常平蔵

常平は、穀価を常に平準にするの意で、穀価の安い時に官がより高い価格でこれを買い上げ、穀価の高い時により安い価格でこれを売り、穀価を平均にし、民衆を救済するという経済政策の一種である。常平倉は、中国では漢の宣帝の時に創始されたといわれ、歴代の王朝もこれを継承した。日本における天平宝字三年の常平倉設置も、恵美押勝の他の政策と同様、直接的には唐の政策を模倣したものであろう。天平宝字三年設置の常平倉は、調の運脚の都からの帰路の困苦を救済するため、諸国公廨稲を割いて創設し、京に置かれた左右平準署がこれを管理し、利潤を運脚の帰路の粮食にあてるとともに、京中の穀価の調整にも役立てようとしたものである。この制度は、宝亀二年九月、左右平準署が廃止されるまで継続したかと考えられるが、穀価の調整、貧民救済のための同種の政策は、その後も行われた。宝亀四年三月には、穀価高騰のため、諸国の正税穀を低廉な時の価で貧民に売り、秋の収穫時に収穫物のうちから穎稲で納めさせる政策がとられた(宝亀四年三月己丑条)。延暦八年四月、美濃・尾張・三河三国に設定された救急稲も、これと同様のものである(延暦八年四月辛酉条)。また九世紀には、平安京における米価調節のための機関として、左右京の常平所(常平司)が置かれ(三代実録上官九年四月二十二日条、同元慶二年正月二十七日条)、穀倉院などとともに、十世紀まで活動した。

(続紀・天平宝字三年五月九日・新日本古典文学大系)