縄文時代後・晩期の文化の墓制

  • 墓域を定め、集団墓を作る
  • 墓域は複数の埋葬区(埋葬小群)からなっている
  • 墓域には一定の頭位規制が認められる
  • 頭位方向規制と抜歯にはある対応関係が認められる
  • 頭位方向規制及び抜歯は死者の生前における社会の中でのあり方を反映している蓋然性が強い
  • 後期から晩期にかけて種々の規制はより強くなる
  • 抜歯形式は東日本と西日本で差が見られる

このような墓制における類似(中国新石器文化の埋葬)とともに、その形式が確立し、頻度が増加する縄文時代中期末から後期中頃までの抜歯形式は春成秀爾によれば、上顎の側切歯1~2本を抜去するものである(1980a:39)。片側の側切歯の例が多いのは、大シ文口文化の例と異なるが、両者とも上顎の側切歯ということでは共通している。

先に見た墓制の例における類似及びこうした抜歯における共通性を考え合わせると、縄文時代後期の墓制と大シ文口(山東)竜山文化の墓制とが、全く無関係であったと言い切れるであろうか。環境あるいは生業における差を超越した影響を考えてもよいのではないだろうか。もちろん、その背景には、縄文文化側にそれを受け入れる必然性が内在していたものと思われる。また副葬品、とくに日常必要品でない副葬品が増加するのもこうした関係と一連の者であった可能性も付け加えることが出来よう。あるいは生業おも含めて、新しい生活形態が進出してきたとも考えることができるかもしれない。

当然、人々は生活様式を変更せざるを得なくなった。生活様式の変化に応じて、生活領域も変化せざるを得ない。新しい気候に対応した新しいバランスのとれた生活形態を作り出さざるを得なかった。そうしたことによって、それぞれの地域に新しい生活領域が必要になる。一度、生活領域が定まるとより定住性の増しているこの後期以後にあったは、生活領域は固定化、安定化する。

この生活領域をまもる必要も生じ、領域はますます明確な形で固定化、安定化し、排他的に占有されるようになる。

自らの領域を安定化、固定化して守るということはになれば、その領域を所有もしくは占有している人々の紐帯は強化されることが考えられる。こうしたなかから身内意識が生じ、それが次第に強い物になっていったと推測される。

こうした身内意識の確立・高揚の前提になるのは確立した、固定化・安定化したそれぞれの集団の領域であったものと推測される。集団墓が成立するためには、それぞれの環境に適応した安定した生業体制の確立が必要である。定住もしくは一定の季節に必ず見られる半定住的な生活が安定した生業体制の確立が必要である。定住もしくは一定の季節に必ず見られる半定住的生活が安定した生業体制の上に営まれていなければならない。こうした体制の維持には必然的に身内意識の確立・強化が必要となる。そうした身内意識の象徴として、具体的表現が現れたものと思われる。その具体的表現として、生前のそれと一目で判る抜歯風習、死後の埋葬に関わる墓制が当初はおそらく大陸からのヒントという形で伝わり、その後それは大きい流れの中では、ある斉一性を保ちながらも、地域地域で独自に変形され、地域地域に特有の墓制・抜歯風習に発展していったものと考えることが可能であろう。

こうした流れの中に、とくに身内意識の具体的な表現の中に東日本にみられる環状列石を代表例とする配石(駒井1973)あるいは北海道にみられる環状土クサカンムリニ離を一図けることが可能である。両者ともに身内を葬った墓域を明確に他から区別するものとする意味を持っていたとすることができよう。また従来抜歯風習に関してはカヤの外に置かれていた感があった北海道にも抜歯風習の発見が伝えられている。(百々・山口1981、百981)。これらのほとんどは縄文時代後期後半から晩期にかけてのものであり、祖の抜歯されているのは片側の上顎切歯に限られている。また道東地域においても縄文時代晩期後半に位置するものと考えられる抜歯人骨が発見されている(平本1980)。これも片側の上顎側の切歯の抜去の事である。こうした例を見ると北海道にも道東地域を含め、抜歯をする風習がかなり広まっていたと考え事が出来よう。またそれは古性をとどめた可能性のあるものであり、東北地方とは全く別の推移をたどったものとかんがえることができる。

土器・住居址・墓制に到るまで縄文時代後期中葉には東北地方と極めて類似した内容が見られた北海道にあっては、後期後葉になると、それぞれが独自の展開をするようになる。その好例が環状土クサカンムリニ離であろう。

土偶が見られないなどの特徴を持つ強盗地域の特徴をも考慮に入れつつ、第三の地帯としての視点を持ちつつ追及してゆく必要があるように思われる。春成秀爾の提唱している婚後居住規定は極めて魅力的な仮説である。縄文時代中~後期の選択居住から、縄文時代晩期の東日本の夫方居住婚、西日本の妻方居住婚の優勢である地域、その中間地帯の選択居住というものに移行するものとするものである

(春成1979,1980a)

縄文時代後・晩期の生業は東日本と西日本で差があったであろうことは認められつつあり、西日本がより植物に頼る度合いが強かったものと考えられている。

(治成969、西田1980)

(縄文文化の研究9 縄文人の精神文化 墓制成立の背景 藤本強)