縄文時代には単なる狩猟・漁労・採集の社会ではなく、高度な植物の知識をもった縄文人が積極的に植物を利用し、管理や栽培まで行っていました。それでは、縄文人は何時頃イネや雑穀と出会い、どのように水田稲作を始めたのでしょうか。

中国の長江中流域から下流域がイネの起源地であることが近年の考古学証拠から明らかにされています。この地域は、現在の野生イネの分布北限ですが当時はより北方の淮河流域まで野生イネが分布していたと考えられています。一万五千年~一万一千年前の頃はまだ野生イネの採集を行っていた時代で、長江中流域から下流域南部の丘陵地帯、湖南省玉嬋岩遺跡や浙江省上山遺跡から野生イネが見つかっています。

九000~八000年前頃になると、長江の中流域の彭頭山遺跡や河南省賈湖遺跡などでイネの記録が増加します。しかし.これらが野生イネなのか栽培イネなのか、まだ決着がついていません。じつは野生イネと栽培イネの同定は厄介な問題で、種子の大きさだけでは判別が難しく、籾の軸にある脱粒痕を調べる必要があります。この時代のイネの記録は脱粒痕が調べられないため不明になっているわけです。その一方で黄河中流域では、雑穀のキビやアワがこの時期に栽培化されています。

八000年から七000年前になると、浙江省跨湖橋遺跡で確実な栽培イネの証拠が出土していますここでは穂軸の脱粒痕が調べられ、栽培イネと同定されたわけです。だだし、まだ栽培型の穂軸よりも野生型の法が量的には多く出土します。

六九〇〇〇年~六六〇〇年頃になると、浙江省の田螺山などで栽培型が野生型よりも多くなり、この頃に栽培イネが定着したことがわかります。この時期は黄河流域でも雑穀の栽培が広がっていく時期です。

六九〇〇〇年~六六〇〇年頃になると、浙江省の田螺山などで栽培型が野生型よりも多くなり、この頃に栽培イネが定着したことがわかります。この時期は黄河流域でも雑穀の栽培が広がっていく時期です。6400~5500年前になると、長江中流域の城頭山遺跡や、江蘇省草鞋遺跡でついに水田跡が出土します。特に子の城頭山遺跡では水田だけでなく、黄河流域で発達した雑穀農耕の融合し、水田稲作と雑穀の畑栽培の両方が行われたことが明らかになっています。

私も調査を行った城頭山遺跡は円形の環濠に囲まれた遺跡で、東門や何門、神殿などが発掘され、この東門から河川の旧流路を利用したような小規模な小規模な水田跡が見つかっています。近くには祭壇もあり、稲作儀礼もこの時期には始まっていたと考えられています。この環濠の堆積物から、炭化米やイネの籾殻だけでなくアワが見つかりました。水田でイネをつくるだけでなく、アワ、シソ属などの畑作物も作っていました。木の実類や堅果類も少しは有るのですが、多くはカジノキやサンショウ類、マタタビ類、ヤマブドウ類などの灌木です。

そして水田雑草や・畑地・荒れ地の雑草を調べて土地利用の変化とイネとアワの栽培との関係を調べたところ、城頭山遺跡では大罫文化前期の6400年前後には環濠の周辺や氾濫原でイネを栽培する、湿地的な稲作と初期水田稲作を行っていたことがわかりました。

大渓文化中期になると遺跡を拡大して氾濫原ではイネを作り、遺跡の中の台地の部分、居住域の近くでは畑でアワやシソを作っています。こういう複合農耕がすでに5800年前頃には完成していました。

そして、中国から拡散した水田耕作が朝鮮半島の南部に到達したのはおよそ3100年前になります。ではいつ頃日本に到達したのでしょうか。縄文時代のイネの記録は、今のところ、縄文後期にまで遡ります。岡山県南溝手遺跡では土器胎土中のプラントオパールや土器圧痕でイネが、愛媛県文京遺跡では土壌中からイネのプラントオパールが、熊本県石の本遺跡ではイネの土器圧痕が縄文時代後期のものとして報告されています。。ただし、コレラを認めない意見もあります。南溝手遺跡の場合はイネの圧痕は良いのですが、土器は縄文晩期から弥生時代にかけてのト突帯文期のものと言われたいます。土壌中のプラントオパールには賛否があり、上層からの混入の可能性も考えられることから積極的にこれを評価しない立場の人も多くいます。石の本遺跡の例では、土器が縄文時代後期でなくて、もっと新しいものではないかといった疑問も脱されています。
つまり、朝鮮半島の状況から考えると縄文晩期にイネが日本に伝来していても問題はないのですが、それを積極的に証明する証拠は、今のところないと考えたほうが良いと言う事です。

北部九州で水田稲作が始まるのは弥生時代早期で、およそ2900年前(紀元前10世紀)になります。この頃、近畿や関東、中部地方では、まだ水田稲作が始まっていないので、縄文時代晩期中葉から終末になります。最近、中国地方を中心に、縄文時代晩期終末のアワやキビの土器圧痕が見つかっています。また近畿地方では、縄文時代晩期末期の滋賀県竜ケ崎A遺跡ではイキビの炭化種子が出ていて、2550±25CBP(紀元前800~550年前後)の値が得られています。京都府北白川追分町遺跡ではイネとアワの種子が出土しアワの年代が竜ケ崎A遺跡の年代とほぼ同じです・これらの年代は、北部九州では弥生時代前期に相当します、北部九州の菜畠遺跡では弥生時代早期から水田稲作が始まっていますが、重要なことは、近畿地方の北白川追分町の遺跡では、本格的な水田が営まれる前に、もうすでにイネが来ていると言う事です。

この水田稲作以前の稲作はどういったものだったのでしょうか。水田以前の稲作、縄文時代の稲作と言うと、多くの方が焼畑での陸稲栽培、あるいは畑での陸稲栽培を想定します。縄文時代のイネなどでとくにプラントオパールや古DNAの分析結果から、陸稲に多い品種である熱帯ジャポニカが出ていることが、陸稲哀倍の大きな根拠とされています。温帯ジャポニカは水田で栽培され、温帯ジャポニカは主に畑で栽培されてることから、陸稲栽培の根拠とされるわけです。

ただし、本当にこれが想定できるのでしょうか・まずDNAやプラントオパールで本当に熱帯・温帯ジャポニカが識別できるかという問題がありますし、実はこの熱低ジャポニカは湿地や水田でも栽培できます。熱帯ジャポニカをすぐに陸稲に結び付けなくても、水田でも栽培してもいいわけです。縄文時代晩期終末に受容した初期稲作は、稲作と雑穀の複合農耕であり、無理に焼畑(陸稲)を想定する必要がないわけです。

私が調査したのは弥生時代前期の水田跡よりも下位にある縄文時代晩期終末の泥炭層です。この時期の植生の空間分布をみるために、扇状地近くの斜面の縁の部分と湿地の広い部分でサンプルを採取して種実遺体の調査をおこないました縄文時代晩期終末(13層)の黒い層と弥生時代前期の黒い層との間に、洪水の白い層があります。したがって、弥生時代の層から縄文時代晩期終末の層と上の層への混じりこみはないものと考えられます。

調査の結果、泥炭層の南側から未炭化のイネの籾殻が80点、籾の軸の部分が8点出土し、泥炭層の北側では炭化したアワアが出土しました。このアワアの較正年代は紀元前790~550年で、縄文時代晩期終末から弥生時代前期に相当します。では、このイネやアワはどういうところで栽培されていたのでしょうか。これを明らかにするため、土を洗って雑草などの種子を集めて種類を同定し、当時の細かな環境を復元しました。

まずイネが出た南側の地点ではヒシやミゾソバ、ボントクタデ、ヒルムシロ属、イグサ属、ホタルイ属、ハリイ属といった水田や湿地に多い草本が多数出土しました。アワが出た北側ではクワクサやカヤツリクサ、ツユクサといった、畑地雑草のようなものが出土しました。そして扇状地斜面側ではカヤ、オニグルミ、アカガシ亜族、トチノキ、クリ、ハクウンボクといった、多数の木本の種子が出土することがわかりました。

縄文末期終末の泥炭層を細かく層位別にみてゆくと、一番下の層準ではアカガシ亜属やオニグルミ、トチノキが多いのに対しイネやアワが出てくる上部の層準になると、コナラ節、ヤマグワ、ノブドウなどの二次林的な要素になり、最終的にはカエデ属やカラスサンショウ、フジといった、明るい環境になっていたことがわかります。実際にトチノキの根株なども出ていて、その上の層準では伐採した後のあるコナラ節の倒木が報告されています。

又、空間分布を見てみると、斜面に近い所ではコナラ節やクリ、フジ、ニワトコなどがあり、湿地の南側ではイネが出て、ホタルイ属、ハリイ属などがあります。そして北側ではイネが出て、ホタルイ属、ハリイ属などがあります。そして北側ではアワと畑地雑草が多くあります。ただしアワは炭化していて、ここでアワが生育してたというよりも、恐らく少し高い所から畑地雑草と一緒に流れ込んできて堆積したのではないかと考えています。

以上を復元してみますと、まず縄文時代晩期の北白川追分町遺跡の周辺には、アカガシ亜属やカヤが主体の斜面林があり、湿地にはオニグルミ、トチノキ、ミズキなどの湿地林が成立していた。それを人が手を加えることにより一部がコナラ節の二次林環境に変化し、少し開けて湿地が出来るようになった。北部九州に最初に伝わったイネを知った西日本の縄文人は水田ではなくこういった開けた湿地を使って、まずイネを育てたのではないだろうか。そして少し高い所でアワを育てる、こういったことを縄文時代の晩期の終末ぐらいからやっていたのではないかと考えています。

日本で最古の水田跡は、佐賀県菜畑遺跡で見つかっています。菜畑遺跡ではイネだけでなくアワもみつかっており、水田だけでなく近くに畑があったことが窺えます。中国最古の水田遺構がある城頭山遺跡でも。イネだけでなくアワの栽培もおこなっており、このようにみると、湿った土地でイネを栽培し、乾いた土地で雑穀を栽培するような稲作と雑穀の複合農耕がセットで日本に伝わった可能性が考えられます。

名畑遺跡でも雑草の調査が行われています。そこで、北白川追分町遺跡と名畑遺跡の弥生早期・弥生前期の本格的水田、この二つの遺跡で出土植物の種類を比較してみました。

まず、北白川追分町遺跡の湿地と名畑遺跡の水田との共通種としてあげられるのは、水田(水中)雑草ではホタルイ属、ハリイ属、ボントクタデと言ったものがあり、田畑(湿性)の共通雑草では、スゲ属、ミゾソバ、イヌビエ、カヤツリ属、イヌコウジュ属、ツユクサなどがあります。

畑地(人里)雑草では、ハコベ属、イヌタデ属、クワクサ、イラクサ科、イヌホオズキ類、カナムグラ、スミレ属、ヘビイチゴなどがあります。

食利用植物や木本植物では、クワ属やキイチゴ属、コウゾ属などが出てきています。これらは北白川追分遺跡でも名畑遺跡でも同じ、どちらでも出てくる種です。

一方で、北白川追分町遺跡でも名畑遺跡でも同じ、どちらでも出てくる種です。

一方で、北白川追分町遺跡の湿地と名畑遺跡の水田との大きな違いは、典型的な水田雑草が名畑遺跡では見られますが、北白川追分末遺跡では見られないことです。北白川追分町遺跡においてコナギやオモダカと言った抽水性の植物がほとんどないということは、畝で区画された狭い帯水域が無かったことを示していると考えています。

また、もう一つの違いは、北白川追分町遺跡では山野草や木本植物の量がまだ圧倒的に少ないと言う事です。ネコノメソウ属やマルミノヤマゴボウ、ヤブミョウガといった、周りに林があって暗い林内の環境などに出てくる草本が北白川追分町遺跡では見られないことです。北白川追分町遺跡においてコナギやオモダカといって抽水性の植物がほとんどないと言う事は、畝で区画された狭い帯水域が無かったことを示していると考えています。

また、もう一つの違いは、北白川追分町遺跡では山谷省や木本植物の量がまだまだ圧倒的に多いと言う事です。ネコノメソウコノメソウ属やマルミノヤマゴボウ、ヤブミョウガといった、周りに林があって暗い林内の環境などに出てくる草本が北白川追分遺跡では多数出土しているのですが、これに対して名畑遺跡ではこれがほとんど見られないと云った違いがあるわけです。

湿地稲作を行っていた北白川追分町遺跡では、まだ周辺に森林が豊富にあったのではないかと考えています。つまり西日本では最初にイネを受け入れた縄文人は、まずは北白川追分町遺跡の縄文人のように堅果類やベリー類などの森の恵みを享受できる湿地林を利用して、最初に稲作を始めたのではないかと思われます。

これに対して名畑遺跡のような本格的な水田では、どんどん開けたところに水田を作っていたと言う事が考えられます。北白川追分町遺跡と名畑遺跡での出土植物をグループごとにまとめてグラフにして比較してみました。北白川追分町遺跡では木本植物や山野草がありますが、名畑遺跡ではその比率は小さくなっています。逆に名畑遺跡では、北白川追分町遺跡で少なかった雑草類が多くみられるわけです。

このように、西日本の縄文人は最初に湿地で稲作を始めましたが、しだいにより広く、より平坦な土地で灌漑水路をこしらえるようになり、ここから本格的な弥生時代の稲作に移行したのでないでしょうか。

ただし、一度水田が出来たからと言って,それが弥生時代前期になって一気に日本全国へ広まったわけではないようです。そこで、縄文時代から弥生時代後期までいくつかの遺跡を取り上げて、栽培植物と木本や堅果類の種数を比べてグラフにしてみました。

縄文時代の中期、晩期、後期ぐらいから弥生時代にかけて、栽培植物の種数は多くなっていきます。トチノキやドングリなどの堅果類は水田稲作の拡大に伴って、単純に減少してゆくのかと言うとそうではなく時期や場所によって堅果類をまだ多く利用している所や、けんかるいをほとんどりようしないところがあることがわかってきました一面の灌漑水田の様子が示されることが多いと思います。

したがって縄文人は、イネを受け入れてから、すぐにも水田稲作を拡大して、食糧を全てイネに変えたというわけではなく、場所地域によってはまだ縄文的な食糧獲得戦略を継続していたことがわかってきました。

弥生時代の復元画として、板付遺跡の例のように、集落の周囲にある一面の灌漑水田の様子が示されることが多いと思います。しかし、水田稲作を行うようになった弥生時代の始めから、日本列島全域にこのような景観が広がっていたわけではもちろんありません。弥生的な村と、縄文的な村、あるいはこの中間的な性質の村が、地域や時期ごとに様々に棲み分けていた可能性があり、もっと多様な、弥生時代の復元画が描けるはずだと考えています。これらが、どのように棲み分けていたのかを明らかにすることが、今後の重要な課題になってくるでしょう。

最後にこれまでの内容を纏めます。まず、中国で水田稲作が始まった頃には、すでに稲作と雑穀の複合農耕が行われていました。そして、それを受容した日本の初期稲作も雑穀との複合農耕であったことは、名畑遺跡や北白川追分町遺跡などで、イネだけでなく、アワやキビが見つかっていることからも明らかです。こう考えると、焼畑が先に来て、そのあと水田が来たと、無理に考える必要もないのではないかと考えています。

そして、このイネと雑穀の栽培は、縄文時代から連綿と続くマメ栽培や堅果類、ベリー類の利用大系に徐々に加わっていったものであり革命的に変化したものでないと考えています。

弥生時代前期以降に南は九州南部から北は青森まで灌漑水田稲作と畑がどんどん普及してゆくわけですが、それが一気に直線的に普及したわけではなく、地形、地理的な要因によって、その伝播、普及の段階はさまざまであったのではないかと考えている所です。北白川追分町遺跡での研究は、まだ一つの事例にしかすぎませんが、今後このような初期稲作遺跡の出土植物を詳しく調べて稲作がどのような場所で行われていたのか、どのような植物が近くにあったのかを分析して、各段階で比較してゆくことで、より詳細な縄文人とイネの出会いが明らかになってゆくことでしょう。ただし、いちからイネが食糧として優位になること言ったことは、今後考えてゆかねばいけません。考古学的に出土した食料を定量的に評価することはなかなかむつかしいのですが、今後、そうしたことをテーマに調査を続けて、縄文人の植物利用だけでなく、弥生人の植物利用についても議論が出来たらと考えています。

『縄文人の植物利用』 (工藤雄一郎:国立歴史民俗博物館編 ・那須浩郎・新泉社