応神天皇

応神天皇の御世の新しい技術

*枯野(カラノ) 軽くてよく走る船
*韓人池     諸韓人等を率いて作る
*縫衣工女   着物を縫う女性技術者を百済王が奉る
*阿直岐    よく経典を読む。百済王の使者 百済の国主照古王より
*王仁     すぐれた博士王仁、ヒツギノミコウジノワキノイレツコに諸典籍を教える 百済の国主照古王より 論語千字文
*縫工女    求めに応じ呉より来朝
*工女兄媛   求めに応じ呉より来朝
*工女弟媛   求めに応じ呉より来朝
*呉織      求めに応じ呉より来朝
*穴織      求めに応じ呉より来朝
*呉衣縫    求めに応じ呉より来朝
*蚊屋衣縫   求めに応じ呉より来朝
*牡馬     百済の国主照古王より
*牝馬     百済の国主照古王より
*横刀     百済の国主照古王より
*手人韓鍛  朝鮮系鍛冶師 百済の国主照古王より
*呉服     呉の国から来朝の機織女 百済の国主照古王より
*須須許理  強い酒を醸す人来朝
*珠二貫    アメノヒホコが持って来る
*浪振るひれ  アメノヒホコが持って来る
*波切るひれ  アメノヒホコが持って来る
*風振るひれ   アメノヒホコが持って来る
*風切るひれ   アメノヒホコが持って来る

応神天皇の時代は、魏はゴタゴタしていて(もしくは滅亡)、三国の中でも、呉が力を握っていたのではないでしょうか?それで呉に使者を送ったのではないかと思っています。

「神功皇后イコール卑弥呼説」を否定される方もいます。しかし、それを言ってしまえば、古事記での応神天皇の崩御は、西暦393年です。呉の滅亡から応神天皇崩御まで、113年間もあります。応神天皇はそんなに長生きだったの?…とは、思えませんよね。そうなると、応神天皇が呉に使者を送ったという話も、おかしくなってきます。古事記&日本書紀の年代は曖昧です。呉から技術が伝わった話はあるけれど、はっきりした証拠がないので『伝説扱い』なんです。

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