然の恵みに深く感謝し
自然の猛威に恐れ慄いた事でしょう

21・02.03

古代の人たちは 再生を通じて 永遠の命を願ったのでしょうか

21・02・02

再生
太陽は朝出てきて夕方沈む
月は夜出て朝沈む
草や木は秋に落葉して春に新芽を出す

古代の人たちは再生に強い願望を持っていたようですね

21・02・01

植物の根っこが広がっている世界は 母なる大地の世界
そこは あらゆる生命の源の地
多くの恵みを与えてくれる大地に 強い一体感を持っていたのでしょうか

21/01/31

イザナキ=天=父

イザナミ=地=母

女は大地 生き物は大地から生まれ大地に帰る
男は天空 カッコいいけど何か虚しい

女は神代より しっかりと根っこを捕まえているようですね
アナニヤシ エヲトメヲ とイザナキに華を持たせましたが
しっかりと国土を作りました

神話の時代から 現代まで
女の力は 絶大ですね

20・11・30

オトタチバナヒメは、海峡の神の生贄となって海に入るのであり、それは神の嫁になることと同じなのである。
                                           (古事記・景行天皇・三浦佑之)

20・11・29

ヤマトタケルノ命の東征物語は、まず伊勢神宮に参拝しヤマトヒメノ命に心境を打ち明け、草薙の剣と御袋を授けられること、相武国(サガムノクニ)でだまされて野火攻めに会うこと、走水海を渡るとき、オトタチバナヒメノ命が身代わりとして入水して、荒波を鎮めること、足柄坂の神を、一片の蒜(ヒル)によって打ち殺すこと、酒折宮(サカオリノミヤ)で火焼(ヒタ)きの老人(オキナ)との歌の問答をすることなどを主要な物語としている。
 ヤマトタケルノ命がヤマトヒメノ命に、「天皇既に吾を死ねと思ほすゆゑか、・・・」と悲痛な胸中を打ち明ける場面は、ヤマトタケルノ命の人間的な苦悩を描き出したことばとして注目される。宣長はこれについて、「いといと悲哀(カナ)しとも悲哀(カナシ)き御語にざりける」と評している。命のことばは、やがて命の死を語るための伏線となっており、またこの皇子が天皇に疎外される皇子であることをも暗示している。
野火攻めに会う話は、大国主命が根の国を訪れたときの神話にも語られているが、ヤマトタケルが向い火を放つときに用いた火打ちは、ヤマトヒメから授けられたものとされている。ヤマトヒメは伊勢神宮に奉仕する巫女であるから、これは伊勢神宮の加護によって、命は身を全うした、とする思想を表したものである。
 次に走水海を渡るときに、オトタチバナヒメが入水するという物語は、新羅征伐に向かう大伴狭手彦の船が進まなかったとき、狭手彦の伴っていた那古若という女性を、波に浮かべて海神に供えたという説話(『筑前風土記』逸文)と同類である。オトタチバナヒメはヤマトタケルの后とされている。その姫が、「妾アレ、御子に易りて海の中に入らぬ。・・・」と。身代わりになって入水することを申し出るのである。そして海に入るとき、「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の」の歌をうたい、野火攻めに会った危急の際にも、自分の安否を気づかった夫の愛情を信じ、これを頼りにして自ら死んで夫を救うのである。ここにはオトタチバナヒメの人間的な強い愛情が、心にくいばかりに描かれていて胸を打つものがある。
                                          (古事記・景行天皇・次田真幸)

20・11・22

太古より よい食べ物や お薬が 沢山増えた 
その分だけ 人は幸せになったのでしょうか
食べ物・お薬・住まい・衣類・何でもかんでも良くなり便利になりました
神代には時空を超越する乗り物があったようですから
乗り物は未だ古代には勝てません
文化や文明が進歩して
古代の人たちのような大らか・溌剌として・瑞々しい心は、どこかへ消えました。
最近は、老子の考えに興味を持ち始めました。

11・18

「命を天朝(ミカド)に受(ウケタマハ)りて、遠く絶域に往(マカ)り、万里に浪を蹈(フ)み、遥かに弱水を渡る。是の常世国は、即ち神仙の秘区(カクレタルクニ)にして、俗(タダヒト)のいたらむ所に非ず。」

タヂマモリがトキジクノカクノコノミを持って帰朝たとき、垂仁天皇はすでにお亡くなりになっていました。
タヂマモリは垂仁天皇の御陵の前で言った言葉です。
ここに出てくる、「弱水」は、遠く中国で、西王母が住むという崑崙山の下にあるそうです。

日本書紀を書いた人は、中国の最新の情報を知っていて、日本書紀を書いたのでしょうか

秦の始皇帝が、徐福に不老不死の薬を探させたのと、よく似たお話です。
此の事を知っていて、日本書紀が書かれた様に思います。

20・11・15

トキジクノカクの木の実
垂仁天皇が功成り名を遂げて、その後、とわの命を願ったのでしょうか?
英雄が不老不死を強く願うようですが、
垂仁天皇も英雄だったのでしょうか。
神武天皇・崇神天皇が共にハツクニシラススメラミコトですから
この二人の天皇にこの話しが出てきたほうが自然にも思えますが、
なぜか垂仁天皇に出てきます。

20・09・04

疫病大流行
「この天皇の御世に疫病(エヤミ)多(サワ)に起こりて、人民尽きなむとしき。
ここに天皇愁へ愁へたまひて、神牀(カムトコ)に座(イマ)しし夜、大物主大神御夢に顕れてのりたまはく、「こは我が御心なり。かれ、オホタタネコを以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気(ケ)起こらず、国も安平(ヤスラケ)くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて、駅使(ハユマツカヒ)を四方(ヨモ)にあかちて、オホタタネコといふ人を求めたまひし時、河内の美努村にそのその人を見得(エ)て貢進(タテマツ)りき。ここに天皇、「汝(イマシ)は誰(タ)が子ぞ」と問ひ賜へば、答へてまをさく、「僕(ア)は大物主大神、スエツミミノミコトのむすめ、イクタマヨリビメを娶(メト)して生みましし子、名はクシミカタノミコトの子、イヒカタスミノミコトの子、タケミカヅチノミコトの子、僕オホタタネコぞ」とまおしき。
ここに天皇大(イタ)く歓びて詔(ノ)りたまはく、「天下(アメノシタ)平(タヒ)らけく、人民(タミ)栄えむ」とのりたまひて、即ちオホタタネコノミコトをもちて神主(カムヌシ)として、御諸山(ミモロヤマ)にオホミワノオホカミの前を拝祭(イツキマツ)りたまひき。またイカガシコヲノミコトにおおせて、天の八十びらかを作り、天神地祇(アマツカミクニツカミ)の社(ヤシロ)を定め奉(マツ)りたまひき。また宇陀(ウダ)の墨坂神(スミサカノカミ)に赤色の盾矛(タテホコ)を祭り、また大阪神(オホサカノカミ)に墨色(クロイロ)の盾矛を祭り、また坂の御尾(ミヲ)の神また川の瀬の神に、ことごとに遺忘(ワス)るることなく幣帛(ミテグラ)を奉りたまひき。これによりて疫(エヤミ)の気(ケ)ことごとに息(ヤ)みて、国家(クニ)安平(ヤスラケ)くなりき。

20・08.01

夫婦になっている相手を裏切って、血の繋がった人をたすけた話は
  この イスケヨリヒメ
      十市皇女
      お市の方

キット、もっと沢山あるでしょうね

20・07・26

狭井河(サイガワ)よ 雲立ち渡り 畝傍山 木(コ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす
畝傍山 昼は雲揺(クモト)い 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる
この二つの歌は、万葉集に出ている歌と完成度は同じのようです。
日本の自然と共に生きる古代の人たちの心が今もわたしたちの心の中にあるのでしょうね。

20・07・23

当芸志美々命の神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)らを殺そう言う計略を知らせるのに歌という手段を使っています。
5・7・5・7・7の綺麗な形の歌にしています。
最高の機密の報せの文章をいを歌という形にしています。
怪しまれない為でしょうか、
神武天皇は逆さ言葉を使ったと紀に書いてあります。
もし 当芸志美々命も同じ感情を草や木や風に持っていたなら
情報は筒抜け。
そうなら歌を届ける方法が大切になりますね。

20・07・19

イスケヨリヒメと三人の皇子様とは、草や木、吹く風、雲の動きに共通の思いを持っていらしたのですね

20・07・18

天皇(スメラミコト)の崩(サ)りましし後に、其(ソ)の庶兄(ママネ)当芸志美々命(タギシミミノミコト)、其の適后(オホキサキ)伊須気余理比売を娶(メト)りし時に、其の三はしらの弟(オト)を殺さむとして謀りし間に、其の御子等(ミコタチ)に知らしめき。歌ひて曰く、
 狭井河(サイガワ)よ 雲立ち渡り 畝傍山 木(コ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす
又、歌ひて曰く、
 畝傍山 昼は雲揺(クモト)い 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる
是(ココ)に、其の御子、聞き知りて驚きて、乃(スナワチ)ち当芸志美々命を殺さむと為(セ)し時に、神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)、其の兄(エ)神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に白(マヲ)ししく、「なね汝命(ナガミコト)、兵(ツハモノ)を持ち入りて、当芸志美々命を殺せ」とまをしき。 

(狭井河から雲が広がり、畝傍山の木の葉がざわざわと音を立てはじめた。風が吹こうとしている。)

(畝傍山は、昼は雲が揺れ動き、夕方になると風が吹く前ぶれとして、木の葉がざわざわと音を立てている。)

古事記・神武天皇・新編

この二首の歌を、イスケヨリヒメがイスケヨリヒメと神武天皇との間に出来た皇子様方にお送りになりました。
この歌を受け取るとたちどころに、其の歌の真意を理解し、
当芸志美々命の計略を知りました。
すぐさま行動を起こされました。
そうして神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)が天皇になられました。。

雲の流れ・木の葉・風・などの形や動き・音に 特定の意味を見ていらしたのでしょうか。

葦原中国は草や木や岩も物を言うと記紀には書いてありますから
このころは未だ 自然の中で・自然に包まれ・自然と共に生きていたのでしょうか

この歌が、正確に情報を伝えたことは大きな驚きです

そうして自然が全て神様になったのでしょうか