2022年3月2日

4/6ページ

貝輪

少なくとも会話に装身具として用いられたもののあることは、おそらく間違いのない所である。貝輪を前膊部に着装したままの人骨が、このことを具体的に示唆してくれる。しかし、貝輪装着の人骨は50例ほどである。貝塚で発見される貝輪の多くは、貝層中に無造作に捨てられた状態を示している。又腕にはめる孔(内径)の小さすぎるものや、貝輪そのもの(外径)が小さなもの、あるいは、孔をあけたままで、全く研磨されていない粗略 […]

かづのまつのを(葛野の松尾)

山城国葛野郡(京都市右京区)の松尾神社。松尾神社の鳴鏑を依り代とする神は、下賀茂神社の祭神と同様雷神で、雷神は農耕に関係の深い水神として信仰された。大年神の神裔に、農耕や穀物、竈などに関する神々が現れるのは当然といえよう。羽山戸神から若室葛根神までの系譜は、さ少女が田植えをし、水を注ぎ、真夏の日が照りつけ、秋には稲が成長して実り、収穫祭としての新嘗祭を行うための屋舎を新築するまでを語った、系図型の […]

縄文の植物

稲 縄文時代には単なる狩猟・漁労・採集の社会ではなく、高度な植物の知識をもった縄文人が積極的に植物を利用し、管理や栽培まで行っていました。それでは、縄文人は何時頃イネや雑穀と出会い、どのように水田稲作を始めたのでしょうか。 中国の長江中流域から下流域がイネの起源地であることが近年の考古学証拠から明らかにされています。この地域は、現在の野生イネの分布北限ですが当時はより北方の淮河流域まで野生イネが分 […]

縄文時代後・晩期の文化の墓制

墓域を定め、集団墓を作る 墓域は複数の埋葬区(埋葬小群)からなっている 墓域には一定の頭位規制が認められる 頭位方向規制と抜歯にはある対応関係が認められる 頭位方向規制及び抜歯は死者の生前における社会の中でのあり方を反映している蓋然性が強い 後期から晩期にかけて種々の規制はより強くなる 抜歯形式は東日本と西日本で差が見られる このような墓制における類似(中国新石器文化の埋葬)とともに、その形式が確 […]

縄文

有孔鍔付土器とは、口縁部に鍔状の突帯をめぐらし、これに沿って円孔を施す特徴を持つ土器である。口縁部の形態から、酒造用具ないし太鼓のような打楽器と考える意見もあるが、定見はまだない。釣手誤記は口縁部に橋状の釣手を有するものを指す。内面に煤が付着していることが多く灯火具とする説が有力である。双方ともに日用品ではなく、儀礼などにもちいられた土器である。このような土器は顔面や人形、蛇体などの装飾とかかわり […]

常平蔵

常平は、穀価を常に平準にするの意で、穀価の安い時に官がより高い価格でこれを買い上げ、穀価の高い時により安い価格でこれを売り、穀価を平均にし、民衆を救済するという経済政策の一種である。常平倉は、中国では漢の宣帝の時に創始されたといわれ、歴代の王朝もこれを継承した。日本における天平宝字三年の常平倉設置も、恵美押勝の他の政策と同様、直接的には唐の政策を模倣したものであろう。天平宝字三年設置の常平倉は、調 […]

神武天皇

神武天皇=神日本磐余彦天皇 諱=彦火火出見(ヒコホホデミ) 神武天皇の皇兄にあたるミケヌノ命は、穀神であって、浪を踏んで常世国に渡ったとされている。神武天皇もまた穀神の性格を有したことは、またの名をワカミケヌノ命ともトヨミケヌノ命ともいった、とあることによって知られる。とすれば、神武天皇がわざわざ南方に迂回して、紀伊国の南方に向かった、というのは、海のかなたの常世国から来臨する穀神が、熊野に示現す […]

石冠・土冠

「石冠」の名称が何時の頃から使用されたかは定かではないが、明治20年代に神田淡厓によって呼称されている。飛騨で古来より呼称されていたことに由来するらしい。 分布状況を概観すると、中部山岳地方を中心とした地域に集中している。とりわけ岐阜県には出土点数の約五分の一が集中し、富山湾にそそぐ神通川・庄川流域は濃密である。出土点数の80%は愛知・長野・岐阜・石川・富山・新潟の各県に集中しており、中部山岳地方 […]

石棒

石棒祭祀は果たしてどのような性格を有していたと考えるべきだろうか。その点を解明するためには、先に石棒祭祀の変遷をあとづけたさい、みたように、屋内と屋外という相異なる出土の在り方をここで問題とする必要がある。すなわち、なにゆえに屋内において石棒祭祀が執り行われたのか、屋外の石棒祭祀と異なる点は何なのかということである。これまで、石棒の屋内出土を取り上げて、その住居を特殊視し、司祭者の家屋あるいは共同 […]

医生の履修すべき経書

太素 令文に見えない。中国古代医学の古典、黄帝内経を唐の楊上善が改編した黄帝内経太素三十巻のこと。日本国見在書目録に「内経大素三十<楊上(善)撰とある。全三十巻のうち、二十三巻分が京都仁和寺に伝来する。 甲乙 医疾令3義解に十二巻、日本国見在書目録に「黄帝甲乙経十二(巻)<玄晏先生撰>」とある。西晋の皇甫謐(号玄晏先生)の撰した鍼灸の書。 脈経 義解に二巻とある。西晋の王叔和の撰。漢代以来の […]

1 4 6