翡翠大珠

硬玉生産の出現については、小滝・橋立硬玉原産地をひかえた西頸城地方所在の攻玉遺跡は、それが縄文前期末~中期初頭にはじまることを示唆してはいる。そして、全国の他の地方を見ると硬玉製大珠の出土例は中期前葉に遡りうるものも見受けられる。また、硬玉製大珠は勾玉、丸玉、垂飾品品などのあらゆる硬玉製品の中でも初現的な在り方を示しているのである。注目すべきことは、前期終末~中期初頭土器群が集中的に出土する地点より、蝋石製の玦状耳飾・丁字頭牙状垂飾品などと共に蛇紋岩製大珠様石製品が出土したことである。

攻玉技術

転・漂石採拾から仕上げに至る攻玉工程では、基本的に整形→研磨→穿孔工程を経ている。整形工程では、原材加撃→敲打→部分研磨の段階を踏んで適当な素材を確保するものと、原材もしくは整形工程後に擦切手法によって裁断し、更にその擦切痕などを敲打・研磨する例がある。ここまでは蛇紋岩製磨製石斧の製作工程とほぼ規を一にしている。次の研磨工程も同様で、整った形態と美麗に磨き上げることが主眼となり、研磨は複数の砥面を残した段階で搾孔工程に移ると考えられる。

硬玉製大珠の孔は一般に中央もしくはやや一方に偏在し、一方向穿孔によって貫通するのが通例のようである。硬玉製大珠の攻玉法上最も重要な段階で、蛇紋岩製磨製石斧製作工程とはここで完全に遊離したものとなる。この穿孔工程では孔の位置と共に一方向穿孔という独特な社会的社会的な規制が働いたものとみられる。大珠の本来的形態をよく保っている鰹節型、緒締型ではほとんどが一方向穿孔であり、二方向穿孔はやや扁平な断面のものに多い。穿孔容易と思われる扁平型が二方向で、穿孔技術も高度のテクニックを必要とするものが一方向であることは、そこに一方向穿孔が守らねばならない約束が存在していたと見なくてはならない。この点、前期の飾玉類や後期以降の硬玉製品に二方向穿孔の類例が多いことを考え合わせると、硬玉製大珠に内在するゆるぎない意識の一端を知ることが出来よう。

穿孔においては管錐、棒錘の使用を見るが、前者を主流とする。このことは一方先行で開孔部と終孔部の形にほとんど差がないことにも表れている。また孔底にいわゆる「ヘソ」とよばれる突出部を残した穿孔途中の数多くの類例が示すとおりである。最近では竹管のもみ錐による実験的研究でも穿孔可能であることが示されている

形態

鰹節型(典型型・有溝型・裁断型・半月型)

緒締型(断面扁楕円型・扁平型)

石斧型

不整形型

分布

硬玉製大珠は、北陸・中部を中心に関東・東北・東海・近畿・北海道にまで拡がりを見せている。このうち硬玉生産文化圏及び第一次給付文化圏の外郭地域である関東・東北・東海・近畿・北海道では長さ15cm前後を測る大型品は少なく、逆に硬玉生産文化圏・一次給付文化圏内では、著名な富山県氷見市朝日貝塚の19,95cmを最大に、大・中型品の出土例が多く,総体数でも該地域が外郭地域をはるかに凌駕している。縄文中期の硬玉生産一元論の証ともなる姿相であろう。

硬玉製大珠は上越地方、富山平野、伊那谷に濃密な分布を示し、松本平、筑摩平、諏訪盆地に拡散している。このようなありかたは、下越及び北信地区に硬玉製大珠の出土例が少ない傾向に絡み、大珠交易の実態を示すかの如くである。

遺跡における出土の様相

近年、以降に伴出した硬玉製大珠の報告例が増加の一途をたどっている。土壙、配石址、環状土籬など埋葬・信仰に関連すると思われる遺構に多いが、住居址からの出土もある。

硬玉製大珠の出土様相は副葬品に利用されたことを示唆する例が多く、非硬玉製品・時空差などに問題を残すが、山鹿貝塚でみられたような特殊な人物の所有物であったこと、および岩手県石田遺跡例のごとく土壙ぐんのなかの一つだけに副葬されていた点などから、硬玉製大珠が多分にマジカルな要素を具備していたことをうかがわせている。

性格・意義

硬玉製大珠は縄文前期末に萌芽があり、少なくとも中期初頭を相前後するところにはじまり後期前葉にはその終焉を迎えたものと思われる。終焉に関しては、西頸城地方の攻玉遺跡が後期前葉の堀之内式併行期を境に縮小し、後期中葉~後葉の遺跡が皆無に等しい点と、かかる傾向が硬玉生産文化圏・第一次給付文化圏の一般的事象として把握できるからであり、硬玉大珠の伴出時期を見ても中期前葉~後期前葉に多くの事例を知ることによる。しかし、後期中葉以降の所産とされる硬玉製大珠も少なくない。北海道の出土例、静岡県蜆塚遺跡、東京都田畑遺跡、神奈川県秦野市平沢同明遺跡などでは後期中葉~晩期初期に位置づけられるが、あるいはその一部は傳世もしくは偶発的なものかもしれない。また硬玉製大珠の分割・解体説を否定するものではないが、硬玉生産文化圏に見られる硬玉製大珠生産途絶の現象は社会的姿相の変動として理解すべきで、硬玉製大珠の保持してきた意義そのものが失われたためであろう。換言すれば、意義を失したからこそ硬玉製大珠の分割・解体も行われたのである。九州地方の鰹節形大珠は非硬玉のようであるが、形態的類似性は東日本の硬玉製大珠と全く無関係とはいえない。現状では中国・四国地方に空間的間隙があり今後の課題とされるが、縄文後期~晩期に属し、硬玉生産文化圏より後出のものである。

硬玉製大珠は鉱物学的生成において小滝川・青海川の硬玉岩と類縁な蛇紋岩より製作された磨製石斧とは密接不可分の関係にあり、伝播の図式も遠隔地はともかく硬玉生産文化圏・第一次給付文化圏では基本的に一致しなければならない。したがって姫川・青海川流域を除けば、硬玉製大珠の密な分布、蛇紋岩製磨製石斧生産遺跡の集中より、富山県東部にも大珠分配の加重を認識すべきであり、細部の相違は今後の研究に委ねるとしても、土器様式において新保・新崎様式から天神山を経て、串田新・気屋様式に至るまで、西頸城、富山、石川北半を席巻したエネルギーの一要素として硬玉製大珠・蛇紋岩製磨製石斧を加え、それが果たした役割を評価してゆかなくてはなかろう。

硬玉製大珠については本来硬玉を素材とするものを意味するが、さらに軟玉・蛇紋岩の如くその外見上峻別の困難なものが少なくない。しかし硬玉製大珠に潜む実態の上に用材差はさしたる障害ではない。長者ヶ原・寺地遺跡では滑石・蛇紋岩製大珠の製作も実施されており、その意義も大同小異に思われる。付言すれば、茨城県勝田市君ガ台貝塚、神奈川県津久井城山町谷原、石川県石川郡野々市町御経塚、岐阜県美濃加茂市下古井出土の大珠形土製品もまた硬玉製大珠の基本的な意義の一部を堅持するものと言えよう。

縄文文化の研究 9 縄文人の精神文化 3 第二の道具 翡翠大珠 安藤文一