2022年3月

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医生の履修すべき経書

太素 令文に見えない。中国古代医学の古典、黄帝内経を唐の楊上善が改編した黄帝内経太素三十巻のこと。日本国見在書目録に「内経大素三十<楊上(善)撰とある。全三十巻のうち、二十三巻分が京都仁和寺に伝来する。 甲乙 医疾令3義解に十二巻、日本国見在書目録に「黄帝甲乙経十二(巻)<玄晏先生撰>」とある。西晋の皇甫謐(号玄晏先生)の撰した鍼灸の書。 脈経 義解に二巻とある。西晋の王叔和の撰。漢代以来の […]

縄文時代には単なる狩猟・漁労・採集の社会ではなく、高度な植物の知識をもった縄文人が積極的に植物を利用し、管理や栽培まで行っていました。それでは、縄文人は何時頃イネや雑穀と出会い、どのように水田稲作を始めたのでしょうか。 中国の長江中流域から下流域がイネの起源地であることが近年の考古学証拠から明らかにされています。この地域は、現在の野生イネの分布北限ですが当時はより北方の淮河流域まで野生イネが分布し […]

平準署

中国で物価安定のため置かれた官司で、漢代に、大司農の属官として平準令丞があった。唐では、大府寺に平準署があり、令(従七品下)二人、丞(従八品下)四人以下の官人が所属した。旧唐書職官志には「平準令、掌供官市易之事。丞、為之弐。凡百官不任用之物、即以時出貨。其没官物、亦如之。」とある。本条で設置されたわが国の左右平準署は、諸国常平倉の管理運営を統括するもので、唐の平準署とはややその性格を異にする。左右 […]

藤原清河

大船に真楫繁貫きこの吾子を韓国へ遣る斉へ神たち 光明皇后 万葉集 19-4240 オオフネニ マカジシジヌキ コノアコヲ カラクニヘヤル イハヘカミタチ (大船に左右の楫を一面に通して、この子を唐へ遣わす。祝福を与えよ、神々たちよ。) 甥の清河が遣唐使として中国へ渡るときの光明皇后の歌です遣唐使を子と呼び、神々に祝福を与えよと命令しています 一族の期待を一身に背負って唐へ渡った清河 藤原清河は 不 […]

堀江・池堤の築造

仁徳天皇十一年夏四月 「今し朕、是の国を視れば、郊・沢ひろく遠く、田・圃少なく乏し。且河水横にながれて、かははしりとくあらず。いささかになが雨に逢へば、海潮逆上りて、むら里船に乗り、道路亦ひじとなる。故、群臣共に視て、横なる源をさくりて海に通せ、逆る流を塞ぎて田といへを全くせよ」 十一年冬十一月 都の北のの原を掘り、、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水をなずけて堀江と曰ふ。又北の河のこみを防 […]

翡翠大珠

硬玉生産の出現については、小滝・橋立硬玉原産地をひかえた西頸城地方所在の攻玉遺跡は、それが縄文前期末~中期初頭にはじまることを示唆してはいる。そして、全国の他の地方を見ると硬玉製大珠の出土例は中期前葉に遡りうるものも見受けられる。また、硬玉製大珠は勾玉、丸玉、垂飾品品などのあらゆる硬玉製品の中でも初現的な在り方を示しているのである。注目すべきことは、前期終末~中期初頭土器群が集中的に出土する地点よ […]

悲田院

悲田は仏教用語。三福田(恩田・敬田・悲田)の一。貧窮者に施しをなすすことによって福果を得るをいう。中国では唐代、長安に悲田養病坊が置かれた。日本では扶桑略記に養老七年興福寺内に施薬院・悲田院を建て、封戸・水田・稲を施入したとの所伝がある。光明子による悲田院の設置は、皇后宮職に施薬院が置かれた天平に年のことであろう(続紀天平二年五月辛未条)。その後平安京にも東西の悲田院が置かれ、病者・貧窮者を収容し […]

配石

配石は縄文時代とその社会の最も顕著で宗教的ともいえる記念物として、時代の変遷も反映しているものではないかと考えている。それは配石が孤立してあるのではなく、集落の構成や墓制と切り離せない関係を有することや、加えてその内部にいくつかの場を併せ持っており、そこで非日常的(あるいは日常的)な祭祀が行われたことも確かなことが上げられる。そのことから、配石の要素や構造、形成過程や、祭祀の内容を遺構から再現でき […]

鑑真と医薬学

この時代、僧侶が薬に関する詳しい知識を持っていたのはごく一般的なことであり、東征伝に拠れば、天宝二年の渡航のさい、鑑真は経論などとともに、多くの香薬を携行しているので、この部分の記述は事実を反映したものと考えられる。また、鑑真が一般の僧侶以上に薬や医学についての知識を有していたことは、日本国見在書目録に「鍳上人秘方一」があり、十世紀初頭の本草和名(深根輔仁撰)にこれが「鑑真方」として引用されている […]

大和上鑒真

この時代、薬に関する詳しい知識を持っていたのはごく一般的なことであり、東征伝によれば、天宝二年の渡航の際、鑑真は経論などとともに、多くの香薬を携行しているので、この部分の記述は事実を反映したものと考えられる。また、鑑真が一般の僧侶以上に薬や医学についての知識を有していたことは、日本国見在書目録に「鑑上人秘方一」があり、十世紀初頭の本草和名(深根輔仁撰)にこれが「鑑真方」として引用されていることから […]

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