貝輪

少なくとも会話に装身具として用いられたもののあることは、おそらく間違いのない所である。貝輪を前膊部に着装したままの人骨が、このことを具体的に示唆してくれる。しかし、貝輪装着の人骨は50例ほどである。貝塚で発見される貝輪の多くは、貝層中に無造作に捨てられた状態を示している。又腕にはめる孔(内径)の小さすぎるものや、貝輪そのもの(外径)が小さなもの、あるいは、孔をあけたままで、全く研磨されていない粗略な貝輪の多いことも注意される。これらは完成品ではなく、製作途中の未製品、または失敗作品とみるべきであろうか。中には海の波の浸食を受けて自然に穴のあいた貝や、人が食べるために割った貝、廃棄する時の衝撃によって偶然穴のあいた貝も含まれているかもしれない。

貝輪は早期から出土しているが、その形態は晩期に至るまで、ほとんど変化することなく存在し、弥生時代には巻貝製貝輪として、古墳時代には鍬形石や車輪石の石釧や銅釧などとして、その伝統は受け継がれている。

早期の貝種 サルボウ、アカガイ、ベンケイガイの3種で、これらは晩期に至るまで普遍的に貝輪の材料となっている。この3種類に共通していることは、殻が比較的厚く、丸みがあることで、とくにベンケイガイは、研磨した時に放射肋や成長線が美しい。
中期は貝種に大きな変化はないが、イタボガキ製貝輪が爆発的に流行し、多くの貝塚から出土する。

後期は一遺跡内から出土する貝輪の数が、中期に比べて多くなる。貝種は、やはり、サルボウ、アカガイ、ベンケイガイ貝が主流ではあるが、前期や中期に比べ種類が豊富になる。たとえば、カガミガイ、サトウガイ、タマキガイ、マルサルボウ、ヨメガカサ、ユキノカサなどである。中期にあれほど流行したイタボガキは激減する。オオツタノハ製貝輪の出土が、特に関東地方の貝塚で多くなり、1か所から数個まとまって出土する例もある。

鹿児島県奄美大島の土浜ヤーヤ洞窟からスイショウガイ科の大形の貝を縦切にして研磨を加えた貝輪が出土した。南海産大型巻貝の縦切り貝輪は弥生時代前期に出現するのが定説で、それが弥生式土器を伴出しない縄文時代の遺跡から出土したのである。南海産の貝の移入と共に考えるべき問題であろう。

一見単純に見える貝輪製作にも相当の労力と時間及び熟練が要求されたものと思われる。さらに装飾的な細工を施した貝輪もある。

ある遺跡だは、それが立地する近傍からは、決して入手できないはずの貝で作られた貝輪の出土する例がある。北海道積丹半島の茶津洞窟遺跡群においては、本州以南の海域でしか採ることの出来ないベンケイガイ製貝輪が11点出土した。

貝輪の用途の中で、最も明確なのは、人骨の前膊部に着装されたまま出土する貝製腕輪である。一般的に、貝輪が腕輪と考えられているのは、このためであろう。使用されている貝は、サルボウ、アカガイ、ベンケイガイ、タマキガイ、イタボガキなど、数種類に限られている。

装身具着装人骨の性別による特徴は、腰飾りは男性が多く着装し、耳栓は男女とも着装し、性差は判然としない。それに比べて、貝輪を着装しているのは、成人女性が圧倒的に多い。男性例は、長崎県志多留貝塚、岡山県津雲貝塚、愛知県𠮷胡貝塚、静岡県蜆塚貝塚、宮城県里浜貝塚などの数例に過ぎない。しかも、この5例のうち3例は老年で、同一遺構内ではほかに貝輪をはめた人骨は出土していない。3例の人々は、首長的地位にあったか、又は呪術者のような特別な能力を持った人間とか、いずれにせよ並みのものではなかったかもしれない。もしそうだとすれば、貝輪は、何らかの社会的意味象徴する機能を持つものと言えよう。

貝輪着装が、縄文時代において、縄文人全員に行き渡るような一般的、普遍的風習としては存在しなかったと判断せざるを得ないのではなかろうか。もし、貝輪の着脱が自在であったとすれば、完形の貝輪が、人骨とは離れて単独で、もっと多数出土してもよいはずである。

縄文文化の研究 9 縄文人の精神文化 3 第二の道具 貝輪  片岡由美