石棒

石棒祭祀は果たしてどのような性格を有していたと考えるべきだろうか。その点を解明するためには、先に石棒祭祀の変遷をあとづけたさい、みたように、屋内と屋外という相異なる出土の在り方をここで問題とする必要がある。すなわち、なにゆえに屋内において石棒祭祀が執り行われたのか、屋外の石棒祭祀と異なる点は何なのかということである。これまで、石棒の屋内出土を取り上げて、その住居を特殊視し、司祭者の家屋あるいは共同家屋とする傾向が強かったが、そうした考え方では、屋内石棒祭祀の本質はとらえられないのであり、正しくは、そこに居住した成員間に行われた、優れて個別的な、いわば竪穴にかかわる祭祀としてとらえ、集落成員全体に関わる祭祀とは区別しなければならないと考えている。屋内石棒祭祀の性格をそうとらえた場合、対照的に屋外石棒祭祀は、その執り行われた空間的な位置や配石遺構との結びつきの強さに端的なごとく、個別性は持たず、集落共同体成員全体に関わる性格を有していたものと理解されよう。この屋内・屋外という祭祀の性格上の相違は、先に見た変遷の在り方から言うと、中期後半期における屋内石棒祭祀主体の在り方から、中期末・後期初頭期をピークとして、徐々に屋外石棒祭祀主体へと移っていった過程として理解されるが、その性格上は、個別竪穴成員祭祀→集団共同体成員祭祀へと移っていった事を意味しているのである。この性格上の変化は、実は様々な現象から指摘が可能であり、中期末・後期初頭期を一つの画期として、個別化の方向性の崩壊=集落共同体成員間の紐帯の再編・強化として評価されねばならないと理解している。いうまでもなく、こうした社会変化の背後には、それを促した自然環境の変化と当時の生産力の一定の限界がその要因として考えられるが、その点については、今後に任された点も多く、ここでの言及は避けておきたい。

縄文文化の研究 9 縄文人の精神文化 3 第二の道具 石棒 山本暉久