木の実

日本列島は、人為の影響がなければ基本的に森林におおわれています。現在の植生を見ると、中部地方の山岳部から北海道南部にかけてはブナやミズナラを主体として落葉広葉樹林が広がっており、関東地方や中部地方の沿岸部から九州にかけては,カシやシイ、クスノキの仲間などを主体にした常緑広葉樹林が広がっています。縄文時代の森林も、前期になるとほぼ現在と同様の様相を示していました。では、縄文人はこうした森林の中で、どのように木材や果実をはじめとする森林資源を活用していたのでしょうか。私が研究に係わるようになった1980年前後には、縄文時代は土器の発明と竪穴住居の出現で始まり、稲作や金属器の導入で終わる時代で、人々は基本的に狩猟と採取を手段として生きていたと考えられていました。今でも動物資源に関しては、ほぼこの概念が当てはまると考えますが、植物については1980年代以降の研究によって、単なる採集だけでは収まらず、資源の管理といった形で、ちょっと密接にかかわっていたことがわかってきました。縄文時代の生活感の転換がもたらされたのは、1980年以降の研究によって、単なる採集だけでは収まらず、資源の管理といった形で、もっと密接にかかわっていたことがわかってきました。縄文時代の生活感の転換がもたらされたのは、1980年頃から川沿いの低地で遺跡の発掘が行われるようになり、低地遺跡からです遺物が盛んに研究されたためです。低地では谷が発見され、谷沿いには当時の人が水をためて利用した水場遺構などがしばしば見つかります。これらの遺構に伴う遺物をきちんと解析することから、縄文時の森との関わりが見えてきたのです。最初に、1980年以降に関東平野で発掘された縄文時代後・晩期の三か所の遺跡でどういう植物利用が見えてきたかを紹介します。1980年前後に発掘された埼玉県とさいたま市の寿能泥炭層遺跡と、1980年代前半に発掘された川口市の赤山陣屋後遺跡そして80年代後半から90年台初頭にかけて発掘された栃木県の寺町東遺跡の成果です。寿能泥炭層遺跡では、水場遺構は出ていませんが、木道や杭群、抗列が大宮台地を開析する芝川に沿った低地に広く認められました。赤山陣屋後遺跡では「トチの実加工工場」と称されている遺構が出ています。低地の遺構は普通水場遺構とよばれていますが、個の遺構のすぐ横には立派なトチの塚が検出されたことから、この遺構はトチの実加工場跡とよばれるようになりました。寺野東遺跡では水場遺構が縄文時代の後期から晩期にかけて20基ほど延々と作られていたことがわかっています。

1980年代の初頭以降、鈴木三男先生や私をはじめとする研究者が、これらの遺構の木材にどういう樹種が使われているかを調べ始めたのです。この三か所の使われた木材の樹種の組成を見てみると。クリが、少ない所でも50%ぐらいを占めていることがわかりました。関東平野は現在、人の影響が全くないとすると常緑広葉樹林が分布している地域です。また近年まで関東平野で薪炭林として維持されてきた雑木林はナラやクヌギを主体としていて、それにクリが伴うのが普通です。こうした点で、この三遺跡で利用されているクリの比率は現在の森林と比べて高すぎます。現在、日本列島にはこんなにクリが優占する林と言うのは存在しません。雑木林にはクリは必ず混生していますが、ナラやクヌギと比べて少なく、これだけの量のクリを集めるにはかなりの労力が必要です。したがって、当初は樹種の組成から、縄文人がクリの多い林を集落の周辺に育てていたと考えたわけです。クリ林の育成と縄文人との関係がもう少し明瞭に見えてきたのは青森県の三内丸山遺跡です。三内丸山遺跡は台地上に盛土や建物群、住居域、墓域がある大規模な集落遺跡で、1990年代に様々な調査が行われました。この大地の真ん中にある南の谷や北の谷で吉川昌伸さんたちが花粉分析を行いました。吉川さんたちが調べた三内丸山遺跡での花粉の変動を、八甲田山の田代平での花粉の変動と比較すると、三内丸山遺跡での花粉の変動の特徴が見えてきます。三内丸山遺跡では、縄文時代前期中葉頃に台地上に人が集落を営み始めて、縄文時代中期の終わり頃にはその集落を断絶してしまいます。花粉の変遷を見ると、縄文人が三内丸山遺跡に住み着いたとたんにクリの花粉がものすごく増えて、それ以前のナラ林からクリ林に変わっています。集落が断絶するとすぐクリ花粉が減少し、ナラとトチノキの林に置き換わって今増す。実際クリの花粉は、多い時は80%ぐらいを占めており、三内丸山遺跡の台地の上にはほぼクリしか生えていない、かなりの密度の高いクリの純林があったと考えられています。八甲田山の田代平は少し標高が高い所ですので単純に比較できないのですが、三内丸山遺跡に集落が営まれていた時期には、全く花粉の組成が変動しておらず、ブナやナラの森林が存続していたことがわかります。すなわち、人為の影響のない所では植生は変化しておらず、縄文人が集落を構えたところの周辺で植生が大きく変動していたのです。

1990年代には、こうした事実から、東日本に住んでいた縄文時代の人々は、集落をつくると、その周辺にまずクリが多い林を作り出し、それを維持・管理して、活用していたことが明らかとなりました。しかし、そのクリ林を常温人がそういう風に維持管理していたかまでは見えませんでした。では当時、どのように管理しのかと言うと、現在の森林、とくに森林生態学の知識をもとに、クリ林の維持の仕方を考えたわけです。写真は狭山丘陵にある雑木林ですが、こうした「薪炭林の維持」というのをモデルとして、当時は縄文人のしんりんしげんのりようをそうていしたのです。薪炭林は20年から30年ごとに伐採して木材をまきに使ったり。炭にして使ったりします。樹木が育つ間には落ち葉搔きをしたり下草を刈ったりして、肥料あるいは家畜の飼料として使っていました。写真の左側に一つの根株から三本出ている木がありますが、こういう萌芽再生という形で薪炭林は維持されてきました。木を伐採すると、地表には根株が遺ります。根株が残っていますと根はしっかりしていますし、根株には栄養分が蓄えられていますので、沢山萌芽が出てきます。それをだいたい15年から20維持して大きく育て、その間に下草刈りや落ち葉搔きなどを行い、木々が適当な大きさに育ったらすべて伐採したのです。1960年代に行ったエネルギー革命までは、こういう形で薪炭林を維持して、燃料として使っていました。萌芽を再生して林を再生すると、新たに植林するよりも、薪炭林は圧倒的に早く回転できるわけです。薪炭林の管理ではこういう回転を20年から30年ごとにやっていました。縄文人とクリ林との結びつきが見いだされた当初は、縄文人もこうして森林を管理していたかなと考えていました。しかし、下宅部遺跡の発掘結果によって 、縄文人の森林管理の実態は、こうした薪炭林の管理とは全く異なることが明らかになりました。では、下宅部遺跡では何が見えてきたのでしょうか。下宅部遺跡は1994年から2002年まで調査された遺跡で、北側に狭山丘陵の末端に当たる丘陵地があって、南側に河道部があります。縄文時代中期の段階では、まだクルミ塚とごく小さな水場くらいの遺跡しかありません。一番さかんにこの川道部が使われていた縄文時代後期の段階になると、第七号水場遺跡をはじめとして何基もの水場遺構や、杭列が作られました。この川道は一旦、晩期初頭あたりで埋まってしまい、その後、晩期の中葉にかけてその上に小さな小さな流路が出来て、知れに沿って小さな遺構が作られました。では、下宅部遺跡で当時の人々はどのように木を使っていたのでしょうか。まず後期前葉段階には、第七号水場遺構と言う一番大きな水場遺構が作られており、これにはクリが50%くらい使われています。先に提示した関東地方の縄文時代後・晩期の三つの遺跡の例と、比率的には変わりません。ところが、晩期の頃に作られた台10号水場遺構のように、小さな遺構を作る時には、クリの比率が大幅に減り、いずれも25%以下で、クリに加えてウルシやカエデ属などが使われています。たとえば抗列KA1-5と名付けられた遺構は、ウルシの杭が多数見つかった縄文時代後期の杭列で、そのうち500点ほどの杭の樹種を同定しました。その結果クリが一番多くてほぼ100点と20%前後を占めていますが、そのほかにウルシ68点を初めとして、それ以外の様様な樹種も沢山使われています。すなわち、この杭列ではクリよりも他の樹種をはるかに多く用いています。すなわち遺構の規模や、遺構をどのくらいの期間使うかのことによって、クチを使う時と使わない時と言うのがあるのではないかということが、下宅部遺跡における樹種の選定から見えてきました。クリの木材は腐りにくく、比較的割りやすくて加工しやすいため、木材としても重要な資源です。一方、果実も重要な資源ですので、住居や水場遺構といった構築物を作るにあたって、やはりなんでもかんでもクリを使うのではなく、それなりの目的によって縄文人は樹種を使い分けていたのではないか、と言う事がまず見えてきました。では、そのクリ林はどういう林だったのでしょうか。下宅部遺跡で出土した遺構に使われていた木材の年輪数と直系の面から検討してみます。まず年輪数でみると、平均的には大体7~10年程度の木が多いのですが、全体的に非常に幅が大きく、30年に達するものもあることがわかります。先程述べた近代の薪炭林の例だと25年から30年で伐採されていましたが、縄文人が例えば10年サイクルで伐ったとしても、これはどピークの不明瞭な年齢構成にはならないわけです。次に直径を見てみますと。平均6~8センチと比較的小さい木が多いのですが、変動幅がかなり大きく、薪炭林をベースにわれわれが考えていたモデルというのは、縄文時代には全く当てはまらないことがわかります。現代人では考えられないような、遥かに柔軟な森林管理をしていたのではないかと言う事が、こうした年輪数と直系の分布から見えてきます。実証は出来ませんが、縄文人は恐らく少しづつクリが多い林を集落の周辺に育てていき、その中でクリを一斉に切るのではなく適宜必要な大きさの木を抜き伐って利用するというかたちで森林を利用してたのではのないでしょうか。つぎに、寺町東遺跡と、赤山陣屋後遺跡、寿能泥炭層遺跡の周辺の森林の様相を見てみると、ここでも同じような傾向が見えてきます。クリの直系は平均すると10センチ前後で揃ってしまうのですが、やはり三つの遺跡でも変異の幅が大きいことがわかります。特に寺町東遺跡では、平均すると10センチくらいですが、普通に使う大きいものは40センチくらいに達するようなクリも含まれています。縄文人はやはり「植えて定期的に伐る」という行為はせず、集落の周辺の二次林の中からクリが多い林をうまく仕立てて、それを目的におおじて適宜利用していたのでしょう。こうしたやり方が縄文人のクリ林利用の仕方だったではないかと現在考えています。このように彼らが使っているのは基本的に直径10センチ前後の木材です。では、この10センチ前後にはどういう意味があるのでしょうか。それは在り面白い実験から見えてきました。その実験とは、10年ほど前に当時の東京都立大学(現首都大学東京)のグループが行った、縄文時代の磨製石斧を復元して、実際に木を伐採してみようというきっけんです。復元したのは、鳥浜貝塚の膝柄の石斧と滋賀里遺跡の直枝の石斧で、実際に我々が石斧を振るって、何回ぐらい振れば木が伐れるか、伐るのにどれだけ時間がかかるのか樹種ガ違うとどれくらいの時間がかかるのか樹種が違うと伐りやすさは違うのか、と言うことを調べました。だったら水平に面的に伐れば良いのですが、石斧で木を伐る場合には、伐る部分の上下から鉛筆を削るような形で立体的に木をくり抜いていかないと木は切れません。伐採実験の結果はグラフのようになりました。赤で記したクリと、それ以外の色で記したクリ以外の木の傾向を比べてみてください。横軸が木の大きさ、盾が石斧を振った回数を示していますが、赤で示したクリが他の樹種と比べて若干右に寄っていることが見て取れます。これが何を示しているかと言うと、石斧を500回振った時に、クリ以外の樹種では切れるのは大体直径10センチ程度ですが、クリは直径18センチくらいまでのものまで、平均すると伐れると言う事をしめしています。すなわちクリは石斧で伐るのに適していて、石斧による伐採と言う当時の技術にあった樹種だったので選択されたという可能性があります。もう一つ、10センチと言う直径には意味があります。すなわち直径10センチぐらいまでのクリは、だいたい10分以内で伐採できます。ところが先程述べたように、石斧で伐採する場合には、神酒を立体的にくり抜いて行く必要あり、径が倍になると、単に断面積に比例して四倍の時間で伐れるというわけにはいかず、ほぼ八倍の時間がかかることになってしまします。ですから、10センチ前後の木を伐ると云うのは、彼らの必要にふさわしい適当な大きさであって、かつ時間的にも効率よく伐れる気を多数選択した結果として、10センチという値が出ているのではないかと考えています。さらに、この伐採実験では、実際に使った石斧の先端がどのくらい傷むかも、顕微鏡で調べています。その結果、クリを伐った石斧の刃は他の木を伐ったものに比べて傷みにくいという傾向も出ています。このようにクリは当時の伐採技術にふさわしいという点からも。選択されて利用されていたのであると言う事が見えてきました。

下宅部遺跡ではクリやウルシの森林資源を管理して、それを盛んに利用していましたが、集落周辺における森林資源の利用が総体としてどのように捉えられていたかについて、、近傍のお伊勢矢㋮偉関と比較しながら検討してみます。お伊勢山遺跡は狭山丘陵の北側にあり、下宅部遺跡とほぼ同時期の遺跡です。ここではかなりの面積を掘ったのですが、人為的な利用の痕跡はほとんど認められませんでした。お伊勢山遺跡と下宅部遺跡から出土した木材の組成を比較しました。緑で示したのは人間の利用が認められない自然に堆積した木材の量です。お伊勢山遺跡は人間が住んでいた痕跡がないため、人間が使っていない木材しか出ていません。ここでどういう樹種が出ているかを見てみると、二次林にちかい樹木と自然林に多い樹木が出ています。では、お伊勢山遺跡と比べると、下宅部遺跡における縄文人の樹種選択とと利用がどのように見えるでしょうか。まず、ウルシは、中国原産の木で、日本では人が生育場所の管理を行わないと在来の木に負けて生育できない木ですので、明かに人間が栽培したものの存在を示しています。クリはこれまでこれまで見てきたように、縄文人が資源を維持・管理して活用していた木です。一方、二次林と言うのは薪炭材や、身近な素材などを取りにしょっちゅう縄文人が入っていた、現代の里山的な林で、そういう二次林の樹種も盛んに使っています。そして自然林の樹種は、二次林の樹種に比べて人間が使っていた量はやや少なく、やはり自然林は、丸木弓としてのイヌガヤや、飾り弓としてのニシキギ属、石斧柄としてのコナラ節、容器としてのトチノキのように、特別の用途にふさわしいもくざいが欲しい時に入って行って利用したものでないかと思います。

二次林と自然林と言うのは、管理したクリ林やウルシ林の外にある野生植物の資源利用を示していると思います。又面白いことに、一番右にあるモミ属は、自然林にはたくさん生えているのですけれども、縄文の人たちは全く使っていません、おそらく、モミ属は彼らの利用技術や用途にそぐわなかったのでしょう。このように、縄文人はクリ林やウルシ林と言った身近な森林資源を管理しながら使っていましたが、それ以外の資源もさまざまなレベルで利用していたことが見えてきました。では、こうした森林資源を縄文人はどういう空間の中に配置して管理していたのでしょうあ・居住域があると、彼らはまずクリの多い林を作って利用したのでしょう。そしてその周辺にはウルシの林を育てて漆液を採取して、漆器を製作していました。長い間利用する構築物、即ち、住居や大型の水場遺構などを作る際にはクリ林の資源をかなり利用したのでしょう。同時に、水湿につよいウルシの木材もクリについで、低地に構築物を作る際には利用していました。一方、短期間しか利用しない構築物を作る際には、クリ林の資源は温存して、クリは構造部材のみに用い、それ以外の部分にはクリ林の周辺部や二次林に生育した雑木類を作っていました。薪炭材も、クリ林とその周辺にあった二次林に生育した雑木類を使っていました。薪炭材も、クリ林とその周辺にあった二次林でもっぱら収集していたのでしょう、そして、特定の木製品や構築物にふさわしい材質を持つ木材が欲しい場合には、より遠方の自然林にまで行って、その素材を採ってきて使ていたと考えています。

以上みてきたように縄文人は決して単なる狩猟採集民ではなく、少なくとも植物に関しては集落周辺において明瞭に資源管理を行って、それを柔軟に活用していたのです。(能城修一)

『縄文人の植物利用』 (工藤雄一郎:国立歴史民俗博物館編 新泉社)