平準署

中国で物価安定のため置かれた官司で、漢代に、大司農の属官として平準令丞があった。唐では、大府寺に平準署があり、令(従七品下)二人、丞(従八品下)四人以下の官人が所属した。旧唐書職官志には「平準令、掌供官市易之事。丞、為之弐。凡百官不任用之物、即以時出貨。其没官物、亦如之。」とある。本条で設置されたわが国の左右平準署は、諸国常平倉の管理運営を統括するもので、唐の平準署とはややその性格を異にする。左右平準署は宝亀二年九月に廃止されるが(九月乙巳条)、この間、天平宝字六年正月戌子条に右平準令(椋垣吉麻呂)、同室七年七月乙卯条に右平準令(高元度)の任命記事があり、神護景雲元年九月辛亥条にも右平準令池原禾守のことが見え、唐制と同じく長官を「令」と称したことが知られる。

(続紀・天平宝字三年五月九日・新日本古典文学大系)