配石

配石は縄文時代とその社会の最も顕著で宗教的ともいえる記念物として、時代の変遷も反映しているものではないかと考えている。それは配石が孤立してあるのではなく、集落の構成や墓制と切り離せない関係を有することや、加えてその内部にいくつかの場を併せ持っており、そこで非日常的(あるいは日常的)な祭祀が行われたことも確かなことが上げられる。そのことから、配石の要素や構造、形成過程や、祭祀の内容を遺構から再現できる可能性が存在し、それが実証されれば縄文人の社会や宗教的な体系を一面から窺いうる糸口に出来ると考えられる。しかし現状ではまず集落の構成も墓制も、ましてや配石自体の全体構成等もまだ不明な点が多くある。部分発掘に止まる多くの報告例でさえも、配石が造営された時以来の少なからざる移動や破壊を示すことが多く、そのまとめや分析を困難にしている。最近大規模で徹底した調査や配石の類別の集成も試みられ配石全体の成果く付けも論じられている。大別すると、墓であることを基本とする見方と、山岳や石自体の崇拝などを内容とする祭祀を本質とする説を両端とするいくつかの説が提出されている。

配石の研究は、環状石蘺研究、環状レッセ現在は危険球の段階から、具体的な類別呼称に基づく研究に入っていて、さきの墓説・祭祀の対立を克服する見解も出され始めた。墓説・祭祀説は1953年の大湯町環状列石の報告で明示されている。大場磐雄は我が国の石信仰を概括し、人工的形態を持つ配石も大きくは石信仰の範疇に入れるけれども、必ずしも縄文期は同一とは思われぬがその意図は埋葬とか祭祀とか宗教的行為とかかわるものとした。上原遺跡の報告では祭祀が先行し後に墓が組み込まれたと見ている。斎藤忠は大場の報告のまとめで、雰語としての可能性が高いことを論じている。論点となる配石化の調査では、13例中10例で黒土下の下位火山灰層に達する小判型の土壙が発掘されていた。

配石では墓と祭祀の場の結びつき、集落の一部に営まれ。祖霊の祭りや豊饒祭祀の場となった。発達した姿を見る後期には縄文神殿的なものもみられ、人身御供すら疑われるが、いづれ縄文神話がそこで語られ、芸能が行われたこともありそうである。今後の発掘で配石問題の具体的追及が果たされてゆくことであろう。

(縄文文化の研究・9・縄文人の精神文化・配石・阿部義平)